5-8 理不尽との邂逅3
一見普通に見えるものの、所々香ばしいアクセアリーが覗くブレザーの少女をなだめすかしてやってきたのは、階層を繋ぐ階段。
下層であればまだしもあるだろう人通りも、上層ともなれば往来にはエレベーターを用いる者が一般的であり、態々階段を使って移動するなどという物好きはそう多くは無く。
黄泉路と少女――田中寄子が立つ踊り場に人気は無い。まるで日常から零れ落ちた穴の様な静寂の中、向かい合った少女は髪を靡かせて大仰に黄泉路へと振り返った。
艶やかな黒髪が、表のフロアと比べて仄かに暗い踊り場の照明を受けて光沢を帯びる。
「ふむ。ここならば問題なかろう? 少年よ」
「少年て。たぶん僕の方が年上だと思うけど……」
「我とて全能ではあるが全知ではない。名乗らぬ相手の真名など我は分からぬからな。少年を少年と呼んで何が悪いのだ?」
あっけらかんとして、今年をして20を超えただろう黄泉路に対してそう宣言して憚らないのは、どうみても中学生。
生徒手帳に記載された生年月日を見るならば、当年とって14歳の少女である。
呆れて閉口してしまっていたが、自身とて外見だけで言うならば少女とさほど変わりないという事実を、このとき黄泉路はすっかり忘却しているのだからある意味ではお互い様といえよう。
ややあって、ともあれ相手が自己紹介を求めているのだと遅まきながら理解した黄泉路は、極力落ち着いた声音でもって少女へと名乗る。
「迎坂黄泉路。僕のことは黄泉路って呼んで――」
「お、おおおおおおぉぉ!?」
黄泉路の言葉を遮り、突如として咆哮とも悲鳴ともつかない感嘆の声をあげる少女に、黄泉路の肩がビクリと跳ねる。
「いやいや、素晴らしい。素晴らしすぎるぞその名前! 坂にて迎えるというただの苗字、だがそこに黄泉、そこへ至る路などという死を暗示させる名が前の語を装飾して全てを包括し、他者の死を迎える冥府への入り口であるかのようなこの字面……! おおよそ凡人には思いもつけぬ深淵にして冒涜的な真名よな!」
「あ、ははは……」
自己紹介をさえぎり、熱烈に感想を捲くし立てる寄子の姿に、自身が考えて名乗っていた訳ではないのにも拘らず、妙に恥ずかしい名前に思えてしまって黄泉路の口からは乾いた笑いが零れる。
だが、今更別の名前を名乗る気もない。黄泉路という名はリーダーから貰い、夜鷹の面々との繋がりを示す大事な名前であるからだ。
羞恥を押し殺して、ともあれ自分の名前から離れるように、かつ、相手の話題にあわせるならばと僅かに逡巡してから黄泉路は問いかける。
「……で、キミの名前はなんなんだい?」
「――ほぅ」
勿体ぶった調子を心掛けて、僅かに斜に構えた姿勢で問いかける黄泉路に、スッと寄子の眼が細まる。
無論、黄泉路は既に目の前の少女の名を知っている。田中寄子という生徒手帳に記載された名前は偽りではないだろう。
故にここで尋ねた名前というのは、少女の実名ではなく。
「ふっ。良いだろう。深淵に身を置きし汝ならば、我が名を聞くに値する」
「う、うん」
「瞠目するが良い! 我こそは遍く星が等しく還りつく闇を纏い、万象を統べし原初の光を身に宿す、古の運命に抗いし終焉の魔術師、黒帝院刹那である!」
どうにか、寄子の言葉から装飾語を省いて自称を聞き出した黄泉路は小さく頷く。
こういった手合いは自称する名前を呼んであげた方がスムーズに話が進むというのは、やはり実体験に基づいた対処法であった。
「……で、黒帝院さん。折角場所を静かな場所に移したんだし、声を張り上げる必要はないんじゃないかな?」
「む。しかし、古よりの契約により我が名を隠し立てはできん」
「隠す必要はないと思うけど、それでも声を張り上げるのは……あー……えーっと……“闇を知らない無辜の者達を怯えさせるだけではないか”」
どうにかこうにか、一般の人の迷惑になるから声のトーンは落とそうね。と、ただそれだけを伝える為に黄泉路は頭を捻る。
無駄に普段使わない思考回路が悲鳴を上げるような錯覚と、背筋に這い上がる気恥ずかしさと背徳感の様なものが混ざり合った奇妙な快感に飲まれかけている自分にハッとなり、慌てて小さく首を振る。
厨二の魔力に惹かれかけていた黄泉路であったが、そんな様子とは関わりないとばかりに寄子――刹那は愉しげに笑う。
「なんだ、その様な事を気にしておったのか。無論、その面に関しての配慮は欠いておらん。ここには静寂の棺を使ってあるからな」
「さ、サイ?」
「何を呆けている。人避けの結界だ。汝とて使えるだろう」
「あー……」
「……まぁいい。我の力量を試そうとしたのだと思っておく事にしよう」
うんうん。と、勝手に喋り、勝手に納得する刹那。
そんな様子に黄泉路は思わず溜息が漏れそうになるのを堪えるのと入れ違いに、そういえば、どうして自分は目の前の少女とこんな場所で二人きりになってしまったのだっけかという疑問が持ち上がってくる。
「……まぁ。うん。騒いでも問題がないというのならそれでいいや。所で、黒帝院さんは僕に何か用事があるのかな?」
「む。あるぞ、用事ならあるとも。我は古の誓約により、受けた恩には報いねばならんのだ」
「恩って、そんな大層なことは――」
「我が仮初の証明を取り戻してくれたではないか。なればこそ、我は汝の頼みを引き受けるのだ」
「……あー。じゃあ、えっと。僕、これから用事があるから」
「用事!? ふむ、何でも言うといい。我がその用事とやらを簡潔明瞭に解決して見せよう」
「え、あの。いや、僕、ただ家具を買いに来ただけで――」
「ふむ。調度品目当てであったか。なればこそ我に任せるが良い。大船どころか天駆ける船とて我が相手と知れば泣いて詫びるのだからな! さぁ黄泉路、ついてこい!」
「え、えー!?」
刹那がぐいっと黄泉路の手を掴み、そのままずんずんと歩き出す。
振りほどこうという選択肢に気づく事すらできないほどに困惑した黄泉路は人でごった返したフロアの中へと戻ってゆきながら、脳裏にちらりと映った、今もなお自身を探しているであろうカガリへと小さく謝罪するのだった。