5-7 理不尽との邂逅2
はぐれた。そう認識したのは、思考の海から戻ってきてわずか数秒の事。
だが、はぐれるまでにどれだけの時間が過ぎたのか定かではなく、既に歩いてきた道すらもおぼろげな黄泉路にとって大した違いはない。
迷子になって困り果てているという現実は一切揺るがないと、正しく理解できていたのだ。
「……どうしよう」
せめてもの抵抗にと視線をさまよわせてみるものの、黄泉路の背はさほど高くない。
人が行きかう中にあっては埋没してしまう程度の身長である事を除いたとして、現状が好転するとは思えないわけであるが。
兎にも角にも、ある程度指標になりやすい場所にでようと、案内板を目指して歩きだす。
幸いにしてデパートは迷路でもなければ自然物でもない。人を迎え、もてなす為の建物である。
それはつまり、人が迷わないようにする工夫がされているという事と同義である。
天井近くにつるされたプレートの案内を頼りに、デパート全体の案内板へとたどり着いた黄泉路はホッと息を吐いた。
案内板の近くはさほど込み合ってはおらず、時折立ち止まる人も目的の場所を見つければ早々に立ち去ってゆく。
そんな人の往来を横目で流しつつ、黄泉路は視線を地図へと向ける。
現在地はどうやら服飾店が軒を連ねるエリアであるらしく、カガリの言っていた家具コーナーとはまた違った場所であった。
とにかく、家具コーナーまで行けば合流は出来るだろうかと、黄泉路が踵を返しかけた時。
何かが落ちたのを視界の端で捉え、思わず足が止まる。
「手帳?」
落とし主らしい少女に気づいた様子はなく、一心不乱に案内板の地図を眺めて唸っていた。
どこかの学校の制服だろう。休日でありながら紺色のブレザーを着用したままというあたり、真面目なのか、それとも私服を持つ事が面倒なのか。
墨をぶちまけたような黒髪が背に流れ、こげ茶色の瞳は忙しなく案内板へと向けられたままぐるぐると動いていた。
さすがに見過ごして立ち去るというのも気が引けると、手帳を拾い上げて黄泉路は気づく。
手帳だと思っていたそれは、学生が所持し、その身分を証明するのに用いる生徒手帳であった。
本来ならば学生であった黄泉路にとっても馴染みの深いそれを何気なく開き、少女の氏名が記載されている事に気づいてハッとなって閉じる。
「あの」
「むむむ……」
「あのー」
声を掛けても一向に返事をする様子のない少女に、黄泉路はもう一度、先程よりもやや大きめに声をかけつつ、少女の肩に軽く触れる。
「ひゃぅ!?」
「っ!?」
「な、なななな、なんだ貴様はッ! さては暗黒結社ネクロスの手先か!?」
「え、ね? 何?」
ぴょんと跳ねた少女が勢い良く距離をとって大声で叫んだ事で、意図せず周囲の注目を浴びてしまった黄泉路であったが、少女の発言にそれどころではない何かを感じてしまっていた。
見た目に反してとてつもなく言動の怪しい少女になんと声を掛ければ良いか迷ったままにらみ合う事数秒、少女はふと、黄泉路が手にしていた生徒手帳の存在に気づいたように目を見開く。
「それは! 我が仮初の証明ではないか!?」
「え、あ。うん。落としたよって教えようとしたんだけど、驚かせてごめんね?」
「……む、その様な事で我が器に気安く触れたのか。……まぁよい。大義であった」
尊大な態度のまま、つつましい胸元を強調するようにそらして右手を差し出してくる少女に、黄泉路は反射的に手帳をその手に乗せる。
手帳を受け取った少女はそのままいそいそと仕舞い込み、今度こそ零れ落ちない様にしまいこめたことに満足した様子で黄泉路に向き直る。
「うむ。汝も運が良かったな。我が器に触れて侵食されておらぬなど、数千人に一人の逸材だ。素養のない者が触れればたちまち闇に食われていたであろう」
「あー……えーっと」
「ともあれ、善行には善行を返さねばならぬな。これは古よりの契りにて定められた我が魂の誓約なのだ」
「……」
聞いても居ない事をつらつらと捲くし立てる少女に、黄泉路は閉口してしまう。
「(あ……この子たぶん厨二病って奴だ……常群と気が合いそう)」
思わずそんな事を考えてしまうくらいには、黄泉路の思考は現実を離れたがっていたのだから、その程度は推して知るべしといった所である。
「我こそは真なる魔にして高貴なる闇の末裔、我が名は――」
「ええっと、ちょっといいかな、寄子ちゃん」
「――なっ!? どうして貴様が我が仮初の器の名を!? さては貴様やはりネクロスの――」
「あー。えっと。ごめんね。手帳拾った時に見えちゃって。悪気があったわけじゃないんだけど、ひとまず良いかな?」
「なんだ?」
「とりあえず、もうちょっと静かな場所に行かない? ……闇の末裔で、世を忍んでるなら、あまり人の多い場所で名乗るのは問題なんじゃないかな?」
この手の人種と円滑に付き合うには。
その手法はとりあえず相手の話に合わせてあげつつ軌道を修正することであると、黄泉路は知っている。
在りし日の常群がまさにそうであったのだから、付き合ううちに自然と身についたというほうが正しいが、そんな経験がまさか役に立つ日が来るとはと、黄泉路は内心苦笑しながらも至極真面目な顔を整えて少女――田中寄子へと提言したのだった。