5-2 傷痕2
普段の倍以上の時間を費やして清掃を終えた黄泉路は、ぼんやりとした心持のまま、もはや歩き慣れた支部の廊下を辿って自身に割り当てられた部屋へと向かう。
地下という事もあって夏場であっても廊下の気温はさほど高くない。
加えて、塗装もない鉄筋コンクリートで構成された灰色一色に白色の蛍光灯が等間隔で照らすだけの代わり映えのない景色は静けさも相まって冷気を帯びているようであった。
本来であれば依頼の内容によっては依頼人や保護対象を一時的に支部で匿う事もあるのだが、夜鷹支部に限っては上部が旅館であり、ただ匿うだけならばそちらでも十分に事足りてしまう。
その為、元より所属している人員の数に比べてかなり大規模な支部は常時閑散とした印象を抱かせるのだ。
無味乾燥とした光景――以前は気にも留めなかった、否、極力気にしないようにと努めていたそれが、事件により立ち止まらざるを得なくなった黄泉路にかつての施設を思い起こさせていた。
肺に取り込んだ空気を吐き出すたびに自身が生きている実感を得ると同時に、ただ生きているだけの自分自身に対する嫌悪感に、その足取りは更に重いものになってしまう。
「(……美花さんに、謝らなきゃ)」
無自覚だったとはいえ一度は配慮に欠けた問いかけで。
そして今は、やはり自らの不甲斐なさ故に美花に迷惑をかけている事に加え、最初の失言を謝罪する機会を逸してから今の今まで事後処理を言い訳に伸ばし伸ばしに時間だけが過ぎてしまっていた。
いつ謝ろう、どう謝ろうと、当初は顔を合わせた時真っ先に謝るつもりでいたはずだが、アクシデントもあって出鼻をくじかれてしまった事で、再び黄泉路の小心者な部分が顔を出してしまった結果であった。
考えれば考えるほど深みに嵌る思考に歯止めを掛ける事もできず、とうとう自身の部屋の扉が見えてくるといった所で、黄泉路はふと、廊下に――自身の部屋の前に誰かが立っている事に気づく。
「お。なんだ。今戻りか?」
「あ……カガリさ……煤賀さん」
「燎で良いよ。何かあったか? ミケ姐が悩んでたぞ」
「あ……えっと……」
どうやら心配して様子を見に来てくれたらしいカガリに、話すべきかどうかをしばし逡巡したものの、どちらとも付き合いがあり、どうやら美花に自分と会うように説得してくれたらしいカガリに相談する事に決めて黄泉路は口を開く。
「……はい。相談、乗ってくれますか?」
「ああ。いいぜ。っつっても廊下じゃ何だし。入って良いか?」
「はい。すみません、今開けますね」
ちらりと戸のほうへと意識を向けて問うカガリに黄泉路は気持ち小走りで扉の鍵を開けてカガリを招き入れる。
生活必需品しかないといっていい無味乾燥とした、辛うじて生活感のある室内を見回すなり、カガリはやれやれと首を振る。
「おいおい。相変わらず殺風景な部屋だなぁ。壁紙くらい貼りゃあいいのに」
「あはは……無駄遣いは良くないかなって」
「遠慮すんなよ。俺達はもうこの支部の仲間なんだぜ?」
「……僕、まだ、何の役にも立ててない、から……」
ぽつりと吐き出された言葉は、居場所に対する渇望と、自分の立場に対する不安。
雑談の流れで口を突いただけのはずであったが、しかし、黄泉路は自身の声が大気に触れ、喉の振動が自らの耳で知覚した途端、それは自身の偽らざる本心だと、目を背け続けてきた本心の一端であると気づく。
また、カガリも、その言葉が含む色を敏感に察して顔を顰め、つかつかとコンクリートの床に足音を響かせながら大股で黄泉路の前までやってくるなり、ぐにっ。と、音が鳴りそうなほどに黄泉路の両頬を指で摘み伸ばす。
「い、痛っ!?」
「うるせぇ」
「っ」
「お前はもう俺達の仲間だ」
高さをあわせるでもなく、10cmほども高い位置から見下ろすカガリを仰ぎ見た黄泉路は、言葉を失ってしまう。
「お前が役に立つとか、立たないとか。そんなのは関係ねぇんだよ。少なくとも夜鷹の連中は、お前が役に立つからここに置いてるわけじゃねぇ」
「す……みません」
「謝んな」
ぴん、と。指先で額を弾かれ、黄泉路は目を瞬かせて俯き掛けた顔を上げる。
つい先程、というにはやや時間が過ぎてしまっているものの、こうして立て続けにデコピンをされれば何事かと口を開きかけ、見上げた視界に飛び込んできたカガリの表情に喉元まで出掛かっていた言葉を見失ってしまう。
痛みを堪えるような、懐かしいものへと向ける複雑な感情を秘めた苦笑を浮かべたカガリは、くしゃりと黄泉路の頭を撫でる。
「焦んなよ。俺達はどっかに行ったりしねぇし、ちゃんとお前がついてくるまで待っててやるから」
「は……い」
「とりあえず、この話はこれで終わりな」
軽く叩くように黄泉路の頭を撫でたカガリはぶつ切りの返答でも満足した様子で手をはなすと、机に向かい合わされていた椅子を引いて背凭れを前にして座る。
視線で黄泉路にも何処かに座るように促すカガリに、部屋の主であるはずの黄泉路は僅かに視線をめぐらせ、結局はベッドに腰掛ける事で向かい合う。
「……んで、相談ってのは、それじゃねぇんだろ?」
一呼吸置いたカガリに促されるままに、黄泉路は口を開いた。