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5-1 傷痕1

 迎坂黄泉路の初依頼である、朝軒一家にまつわる一連の事件の一応の解決から4日。

 黄泉路、姫更、美花の3名は、警察への連絡とその他事後処理のどさくさに紛れるように姫更の能力(スキル)そこにいない子猫(シュレーディンガー)】による【座標(チェンジ・)交換(ポジション)】で本拠点である夜鷹の止まり木へと帰還していた。

 支部長である皆見――南条果(なんじょうこのみ)と笹井の話し合いの結果、細々とした事後処理を笹井支部が受け持つ事となり、夜鷹支部には一応の平穏が戻り始め、黄泉路と美花は、日課となりつつあるトレーニングルームにおいて模擬戦を行っていた。


「――遅い」

「が、ァ……ッ!」

「……」


 現在行われているのは、先の黄泉路の初実戦において相対した相手である、恐らくは【筋力強化】を保有する能力者にどう対応するか、という物であった。

 美花の、女性の細腕とは思えないような力強い拳が、先の戦闘において一定の成果を上げた速度による強襲を仕掛けようと姿勢を屈めて駆け込んできた黄泉路の顎を見事に捉え、自らのつけた加速をひっくり返される勢いで宙を舞う。

 硬いコンクリートの床――模擬戦を行うトレーニングルームにおいて聊か不向きなのではとも思われるが、ルールのある格闘技の練習をしている訳ではない。至極実戦的な訓練を想定しているのだから、現代社会において硬い地面と言うのはありふれているという意味では、むしろ適しているといえる――に打ち付けられ、黄泉路の喉から絞り上げられたようなか細い悲鳴が零れた。

 そのまま立ち上がるそぶりもなく、瞳からぼろぼろと涙をこぼしながら、痛みが錯綜して顎と後頭部、どちらが痛いのかもわからずに転げまわる黄泉路の姿に、美花は小さく溜息を吐いて近寄ってゆく。


「黄泉路」

「――っ!?」


 至極冷静な声が降ってきた事で痛みの中に一定の危機感を見出した黄泉路が慌てて体勢を整えようとするものの、美花の指先がふらふらと立ち上がろうとした黄泉路の額を弾くだけで、その努力もむなしく黄泉路は床に尻餅をついてしまう。


「今日は、終わり」

「……え、でも、まだ……」

「今やっても、意味がないから」

「……っ」


 端的に告げられた言葉が黄泉路の胸に突き刺さる。

 美花に悪気があって言っているのではない事が理解できてしまうが故に、その言葉は余計に黄泉路の胸を抉る。


「お、ねがいします、僕は、強く――」

「強くなりたいのは理解できるし協力もする。だけど、今の黄泉路にはこの訓練は無意味」

「……」

「とにかく、今日は休む。明日の訓練も、ダメそう(・・・・)なら申告する。わかった?」

「……はい」


 それだけ告げて部屋を後にした美花の背を眺め、未だにずきずきと痛み続ける後頭部をさすりながら、黄泉路は小さく返事をすることしか出来なかった。

 ひとり部屋に残された黄泉路は立ち上がる事もせず、後頭部の痛みが退いてゆく感覚に、先ほどまで頭に宛がっていた右手をぼんやりと見下ろす。

 そこに付いた自らの血糊がさらさらと消えて行く様に小さく溜息を吐き、握り締めた拳を自らの額に打ち付ける。


「――っ!!!」


 パシン、と。小気味いい音を響かせて脳が揺れる感覚。

 それと同時に感じるひりひりとした痛み(・・)。黄泉路は握り締めた拳を開いて目元を隠した。

 その手の隙間から頬を伝う雫が大気に触れて皮膚を冷やす感触がささくれた神経を逆撫でて、涙が止め処なくあふれてしまう。


「う、ううぅぅぅ……ッ」


 静寂の中に黄泉路の嗚咽だけが響き、それすらも次第に小さく、掻き消えるほどにか細くなる。

 乱れた呼気すらも雑音として拾えてしまうほどの、耳に刺さるような静けさだけが黄泉路に寄り添っていた。


「……」


 ひとしきり泣き終えた黄泉路は、緩やかに立ち上がって清掃用具を取りに向かう。

 痛みはない。既に治癒しきってしまったが故に、痛みの元となる傷自体が消失しているからこそ、痛みはひいている。

 だが、傷を負えば再び痛みにのた打ち回るだろうという確信が黄泉路の胸を締め付ける。

 蛇口を捻り、バケツに水をためる。水がプラスチックの器に注ぎ込まれる軽い音が耳に心地良く、バケツにたっぷりと水が注ぎ込まれてあふれ出したのをきっかけにはっとなって蛇口を閉める。

 重くなったバケツから少しばかり水をこぼして量を調整して、モップを肩にかけて掃除を始める。

 単調な作業の中で頭によぎるのは、自らの心境の整理も兼ねた自己嫌悪。


「(……僕は、人を殺した。その事に、たぶん。罪悪感は、ない)」


 土壇場で止めを刺したとはいえ、あの戦いは終始、朝軒夫妻を殺した男を殺すための(・・・・・)作戦を頭の中で描きながら立ち回っていた。

 それはつまり、酷く冷静に、ひとりの人間を殺そうとした事に他ならない。



 黄泉路は考える。

 かつての自分は、そこまで冷静に人を殺せる人間だっただろうか。

 そんなはずはない、自分は、ただの一般人だったのだから。



 黄泉路は思う。

 自身の死を体験しすぎて、死が身近になりすぎたのだろうか。

 それも違う。なぜなら、今でも自身は死が怖いのだから。



 黄泉路は知っている。

 あの場に佇んでいる罪の象徴と対面する事を、自分は恐れている事を。

 それが、自らの能力を使う事を恐れている原因である事も。






 今感じている痛みとは、罪からの逃避そのものだ。



 



 思わず、溜息交じりの声が漏れる。


「……何やってるんだろう。僕」


 もうあんな悲劇を起こさせたくない――受け入れたくないと、力を望み、訓練を求めておきながら。

 自分の卑小さを直視したくないが為に、身体が竦んで訓練に支障をきたす有様に。

 あまりにも自分勝手で愚かな矛盾に辟易とした想いがあふれ出して、黄泉路の胸の内を黒く染め上げる。

 自分を気遣ってくれる美花やカガリの存在。どうにか許そうと、黄泉路よりもはるかに幼いにも拘らず、責めない様にと言葉を選んだ廻の、何処か達観した立ち振る舞い。

 全てが黄泉路自身の不甲斐なさや醜さを突きつけてくる様に感じてしまって、黄泉路は大きく息を吐いた。

 意識だけが深く深く滅入り、沈みこんでいく中で、水に濡れたモップがコンクリートを擦る規則正しい音だけが、黄泉路と現実を繋ぎ止めていた。

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