4-44 依頼のその後2
重い沈黙を破り、美花が口を開く。
「……黄泉路、何を言いかけたの?」
問われてしまえば、黄泉路は言い逃れする事はできない。
腹をくくり、黄泉路が不可抗力とはいえ美花の胸に触れ、顔を埋めてしまった事実を謝罪すれば、美花は何を思ったのか、拍子抜けしたような表情を浮かべて緩やかに首を振る。
「それは確かに不可抗力。黄泉路は悪くない。カガリみたく揉んでないなら尚更」
「え、いや、カガリさん胸揉んだんですか?」
「失言。忘れて」
「……はい」
あっさりと許された事実と、それを上書きするような告白に、黄泉路は思わず脱力したような声を上げてしまう。
仄かに空気がやわらかくなったような感触に表情が緩むも、美花はすっと顔を引き締めて黄泉路を見据える。
「あ、の、何か?」
「心配した」
「……すみません」
「いい。無事ならそれでいい」
黄泉路の頭に美花の手が置かれる。困惑する黄泉路を余所に、美花の手が無遠慮に頭を撫で、寝癖と合わせて髪が乱れてゆく。
思わず目を瞑り、心地良くも気恥ずかしい感触を受け止める。
「……美花さん」
「ん」
「どうなったのか、聞いても良いですか?」
黄泉路が美香と最後に会ったのは、もう随分前の事だ。
失言から距離をとられたまま、初めての依頼を受けて、こうして笹井支部で貸し与えられた部屋に寝かされていた。
黄泉路が姫更の警告を受けて朝軒邸へと急行した後にこの状況へといたるために欠けたピースを求め、黄泉路は美花をじっと見つめる。
その目の奥に隠れた恐怖と不安を垣間見た美花は黄泉路の頭を撫でていた手を引っ込めると、静かに語りだした。
「私がここに居るのは、姫と……カガリのお陰」
「姫ちゃんと、カガリさん、ですか……?」
「黄泉路が逃がした子が、姫と会って、夜鷹に連絡してくれた。私は連絡を受けて、助けに来たけど。その必要は、なかった」
「……」
淡々とした美花の言葉の中に混ざりこむ感情が何であるのか、黄泉路には判断する事はできない。
ただ、自らを心配してくれた事、事件が、終わった事を理解した黄泉路は、小さく息を吐いてから思い出したように美花に尋ねる。
「あれから、どれ位経ってますか」
「大体、半日。もう日も暮れる」
「廻君――依頼の、男の子は無事ですか?」
「……ん」
短い応答と共に、美花の視線が部屋の唯一の出入り口である襖へと向けられる。
すると、タイミングを計っていた様にするりと開かれた襖の間から、見慣れた少年の顔が覗く。
その顔は、安堵しているような、怯えるような、困惑と不安が入り混じった子供のものであった。
お互いが言葉に詰まった結果、沈黙の間にお互いの視線だけが向かい合う。
美花も何かを言うつもりはない様子で、僅かに姿勢をずらして黄泉路と廻の間を空ける様に位置を変える。
「――あ」
「黄泉路さん」
ややあって、黄泉路が口を開きかけた時だった。
黄泉路の言葉を遮るように、廻が黄泉路の名を呼ぶ。
その声に、吐き出しかけた言葉を失って黄泉路は僅かに肩を揺らす。
すぅっと、息を吸い込んだ子供の小さな胸が膨らむ。空気を音に変えるために溜め込まれたそれが吐き出される瞬間が、ほんの一瞬の事であるはずなのに、黄泉路にとっては目が覚めてから何よりも長い時間のように感じられた。
約束を守れなかった。人を殺した。そのどちらも、どちらか片方だけであっても、廻が黄泉路を拒絶し、罵倒する理由としては十分すぎる。
その自覚があるからこそ、黄泉路は断罪を待つ咎人の様に、呼吸をするのも忘れて廻の顔を見つめていた。
「黄泉路さん」
「……うん」
「――ありがとう。ございました」
「なんで」
そんな事がいえるのか。そう口にしようとして、黄泉路は言葉に詰まる。
黄泉路が廃工場に飛び込んだ時、廻に夫妻の安否を知る術はない。だからこそあの時は助けに来た黄泉路に素直に従ったのだと黄泉路は理解している。
そして、半日が過ぎた現在。廻は既に知っている。幾ら子供といえど、唯一残った肉親の安否を伝えないなどという事はないだろう。
時間を確認し、廻の安否を確認した黄泉路は、受け入れる覚悟をした。
罵倒されると思っていた。拒絶されると思っていた。
それで良いと、受け入れる覚悟をしたつもりであった。
「ちゃんと、お礼をいわなきゃって思って……助けてもらった事も、相談に乗ってもらった事も、どっちも、黄泉路さんがしてくれた事だから」
黄泉路よりも、はるかに幼いはずの廻の言葉。
許す許さないではなく、許そうという、廻なりの考えた結果が滲む言い回しに、黄泉路の頬に雫が伝う。
「ごめんなさい。僕もまだ、色々あって混乱してるから……ひどい事を言う前に、ひとまず、これだけは伝えておきたくて」
「……」
「それじゃ、僕は下に戻りますね」
言うが早いか、廻は襖を閉めると廊下を小走りで離れてゆく軽い音が響く。
これ以上顔を合わせていると、抑えているものがあふれ出しそうになるのだという事を、去り際の廻の表情が物語っていた。
廻の幾度も耳に残り、幾度も思い返すたびに、自身の情けなさと狭量さを突きつけられたような気分になり、黄泉路は小さく嗚咽を漏らす。
「僕は……助けられなかった……巌夫さんも……妙恵さんも……僕が、廻君に能力を、使わせてしまった……僕の所為で――」
「黄泉路」
美花の存在も忘れ、つい、黄泉路の本音が零れ落ちる。
断罪を求める懺悔の様な黄泉路の言葉を、横で流れを聞いていた美花の声が遮った。
「私は詳しい経緯を知らない」
「……」
「でも、黄泉路が手を抜くような奴じゃないのは知ってる」
「……」
「明日には、夜鷹に戻る。それまで休む。わかった?」
「……はい」
部屋に備え付けられたテッシュで涙を拭う黄泉路を見届け、美花も襖から廊下へ、恐らくは笹井の待つ1階へと降りていったのだろう。足音が遠のき、静寂が訪れた。
一人残された黄泉路は再び布団に潜り込み、自らの体温が残る柔らかな感触に身を委ねる。
起きていると、自分を責めない周囲に、甘えてしまいそうだったからだ。
「……僕は……どうすればよかったんだろう」
何が正解だったのか。
それだけを求めて、暗い部屋の、更に暗い布団の中で、黄泉路の思考だけがぐるぐると渦を巻いていた。