4-43 依頼のその後
判然としないぼんやりとした思考の中で、黄泉路の意識が気泡のように浮上する。
目蓋の裏を見るような光の斑は暗い。目を開ければ、暗い中でも木製の天井の梁がうっすらと視界に広がっていた。
見覚えのある光景に黄泉路は首を傾げる。記憶がひどく曖昧だった。
「……」
気だるく感じる身体の感覚に、まだ水の中に居るのではないかという錯覚が意識の端に浮かんでは消える。
「……(まだ? 僕は、いつ水の中に……)」
順繰りに思い返してゆく黄泉路の思考の中でぼんやりとしていた記憶が、浮かび上がる気泡のように表層に現れ始める。
朝軒邸で夫妻に起きた不幸。否、黄泉路の、力不足の結果。
廃工場での戦い。男を手にかけたという実感に、重く持ち上げる気にもならなかった右手が更に重くなったような気がして、このまま、二度と持ち上がらないのではないか。そんな恐怖心が鎌首をもたげる。
恐る恐るといった具合に持ち上げた右腕は、やはり重く感じた。ボタンを掛け違えた衣類を見ているような違和感としっくりこない時に抱く僅かな不快感。それらが希釈されて全身にコーティングされている様な、不気味な感覚だった。
天井へと一筋、伸ばされた右腕と、開かれた五指の間に見える古ぼけた円形の蛍光灯。四角形の傘が木目のわかる天井と合わさって、昔ながらの和室を思わせる。
その天井自体は何の変哲もないものだが、黄泉路にとってはそうではない。浮き上がった記憶からすれば、目の前の光景に繋がるにはいくつかのピースが足りないのだ。
ただ、自身がここに居る、それ自体は悪いことではないと理解した黄泉路は、小さく呻く様に口を開く。
「……ぅ」
普通どおりに声が出る。その事実だけでも喜ばしいとすら思える自らの心境に驚く黄泉路であったが、支える事に疲れ、投げ出すように降ろした右腕が柔らかな何かに触れた事で、意識がそちらへと傾けられる。
それは床のように固いものではなかった。むしろ、弾むような弾力があって、心地良い暖かさを保っている。まるで、人の体のようだ。
自らの頭の横、ひじを曲げて投げ出した腕の先、手の甲に感じる柔らかな心地に目をむけた瞬間、黄泉路の意識に先ほどとはまた別の混沌が訪れた。
「――え?」
「……ん、んん……っ」
そこにあったのは二つの山だ。
いや、正確には、薄く黒い布地に覆われた肉感溢れる人肌の肉の塊だった。
黄泉路は自らの手を丁度山の合間に降ろしてしまっていることに気づけば、そういった経験の皆無な少年としてはどうしたらいいのかわからず、ただただ混乱するしかない。
恐る恐る、黄泉路は視線を胸の上へと向ける。
そこにはやや懐かしいとすらいえる、しかし、忘れようのない女性の顔があった。
「――美、花さん……」
眠たげな瞳は閉じられ――黄泉路にとっては幸いな事に――眠っているのだろう。よくよく見れば整った顔立ちが警戒も薄く黄泉路のすぐ傍にあった。
目が覚めたら美女が隣に眠っていて、自らの腕はその豊満な胸に投げ出されている。黄泉路の友人であった常群ならば歓喜するだろう展開であろうとは思うものの、現実として素直に喜べるほど、黄泉路は開き直っては居ない。
手をどけるべきか否か。逡巡する黄泉路の体からは既に倦怠感などは吹き飛んでしまっていて、室内の暗さも相まって自身の心臓の鼓動と、手の甲を通じて感じる美花の鼓動、その二つだけが異様に大きくなったように感じ、黄泉路は小さく息を吸って吐き出す。
小さな深呼吸が黄泉路に冷静さを取り戻させる。そろりと視線を向ければ、未だ目覚める様子がない美花の様子が見て取れ、それならば起こさないように手を引いて、何事もなかったかのように起きればそれでいいではないか。
そう、ひどく現実的で色気の欠片もない結論に達した黄泉路が身動ぎした途端。
「む……ぅ……んん……」
「っ、ちょ、美花さ――んっ」
仄かに鼻に触れる、自分のものではない汗の香り。それが美花のものであることは、黄泉路でも理解できる。
理解できてしまうからこそ、黄泉路は更に困惑を深めてしまう。
黄泉路が手をどかそうとした瞬間、美花が追いかけるように身動ぎし、黄泉路の方へと体を傾けたのだ。
それによって何が起きるかといえば、美花のその豊満な胸に、丁度顔をそちらへと向けていた黄泉路の頭が挟み込まれるという現状であった。
幸いにして手をどかす事に成功はしていたが、しかし、状況が改善されたかといえば否といわざるを得ないだろう。
さすがにこれは故意でなくても許されない。そう囁き掛ける黄泉路の理性であったが、がっちりと頭を抱きこむようにのしかかってくる美花から身を引くには、どうしても大きく動かざるを得ず、そうなれば美花といえど起きてしまうだろう。
ここで落ち着いて幸運を甘受したり、開き直って寝なおせるほど黄泉路の神経は図太くない。
腹をくくるべきか否か。逡巡する黄泉路であったが、結局は無理にでも抜け出して謝罪してしまったほうが後腐れはないだろうという、やはり保身的な結論に着地して、ゆっくりと身を起こそうと力を入れる。
体を持ち上げ、美花から離れようとする黄泉路の動きに気づき、美花の目がうっすらと開かれる。
「……」
「美花さん、起きてください」
「んー……よみ……じ?」
「ですよ。おはようございます」
とりあえず当たり障りのない対応を、と。いまだ寝ぼけた様子の美花に対して曖昧に微笑みながらどさくさに紛れて顔をあげた黄泉路が挨拶すれば、美花もややあって緩やかに体を起こす。
「おはよう……」
「……え、っと」
言葉に詰まる。それはそうだ。寝ぼけていて、もしかするならばまだ美花は不可抗力とはいえ黄泉路が仕出かした事を理解していない可能性だって有るのだ。
態々自己申告して不興を買いに行くほど、黄泉路は誠実ではない。
黄泉路にとっては気まずい、そんな沈黙が横たわる中、美花は幾度か目元を擦り、意識をはっきりさせるように伸びをした後、改めて黄泉路へと目を向ける。
どうやら完全に覚醒したらしい美花の視線が黄泉路に突き刺さる。誠実ではない。だが、負い目のある状態で無言で見つめられ続けて自白しないほど、黄泉路は図太くもないのだ。
「あの、すみませ――」
「ごめんなさい」
「……え?」
「うん?」
互いの言葉が交錯し、再び間が開いた。
先ほどとはまた違った、黄泉路と美花、二人の間で共通の気まずさが室内を満たしていた。