4-41 赤い世界
うすぼんやりとした暗がりが広がる中で、黄泉路はふと意識を取り戻した。
どこまでも続くように広く、しかし、数メートル先すら見通せないほどに暗い水の底。
もう何度目かにもなる、死後の世界と思しき空間に、黄泉路は小さく息を吐きだす。
ゴポリ。と、口から泡が湧き上がって上ってゆくのを見上げ、ふと、今までと違う事に気づいた。
「――あれ。光が……」
黄泉路だけを照らすように、頭上から差し込んでいた光の消失。
どこまでも暗い世界に射していた一筋の光すら消えた常闇の水底に、黄泉路は戸惑うように視線をめぐらせる。
「僕……何してたんだっけ……」
どうにも記憶が曖昧な気がして、ここへ到るまでに何をしていたのだったかと、黄泉路は記憶を辿る。
そうして周囲の暗さと同じく霞掛かっていた記憶が徐々に鮮明になるに連れて、黄泉路はふっと足から力が抜けるのを感じた。
「そ、うか……僕、勝ったんだ……」
これで終わったのかと、脱力しきった下肢が膝から崩れ、地面を埋め尽くす砂場にへたり込む。
シャリシャリと、砂が踏まれて擦れる音が、妙に遠くに聞こえた。
「トドメを刺して……とど……めを……」
人を、殺した。
自らの記憶を掘り起こし、事実を認識してゆくにつれて、黄泉路の声からは覇気が無くなってゆく。
ふと手を見下ろせば、生々しい殺人の感触が未だ纏わり付き、指先が震えている事を始めて自覚する。
自身の眼で確かめなければ自らの身体の状態も自覚できない程に、黄泉路は憔悴しきっていた。
「うっ……」
仇討ちの意図が、ないとは言い切れない。だが、それはただの装飾、自らを正当化するために着飾った盾である事を、黄泉路自身、嫌というほど理解していた。
「ぼ、くは……なんのために……」
あの男を生かしておいて良い理由は見当たらない。
だが、同時に、黄泉路が殺しても良い理由もまた、見当たらないのだ。
敵討ちならば廻がするべきだし、廻からそう頼まれた事実も無い。ならば、黄泉路がしたのは何だったのか。
そう自問する黄泉路は、すでに答えを持っていた。
「……決まってる。ただの、ワガママだ……」
廻に期待をさせておいて、巌夫や妙恵に期待をさせておいて。
何一つ出来なかった自分という存在が、許せなかった。
だからその前に、自分がこの場にいてよかったと思わせる証が欲しかったのだ。
そんな矮小で卑劣な思惑を、朝軒夫妻の仇討ちなどという綺麗事で包み、人をひとり殺してしまった自分はなんて醜いんだろう。
黄泉路にとって、他人の命とはその程度の価値しかないのだと、突きつけられたようであった。
あの男と何も変わらない。ただ自分の欲求のために人を殺す、あの男と何も変わらないのだと自覚すれば、黄泉路の顔は青を通り越して土気色へと変わってゆく。
自らのおぞましい本音を直視し、黄泉路は自らに大して湧き上がる嫌悪感に吐き気がこみ上げる。
「……っ」
震える手では口元を抑える事もできずに黄泉路は呆然と両手を地面へと下ろした。
深く、浅く、呼吸を繰り返す際にあふれ出た気泡の音だけが微かに響く。
黄泉路は自らの心の安定の為に、別の思考を出来る事を探し始めていた。
そんな浅ましい自身すら嘲笑したい気持ちであったが、しかし、不意に目を向けたそれに、黄泉路は否応なく注意をひきつけられる。
それは無論、この場において気にするには重要度が高いとはいえなかったが、何より、黄泉路は自らの心根の醜さから目を逸らしたいという無意識からの欲求によって、その事実だけを無視してそちらへと意識を傾ける。
手の平に感じる細かな粒の感触、自らの両手をついた状態で、黄泉路は砂へと目を向けた。
「……色が」
初めてこの場を見た時は、たしか水灰色とも言うべき薄くぼやけた砂であった。
二度目に見た時は蒼銀とも言うべき清浄で、どこか厳かさすら感じる流砂であった。
翻って、今はどうだろう。
黄泉路の足元はもちろん、視界の続く先まで広がる砂の大地は、鈍い灰色だった。
「どうして……」
そう口に出した時だった。
――ざあぁぁぁ……
砂の海に波紋が広がるように、灰色の砂が色相を変えてゆく。
黄泉路の両の手の平を中心にして、さりさりと音を立てる砂が、鈍い灰色から、黒々とした赤へと。
それはまるで、男を貫いた手に伝った血肉のような――
「う、わああああっ!?」
慌てた黄泉路が手を引くように持ち上げれば、まるで磁石が砂鉄を吸い寄せるかのように、黄泉路の手に曳かれて砂が盛り上がる。
混乱する黄泉路を余所に、盛り上がった砂は独りでにある形へと変貌してゆく。
それは顔。
荒々しく、見るものに野卑な印象を持たせる男性の顔であった。
砂の集合体であり、作り物めいた生気の感じられないそれであっても、黄泉路はその男性の顔を見間違える事は無い。
「あ、あ、ああ……っ」
何故ならば、それは確かに、黄泉路がつい先ほど止めを刺して、確かに殺した男のものであったから。
「な、んで………どうして、何が――」
困惑し、意味を成さない声が口元から気泡となって零れては浮かぶ。
粘りつくように手に張り付き、髪を模した砂が絡みつく。
「う、わっ!?」
生理的な嫌悪感から、黄泉路は思い切り手を振り払う。
黄泉路が思ったよりも簡単に剥ぎ取られた砂はばしゃりと弾ける様にして飛び散り、その顔を形作っていた赤黒い砂が地面と同化するようにぐずぐずと消えてゆく。
「ぁ……う……」
消えてゆく男をかたどった砂に、黄泉路は男を2度も殺したような錯覚に、自らの手の震えが全身へと伝染してゆく。
冷静になってもなお収まらぬ震え、そして、2度にわたって同じ人間を殺したという感覚に、黄泉路は頭を振る。
「……最低だ」
赤黒い砂地だけが広がる空間に取り残された空間に、黄泉路の懺悔とも聞こえる声音だけが小さく響いた。
ただひたすらに暗く広い世界に一人置かれた事が、これほどまでに恐ろしいのかと、黄泉路は深く息を吐き出す。
心なしか寒いとさえ感じる空間の中、口元から漏れる気泡以外の音が微かに聞こえた。
「――?」
まだ、なにかあるのだろうか。
戦々恐々とした面持ちで、黄泉路は立ち上がって周囲へと意識を向けた。