0-0 終焉へのプロローグ
「はっ、はぁ、はっ、はッ……ッ!」
日中であって尚薄暗い、ビルとビルの間を縫うように張り巡る細い裏路地を駆ける吐息。
心臓が張り裂けそうなほどに、しかし、一切速度を緩める事無く走る少年。
ビル風に靡く髪は黒く、同色の瞳には恐怖や混乱、焦りと言った逼迫した感情がありありと映し出されていた。
身を包む学生服は所々が破れ、まるで獣に襲われたかのような様相を呈している。
後ろを振り返る余裕すらない少年の後ろを追随するように、少年とは別の吐息が駆ける。
こちらは少年の運動不足を如実に物語るような途切れ途切れの息遣いではなく、走りなれた、いや、むしろ“狩り慣れた”者の吐く規則正しい息遣いだった。
「――ぁ……ぐぅッ!?」
角を曲がろうとした少年が、とうとう足を縺れさせて盛大に硬いコンクリートの地面へと身を投げ出した事で、唐突に始まった鬼ごっこは終わりを迎えた。
少年の肺から空気がどっと零れ、全力疾走の疲労とあわせて、少年はその場から一歩も動けなくなってしまう。
逃げられなくなった段になり、漸く少年は後ろを向く。
ひょっとしたら、逃げていたのは自分だけで、アレは追いかけてきてはいないのではないかと。そんな淡い、希望的観測を求めて。
しかし、現実は非情であり、変わることの無い絶望を少年の視界に映し出す。
「……み゛た、なァ゛」
がらがらと掠れ、獣染みた咆哮に混ざるような耳障りな声。
薄汚れたノースリーブのシャツにだぼだぼのズボン、耳に何連と連なったピアスが鈍く光る。
どの部分をとっても好印象とは程遠い容姿の声の主であったがしかし、少年を最も震え上がらせている部分は他にあった。
――手。いや、腕というべきだろうか。
本来ならば人の肌があって然るべきノースリーブの袖口から伸びた二本の腕は、獣の如き体毛に覆われ、その先の爪に至っては金属すら容易く切り裂けてしまうのではないかと思うほどに鋭利で、ナイフの如き長さでもって少年の前でシャキシャキと擦れ合う音を響かせていた。
「ひっ、ァ……ッ!」
少年が嗚咽じみた悲鳴を上げるよりも早く、二足で立つ獣が駆ける。
突風染みた速度で少年に覆いかぶされば、少年は逃れようともがき、声にならない悲鳴を上げた。
その様子を楽しむように、事実、楽しんでいるのだろう。獣はニタリと口を歪めて熱い吐息が少年の首筋にかかる距離でそっと囁く。
「イイねェ……その顔、ゾクゾクすル」
「ぁ、ひ、ぃ……!?」
「女じゃねェのが残念ダ」
「――ッ、ァ゛!?」
少年の耳に、ブチブチブチ、と、何かが裂ける音が聞こえる。
それは少年の耳に聞こえたというよりは、少年の耳から発されたものであった。
耳に鋭い熱を帯びた痛みが奔り、少年の顔が苦痛に歪む。
苦痛を訴え喉が裂けんばかりに叫んだ悲鳴も、男の体毛に埋め尽くされた獣の手によって塞がれてくぐもった声になるばかり。
止め処なく溢れ出る涙によって滲んだ視界を埋め尽くすような獣染みた男が舌の上で転がすモノが何であるか。
痛みを訴え続ける少年の頭は理解を拒否し、ただ、死にたくないという思いだけが頭を埋め尽くしていた。