微温湯と不安(1)
福の禍と為り、禍の福と為るは、化極むべからず、深測るべからざるなり。
今の幸福が未来の不幸の原因となり、今の不幸が未来の幸福の原因となる。その深遠な変化は、見極めることも予測することも不可能だ。
「同様の意味の成語に、禍福は糾える縄の如しっていうのもあるんですけど~」
人間万事、塞翁が馬、紀元前二世紀の古典「淮南子」結論部分の一文をアイちゃんが解説していた。四時限目。黒板を写す途中、何気なく視線を向ければ、左斜め前でうつらうつらとしている星野の後ろ姿が目に入る。
最近忙しいのだろう、よく居眠りしている。かわいいなあ、なんて思いながら、どうも授業の内容に心がささくれてしまうのは、結局未来なんて何もわからないのだと言われるまでもなく実感しているせいだろう。
幸福と不幸、それは同じくらいあったとしても、不幸ばかりが印象に残る。幸せはどこかで見落としてしまう。確か脳がそういう風になっているとか何とか聞いたことがあるけれども……。
ちょうどふさわしい光景が目の前にあった。
「イズミ先輩……私、もうだめな気が……海斗の事刺しそうです……」
「あーよしよし。落ち着いて。わかるけど、海斗なんか刺して犯罪者になることないから」
昼休み、弁当を食べ終わるくらいの時間にふらふら教室にやってきた後輩をなだめながら、わたしは頬が引きつるのを堪えていた。
ユイカちゃんは図書委員の仕事で席を外していて、サトコとどうでもいい話をしていたところだったのだが。
「あいつ、週末年上グラマー美女とデートしてたって噂が……それって、また新しい彼女ですよねぇ……」
「病気なんだよ。不治の悪病なの。首絞めるくらいならおすすめするよ」
「うう……」
この後輩、土無喜己子は同じ陸上部に所属し、一学年下の弟の同級生、そして弟の彼女である。正確に言えば彼女のうちの一人、か……。
部の後輩だからというわけでもないが、キミコはすごくいい子だ。責任感が強く、真面目で、ショートカットの黒髪がよく似合う才色兼備である。多少融通が利かないところはあっても、まっすぐでとても義理堅い性格だから人望も厚い。男女ともに彼女に憧れている人は多いだろう。まさに恐れ多くも高嶺の花。
それをこう、あっさり蔑ろに出来るのが弟という生物だった。
血がつながっているとしても、種族が異なるってのは、意外とありうるんじゃないか。
「ほーほー。そしたら、今海斗君が付き合ってるのって、最低四人なんだね! キミコちゃんと、村賀瑠莉と、南高生と、年上……」
「ふふ、なんなんですかね、私って……」
頭が空なのかと思われる発言をするサトコに、わたしは吐き捨ててからこめかみを押さえた。
「サトコ。この無神経黙ってろ」
「あいー」
ただでさえ、相談ごとに対して的確にアドバイスするのは難しい。しかも姉と弟に関してはわたしが何を言おうと何の意味もないような気がする。軽く思い出しただけでちょっとむかついた。あれはもう病気だ。もしかしたら、本人たちにも止められない衝動なのだ。
ただ、いくら難題でもキミコを邪険にすることはできなかった。
「わたしも海斗は一度事故ればいいと思うんだけどね、うん……それでも、キミコちゃんは海斗にとって特別だと思うよ」
沈んだ顔のキミコを正面からしっかり見つめて、話す。
「特別、ですか……?」
「キミコちゃんはもう一年近く海斗と付き合ってるんじゃない? それってすごいよ。今までそんな子一人もいなかった。長くて三か月とか……。だから、特別」
おずおずと輝く瞳をこちらに向けた彼女に、求めるものはあげられないけれど。
「だからって、海斗がすぐに変われるとは思えないよね。これからも何人も見境なく女の子と付き合うことは目に見えてるし。そんなわけで、わたしとしては全然お勧めできないかな……キミコちゃんはもっと幸せになる権利あるよ」
「イズミ先輩、そんな……」
「正論でしょ」
「ですよね……」
「だけど、実を言うと正反対の気持ちの方が強いから、説得力ないんだろうな」
よくわからない、という顔をした後輩に思わず苦笑した。
わたしにもわからない。
「キミコちゃんが海斗の彼女で、しかもずっと弟を見捨てないでいてくれてるから、安心してたんだよね……たぶん。あの悪癖変えてくれるんじゃないかって、勝手に期待したりして。すごい迷惑でしょ。家族なのによくわかんなくてさ」
何言ってんだ、という自覚はあった。すでに後悔していた。
責任感の強いキミコにこんな風に言ったら、余計なものまで背負わせてしまう。あれは人外のバカだから今すぐ別れろと、以前なら言えたような気がするし、その方が正しいはずだった。結果的に傷が少なくて済む。なのに今は言えない。人を好きになったばかりだから、不毛なことだなんて言ってはしまえない。
ああ、苦しいな。背景の黒板を眺めながら思う。
きょとんとした喜己子は、しばらくそのままでいたが、やがて両手の指を絡めて、なぜか今日初めての笑顔を見せた。
「迷惑なんて、そんなわけないじゃないですか! イズミ先輩って、本当に……らしいなあ」
「はい?」
「余計なこと言ったって顔、してましたよ?」
「え゛……」
「余計なことじゃないですよ。常識的なことなら、私にも本当はわかってるんです。だからイズミ先輩の期待とか、そういう個人的なことが嬉しいし、聞きたかったのかも……大体いつも先輩って、色々考えすぎるでしょう? しかも、それ、滅多に言わないでしょう?」
そ、そうなんだろうか。
慰めていたはずなのに、いつの間にか後輩に言い募られ、微妙に身体を後ろに引いた。クラスメイトが不思議そうに脇を通り過ぎる。なんで立場逆転……?
答えられないでいると、サトコもうんうんと頷いていた。
「私は聞きたいですよ、そういうの。そこまで考えなかったって、自分のダメなところがわかるし、頭が整理されます。今も、嬉しかったです。ちょっとは望みあるのかなぁって思えました」
「う、……いや、わかんないけどね……?」
本当に微妙なところでいつも迷う。間違えたら恐い。どうせ迷っていても色褪せるだけなのに。
わかってます、と笑顔で席を立つキミコを、教室の外まで送る。落ち着いた昼休みの廊下で、ちらほらと行き交う同級生がさりげなくわたしの隣の後輩を見た。やはり有名なのだ。スレンダーな美人だし海斗の古株の彼女として……まあ、だけど、そこまで露骨じゃない。
「あ!」
誰かの声がして、顔を上げて、思った。
うん。
わたしの兄弟に比べればもう、そんな、ぜんぜん。
「宮内海斗だ……」「海斗くん……!」「うわー!」「マジで?」「えーラッキー!」
あれ芸能人だったっけ? と思うような歓声が次々に上がって、わたしはげっそりした。