日常生活と罠(4)
そこから先帰宅するまでの記憶は、曖昧でぐちゃぐちゃで思い出したくもない。いつもより顔がこわばっていたのか後輩に怯えられるわ頭痛はするわで最悪だった。
「ただいま……」
父は単身赴任中、母は外出中、姉は隣県で一人暮らし中、弟はまだ部活中で、明りの灯らない家がありがたい。急いで入浴し夕食を食べ洗い物を済ませ、愛猫のノリコに餌をやって、自室のベッドに倒れこめば、疲れがしっとりと身体を包み込んだ。
時計は九時半過ぎを示していて、マイペースに時を刻んでいる。海斗はもう帰ってきたのだったか。言いたいことがあったような無かったような。宿題があったが、取り掛かる気になれず、翌朝にまわす。仰向けになって白い天井のライトに片手を伸ばしながら、細く息を吐いた。辺りは風もない静かな夜だ。
なにはともあれ――
落ち着けないにもほどがあった。
ああ、全然、本当に、これっぽっちも。
「えー……」
ほどいた髪を掻き乱しながら呻く。
信じられなかった。嘘に違いなかった。夢。幻。fairy tail。魔が差した。とにかくありえないと思うのに、何度も思い出す。声と雨と空気。時を止めておきたいと思った一瞬。思い出して、考えて、ほんの少しだけ息が苦しくなる。
恋?
アホだ! と浮かんだ単語に心の中で叫んで枕に顔面を押し付けた。安物の枕は不服そうに呼吸を阻害してきた。
この二年決意が揺らいだことなどなかったのに、本当にそんなことがあるとは思えなかった。望んでもいないのだから、勘違いだ。一目ぼれには遅すぎる。ほとんど話したことだってない。きっと互いに何も知らない。少し、褒められた。好意的に見ていてくれる人がいた。それが、嬉しかっただけだ。
「……星野くん……?」
別に好きではないんじゃないかな。
止めていた呼吸を取り戻し、黒い目覚まし時計を早朝にセットする。
祈るような気持ちで目を閉じ、眠りに落ちた。夢のように一晩寝て醒めたら、と願う。それなのに朝起きて勉強しながら、何も変わっていないことに頭痛がした。
「おはよーイズミ」
「おはよう……」
「なんなの何で睨むのまだ宿題要求してもないのに」
「睨んでないけどね……」
「じゃあ宿題見せてよ。世界史」
「じゃあの意味がわからん。もうだめ。こないだも見せたばっかだし、堺先生言えば待ってくれるでしょ。後で困るのは自分なんだから自力でやれ」
「うわあ愛の鞭! イズミのバカたん!」
制服に着替え髪を結んで眼鏡を掛け、朝食を食べて平常通り登校する。サトコの言動を聞くと一瞬憂鬱は麻痺したが、ほっとしたのも束の間だった。朝のホームルームが終わると担任のアイちゃんがいつもの如く忘れ物をしていた。教卓に置き去りにされた授業計画を追いかけて届け、
「ごめんね~宮内さん。センセイ今月で37回目でしょぅ? んんと、60回行かないようにがんばってみるからー」
「はい、頑張ってください。応援してます」
「うん、ありがとね~! ぁれ? 次三組で現文だったかなぁ?」
「一組で漢文だったと思います」
という会話を交わして教室に戻った後。
窓際に置いてある観葉植物に水をやろうと思い、思わず足を止めた。
なんであろう、悩みの種の当人である星野が、ちょうど植物の鉢を手にしていたのだった。
学ランをきちんと着た彼と目が合う。笑いかけられて、急に心臓の音が意識される。どういう意味もないというのに。思った以上にやばい。待ってほしい、本当に……
「宮内さん、おはよう。忙しそうだったから水あげといたよ」
「お、はよう。えーっと、ありがとう……」
「お礼なんて。昨日のこともあったし、俺も何か手伝いたくて。これ、四月は枯れかけてたよな」
「うん……カランコエっていう名前で、花も咲くはずなんだけど……」
「そうなんだ」
すげー、と邪気無く喋る彼から視線を逸らしながら、早くなったり小さくなったり掠れてしまいそうな声を平素に保つために、わたしはアインシュタインの日本講演の様子について一から思い出そうとしたりした。
だってまさか心の準備とかできてないし、昨日の今日で手伝ってくれるなんて、思うわけないし――いや、落ち着け。深く息を吸い込み、ぐっと右手でスカートを握りしめる。
これは人見知りからくる動揺と、予想外の出来事に対する驚きなのだと心に言い聞かせる。彼は平凡な容姿である。特別な才能もないようだし、目立つ要素があるわけではない。だからそう考えるのが妥当だ。
窓辺に鉢を置き終えた星野は、振り返りながら小首を傾げた。
「もしかして、迷惑?」
「っ……!」
ああ。なのに。
たったそれだけの仕草が、本当に、説明できないくらいかわいいったら……!
「……宮内さん?」
一体いつからだったのだろう。
首まで熱くなって、もうどこかへ走り去りたかった。重症だと、認めざるを得なかった。
自然で素直な表情、柔らかな瞳、心地いい声、何でもない動作、不安そうなまなざし一つでさえ、好ましく見えた。気にしてくれるだけで嬉しい。話しているだけで苦しい。
「迷惑なんて、思うわけないよ」
嘘だなあ、と自分で言いながら苦笑した。口にできるはずもないが、迷惑と言えばこれほどの迷惑もないだろうから。
しかし自分を偽るよりは、百倍マシだった。
「よかった。じゃあ、これからも手伝うから。できることがあればいつでも使って」
彼の言葉に頷きながら、ひどく遠いことのように回想する。
ずっと、誰も好きにならないまま、高校生活が過ぎ去ることを願い、信じていた自分。
信じたものの末路は二つあるなんて、考えてもみなかった。
信じたものは救われる。
そうじゃなければ……裏切られる、なんて――