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日常生活と罠(3)

 それにしても雨は昼を過ぎてもしとしとと降り続き、教室を物憂い空気で包んでいた。わたしはしばしばぼーっと教室の入り口を眺めた。

 誰かが入ってくる。学校指定の深緑のスリッパが教室の床を踏む。湿気と埃と塵で灰色の足跡が付く。いくら古びているとはいえ、見ていて郷愁を誘われる。


「宮内。おい、宮内! ここに入る接続詞はなんだ?」

「わかりません」

「え………」

「あ、いえ、bのwhatです」

「……そうだな……」


 不躾に呼び捨てにしてきた英語教師に即答してしまうほど、その雨の日特有の汚れ方は自分の中でアウトだった。すぐにフォローしたが、意外とナイーブそうな教師の心に傷をつけたかもしれない。まったく悪いことをした。


 よし、拭こう。


 延々考えていても仕方がないので、わたしは自分の中で決定し、素早く計画を立てた。

 まずは時間だが、拭くなら放課後に限る。引退試合へ向けて所属している陸上部の練習はあるが、雨だから校舎内に変更するだろう。担当教師は幽霊顧問だし、最上級生であるし、そのとき少し抜けて掃除すれば、誰に気兼ねすることもないのではないか。


「ではしばらく休憩と自主練に入りますー」


 はたしてその通りで、屋内練習開始から一時間程度で休憩になり、こっそりと教室へ戻ることができた。様子を窺えば薄暗い部屋には誰の姿もなく、遠くから運動部の気合いや雑談の笑い声が響いてくるだけだ。運がいい。


「よし……」


 当然誰かが残っていて結局引き返すこともあるのだ。絶好のコンディションに俄然やる気が出てきて、ジャージの裾を捲り、わたしは早速雑巾を絞ってすばやく廊下から拭いた。

 少し冷たい布と床。力を込めてただ汚れを落としているだけで無性に落ち着くのが不思議だと思う。一言でいうなら安堵。そこに、何か別の意味があるだとか、考えたりはしないのだけれど。


 卑屈になりそうで頭を振る。思考を追い出す。

 やがて廊下が綺麗になり、続いて教室の入り口辺りに手を伸ばそうとした。のだが、


「あれ?」

「え?」


 集中しすぎていたのか、足音に気付けなかった。不意に誰かが入ってくる。

 背景の窓の外では、まだほんの僅かな雨が降っていた。


「えっと、宮内さん――」


 どこか現実味のない声は、一人分だった。

 ぱちりと目が合い、相手が自分の苗字を呼ぶ頃、わたしも彼の名前を思い出していた。

 星野脩平。

 思い出したはいいが今年初めて同じクラスになった人で、つまり大勢の例に漏れず話したことがない。



「あ……っと」



 まずい。どうしよう。

 我に返った瞬間、わたしは思いっきり目線を逸らしていた。忘れ物でもしたのだろうか、誰かが戻ってくるなんて思いもしなかった。不意打ちに心臓が早鐘をうちはじめる。別に立ち入り禁止とか決められる立場じゃないが。

 とにかくよく知らない相手には挨拶すら苦手なのに、そんなことを世の中は考慮してくれないのは嫌というほど知っている。

 誤魔化さなければと渋々口を開きかけ、


「――ごめんっ!」

「はい?」


 相手の謝罪に遮られた。


 ごめんって何が。


 再度思考停止してしまい、わたしはしばらくの間雑巾を握ったまま床で言葉を探した。邪魔してごめん? そもそも話しかけてごめん? 

 結果的にどちらでもなく、なんと彼は自らも雑巾を絞ってきて隣で床を拭き始める。

 予定外も大概で、これには本気で動揺した。


「い、いいよ。そんな……わたしは、美化委員だし、だから気になっただけで、手伝わせるなんて思ってもなくて」

「いや。宮内さんだけにやらせてそのまま帰れないし」

「あの、じゃなくて、本当に、これはわたしの趣味みたいなもので、」

「趣味?」

「う……まあ」


 素直で真面目そうで、耳触りのいい声に、鼓動が治まらない。不思議そうに聞き返されれば、仕方なくでも説明するしかない。「汚れていたらどうしても片付けたくなるだけなのだ」と言うと、星野は床の汚れを落としながらなるほどと頷いた。


「それでもえらいよな。いつも黒板きれいにしてるし、枯れかけてた観葉植物の世話とか亜衣先生のフォローして、放課後まで……この教室がきれいなのって、絶対宮内さんのおかげだ」

「っ、気付いてる……」

「え?」


 本当に、指摘された瞬間はどうしようかと思った。普段の行動は、誰にも気付かれないように注意していたのだから。

 予想以上に恥ずかしく、並ぶ机の脚を見ながら苦笑と共にそう零すと、星野は手を止めて曖昧に首を傾げた。


「気付くよ。のんびりしてる亜衣先生だってそのうち……少なくとも、ここに一人は。だから、みんなを代表して、」


 ありがとう。


 遠い音しかない空間で。正面からまっすぐに笑みを向けられる。


 なぜ見てしまったのだろう。なぜ、その時だったのだろう。


 いつ思い出しても、それは本当に他意のない、自然な表情に見えた。少し照れくさそうな、本来ならとても親しい人間にしか見せられないような。


 羨ましい――と思うと同時に、胸に苦い思いが滲んで、無理矢理視線を引き剥がすしかなかった。


 苦い。とても苦く、心臓が痛くてうるさくて、深呼吸をしてもまだ顔が熱くて。

 ああ、しまった。完全にやられた、なんて思っても。


 無駄だ。


 いくら後悔したところで、一瞬でも好きだと思ってしまったら、そう簡単には取り消せないのだから。










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