文化祭(3)
「ああ、退屈。ねえさんは絵や会話のない本なんて読んでるし、花飾りをつくるのもめんどうだし――」
艶やかな黒髪、細身のパンツにブーツ、上着は白いリボンのついた紺色の衣装だった。
化粧を施し長い髪をしたユキトは、ライトの中心に座っていて、それは美しかった。
なんて言えばいいのだろう――言葉では上手く表現できそうにない。
例えば声を変えているわけではないし、骨格も完全な女性のものではない。ただ、表情や仕草で性別の境界を越えて、物憂げでわがままで自由なアリスとして存在している。芸術に共通する才能なのか努力なのか、結局は美しい顔立ちに釘付けになるだけだ。観客はぽかんとした後、現状確認をして、否応なく彼の一挙一動を見守った。
ウサギを追って穴に飛び込み、大きくなったり小さくなったり、奇妙な生き物たちに出会う女の子の冒険。鳥に芋虫に公爵夫人、登場人物は千差万別だった。
「ねえ、チェシャ猫さん。教えてくれない? ここからどっちへ行ったらいいのか」
「それはあんたがどこへ行きたいかによってちがうさ」
「わたしは、どこでもかまいません」
「それじゃ、どっちへ行ったって、かまわないよ」
大げさに、間をおかず、分かりやすく。細かい事は二の次で、その三つを徹底してきた。
成果は十分に発揮できたようで、猫耳をつけたサトコが出番を終えて上機嫌で舞台袖へ戻ってくる。一声掛けたかったが残念ながら言葉を交わす暇はない。スピード勝負、大急ぎでテーブルセットを準備すれば、すぐにお茶会が行われる。
「席はないよ! 席はないよ!」
「いくらでもあるじゃないの」
「ワインを飲むか?」
「ワインなんてないじゃない?」
「もちろん、そんなものはないさ」
アリス渾身の呆れっぷりに笑いが起こる。裏方の気分も乗ってきて、手筈通り場面は次々に変わった。薔薇のさく庭へ行き、動物を使ったゲームをして、海を通り、そして裁判に巻き込まれる。いよいよ大詰めに入ると自然に白熱し、ほとんどクラス全員がひしめく舞台の上に、わたしも脇役トランプ兵として立っていた。
「陪審員は評決を用意せよ」
「だめだめだめ、判決が先、評決はその後よ」
「なんてばかばかしい、判決を先にするなんて!」
「だまらっしゃい!」
「だまらないよ!」
「あーむかつく、誰かさっさとこの娘の首をはねちゃって」
真っ赤な衣装がよく映える、マミさん独特アレンジの赤の女王が怒鳴る。アリスも負けじと怒鳴り返した。
「だれがあんたたちなんて気にするもんですか。ただの一組のトランプじゃない!」
予定外の事故があったのは、その直後だった。アリスは混乱する不思議の国の住人たちの中を駆け抜けていくはずが、途中でクラスメイトのもつれた足に引っかかる。そして一人のトランプ兵が持っていた棒が、予期せずユキトの顔を殴りそうな勢いで倒れてきて、わたしは思わず手を伸ばしてユキトの肩を引いていた。
「あっ」
「っ……」
自分がクッションになる形で、倒れこんでいた。客席からどよめきが上がり、背中の痛みに耐えて目を開ける。どこからか黄色い(?)悲鳴が聞こえてきたり、「イズミちゃんのファンが二十人くらい増えたかも……」と意味の解らない舌打ちが聞こえたりしたが、ともかく覆いかぶさる形のユキトの顔を確認する。
「大丈夫?」
「だいじょう、ぶ……」
よかった。がばっと起き上った綺麗な顔を見て心底ほっとした。この顔に傷がつくのは耐えがたい。特にアリスである今は……。今?
思い出して、ちらりと横を見て見た。見なきゃよかった。
舞台の上。観客席。
主役であるユキトの下敷きになっているトランプ兵D。不自然な沈黙。
ぶちこわした終盤、これからどうしたらいいのかさっぱりわからない。
どっと冷や汗が出ると同時に、目の前の美少女が泣くように笑った。腕を引かれて起き上る。
「ありがとう、助けてくれて。一緒に逃げましょう」
いつの間にか舞台全体の明りは消え、わたしたちだけにスポットライトが当たっていた。完全にアドリブを振られて、わたしは深く震える呼吸をした。なんと答えなければならないのか、ユキトの瞳の中に書いていた。
「ごめん。一緒には行けないから、この先は一人で」
声を出す。遠くまで届くように。はっきりと答えた。
一緒には行けない。この先は、一人。そうなんだ。わかってるよ。手が離れるのを待って、笑って見せた。
「もちろん、またすぐに会うはずだよ」
「……。そんなことなら一応、さようなら!」
今度こそ、ユキトが駆けていく。暗転して、わたしも舞台袖へ戻る。サトコが抱き着いてきて、「よくやった!」と何度も耳元で囁いた。極度の緊張から解放されて、眩暈がして視界がぼやける。遠く、明るくなったステージで最後のシーンが演じられていた。
「おきなさい、アリス! まったく、ずいぶんよくねてたのね」
「ね、すっごくへんな夢を見たの」
「まあ、それはふうがわりな夢だったわねえ。でもそろそろ走ってお茶にいってらっしゃい。もう時間もおそいし」
「うん」
夢から覚めたアリスが去り、アリスの姉だけが舞台に残る。彼女が椅子に腰かけると同時に、ユイカちゃんの声で最後のナレーションが読まれた。
――そこでアリスは立ちあがってかけだしました。
おねえさんは、アリスがいってしまってからも、じっとすわってほおづえをつきながら、アリスのこと、不思議な冒険のことを考えていました。
するとそのうちに、おねえさんのまわりのものがすべて、妹の夢の不思議な生き物にいのちをふきこむのでした。
おねえさんは目をとじて、自分が不思議の国にいるのだと、信じようとしました。
でも、いずれまた目をあけなくてはならないのはわかっていました。そしてそうなれば、まわりのすべてが退屈な現実にもどってしまうことも。
最後におねえさんは自分の小さな妹が、りっぱな女性に育つところを想像してみました。
自分の小さな子どもたちをまわりにあつめ、数々の不思議なお話でその子たちの目を、いきいきとかがやかせるところを。
そのお話には、はるかむかしの不思議の国の夢だって入っているかもしれません。
そして子どもたちの素朴な悲しみをわかってやり、素朴なよろこびをいつくしみ、自分の子ども時代を、そしてこのしあわせな夏の日々を思い出すだろう。
おねえさんは、そんなことを空想したのでした――
※
放課後の美術室は、変わらぬ温度で身体を包み込んだ。
ユキトがそこで絵を描いている。
それだけで、この部屋は特別な場所だった。
「今日の主役が、なんでこんなところに逃げてるの」
声をかけると、いつもの微かな笑顔で振り向く。それはたぶん、わたしの中でとても重要なことだったのだと、今更気付いた。
「それはこっちの台詞だよ。イズミこそ、最後の最後でいいところ攫っていったくせに」
「あーあー聞こえない。あれは無し。思い出すの禁止。それより打ち上げ、焼肉食べに行こうってみんな待ってるよ」
「別にいいんだけど、待たなくても」
「だめだめ、あの勢いは強制だね。いくら協調性のないユキトでも無駄な抵抗だと思うよ」
「抵抗するほど行きたくないとは言ってないだろう」
「不思議の国のアリス」は思わぬ事態もあったものの、なんと最優秀賞に選ばれた。想像していたよりずっと嬉しかった。それで教室は盛り上がり、マミさんの軽い発言で打ち上げが決まった。そのときユキトがいないことに気付いて、もしかしてとここへ足が向いた。
信頼している。
そんなんじゃない。もっと根源的なつながり。腐れ縁とか、もう、そんなんでもいいや。
「完成させたい気分だったんだ。今日」
絵具のついた指先で、筆をパレットに置いて、目を伏せたままユキトは言った。描き終わったのかと尋ねると、一応、と答えが返ってくる。容器と道具を洗いに部屋を出て行こうとする彼にもう一度聞いてみる。
「見てもいい?」
「いいよ」
秋の風のように軽やかな、笑いを含んだ声だった。一時的に一人になった教室を歩いて、絵の正面へ回る。
そこにはわたしがいた。沈んだ美術室、暮れゆく橙色の光と影の中に座っていた。窓際でノートを開いて、少し目を細めている。透明な、どこまでも透明な、その色遣いと印象に息が詰まる。まるで、同じことを――思わず手を伸ばして縁を撫でたとき、カーテンが揺れて「題名・憧れ」と書かれた紙片が床に落ちる。
同じことを思ったのだろうか。
聞いたら、崩れてしまうだろうか。
水音が止んで、足音が部屋に戻ってくる。振り返ると、ユキトはわたしの顔を見て思いっきり噴き出し、わざとあのときと同じことを言った。
「どうかした?」
「……別に。ユキトの、絵が」
綺麗だなって、思っただけ。
それだけの奇跡だった。