文化祭(1)
夏季休暇が終わった九月は、体育祭と文化祭の季節だった。西高の行事は特徴的でも派手でもないけれど、やはり一大イベントなので平常とは違った高揚があって校内がざわざわする。
わたしは机の上に腕を乗せて黒板を眺めていた。
落ち着かない休み明け。
まだ暑さが去らない教室で、委員長・副委員長司会のホームルームが行われ、体育祭の出場競技はすんなり決まったところだった。メガネの委員長、森谷くんは進行役で、副委員長のマミさんはざくざくと手際のいいフォローをしている。
端の机でパソコンを打ちながら聞いていた担任が首を傾げた。
「三年生はえっとぉ、文化祭の出し物はなんだっけ~? あっ、あのあれ社交ダンス?」
「いえ。三年は劇です」
「へぇーすごーい! オペラ座の怪人だねぇ」
「そこまではいかないですが。で、何の劇をするか今から決めたいと思います」
眠くなりそうな六限目だ。アイちゃんの天使発言を掻い潜りながら、森谷くんは軽く頭を掻いた。
「何かいい案がある人はぜひ」
すぐに隣で手が上がり、
「んー、時間かかりそうだから、全員に紙に書いてもらって集めて候補を黒板に書いて多数決すればいいんじゃない?」
「……あい、そうですね。じゃあ、えーと、今から用紙を配るのでその間に考えて下さいー」
副委員長のマミさんが意見を言って委員長は大人しく流れに乗った。アイちゃんが担任でうちのホームルームが長引かないのは、この二人の絶妙な相性のおかげだろう。
白雪姫、傘地蔵、シンデレラにシンドバッド、古典から実写版サザ○さんまで候補は挙がったが、投票が行われた結果、演題は僅差で「不思議の国のアリス」に決定した。なるべく全員が劇に出演するのが望ましいから登場人物が多いものになるのは自然だ。メジャー過ぎずマイナー過ぎず、いいラインだと思う。
「アリスかぁー。マジやりたい放題だね」
「なんでだよ」
斜め前からサトコが笑顔で話しかけてくるが意味がわからないので一蹴して、わたしはまだ空白の多い黒板を眺めた。
問題はここからで、波乱もここからだった。配役を誰にするか無言のプレッシャーが発生する。わたしはとりあえず主役級になることはありえないので、割と余裕をもって眺めていたのだが。
「アリスやりたい女子いませんか? やってもいい人? やれるような気がする人? 主役いいですよ? いますよね? アリスが好きな人? 今年夢の国に行った人? 誰かー誰か手を挙げて僕を助けて下さい」
森谷くんがさっそく典型的に困り始め、
「じゃ、推薦してもいい? えーっと、ざっと見て佐々木さんかな。真面目でかわいいし。どうですか?」
「ぇ。えっ?」
やはり副委員長のマミさんが停滞を打開するように発言し、教室内がざわめいた。佐々木さんって、名字が佐々木なのはクラスでユイカちゃんだけだ。つまりそういうことだ。
突然指名されたユイカちゃんが隣で戸惑いの声を上げ、目をいっぱいに開くのが見える。――うん。まさか、そうくるとは思わない。
ユイカちゃんは顔を赤くして、必死そうに両手と首を横に振った。目立つのが苦手なのは言わずもがなである。
「そんな……私、無理です……脇役なら、大丈夫かもしれないですけど、主役なんて……。声も小さいし、あの、絶対他の人の方が……」
「そう? いいと思うけど」
マミさんはボブの黒髪を揺らして不思議そうに瞬きする。独特のあっさりした口調には説得力があった。ある意味横暴でも悪気なんて欠片も感じさせないし、気軽な発言を臆さないリーダーシップもある。憎まれる人ではないから頼まれると断りづらい。
しかしユイカちゃんに潤んだ目で助けを求めるように見られ、わたしははっとした。ここは友人としてフォローしなければ。
「どうしても気が進まないなら、無理にやらせないほうが……」
「宮内さんは、佐々木さんのアリスかわいいと思わない?」
「え?」
そして逆に問われ、想像した。たぶん他の皆も同時に妄想した。
ユイカちゃんのアリスなんてそれはもう……あれ? 例えばエプロンドレスとか、カチューシャとか? やばくない? かわいくないわけがない。いつもと違う天真爛漫な感じも絶対アリだ。アリっていうか、見たい。超見たい。独占したい。
「意外と主役もいいかもしれないよ……?」
「イズミちゃん!?」
ユイカちゃんは誰にも渡さないけど、クラスの男子全員明らかに大賛成の期待の目をしていた。野崎裕介なんて満面の笑みを隠しもしない。
流れが傾く中、発言を臆さない冷静な奴が一人いることを忘れていた。
「本人が困ってるんだから、もっと人前に出られる人の方がいいと思う。それこそ副委員長でも」
ユキトだ。後ろから聞こえた幼馴染の声に、指摘されたマミさんは肩をすくめた。
「あぁ。私以前適当にやりすぎて、台無しにしたことあるからだめなのよねぇ」
「適当にって……」
「もう二度と主役級は引き受けるなって懇願されるくらい」
「どんだけだよ」
委員長のなんだか癒される緩いつっこみの後、その発言は飛び出した。
「ともかく、人前が平気で、演技大丈夫そうで、アリスっぽいって言ったら他に……うーん。あぁ、じゃあ篠目君やる?」
「何を?」
今度は教室内に戦慄が走って、ざわめきすら起こらなかった。
わたしは無意識に二人の間から身を引いた。いや、だって、確かに外面は男にしておくには惜しい美貌だけど中身は似ても似つかない。苛烈と言っていい気質は散々実感してよく知っている。これから少しでも禁句に触れればどうなることか、嫌な予感しかしない。
マミさんは真顔のユキトと見つめあって、同じく平常通りの真顔で答えた。かなりのつわものだ。
「もちろん、アリス」
「ちょっと待った。女の子だよね。委員長も女子って言ったよね」
「そうだけど、それは基本的にはってことよね委員長? このクラスの人ならいいわけだし、意外といけると思わない?」
「え? え、えええっと、篠目君のアリスだめだと思う人―? 挙手で」
とばっちりで意見を求められた委員長は、ユキトの底冷えする視線と目を合わせないように気を付けながら、逃げた。教室内はようやくざわめきだしたが反対の手は一人も挙がらない。
「マミーやるねえ。度胸があって斬新だ。おもしろそー」
サトコなんて軽く指を鳴らしている。後ろから若干殺気を感じるけれど、考えてみれば嘘はつけない。好奇心旺盛で物怖じしない主人公。例えば自分とユキト、どちらがアリスにふさわしいかと言われればそりゃユキトだし。
「ゆ、ユキトくん、お願い……! 私いっぱい和菓子の差し入れ作ってくるから……」
ユイカちゃんもここぞとばかりに頼み込んでいる。ユキトは大の和菓子好きだから、それを聞いて僅かに表情を緩め、やがて深いため息を吐いた。
「あーもう、わかったよ。皆がいいならやるよ、アリス」
「おお! 救世主!」
「ただし、やるからには手は抜かせないので。中途半端は無しで。それと絶対スカートは履かない。それから委員長は雪掻堂の和菓子をおごる」
「おおお金がないよ」
森谷くんが頭を抱えていたが、なんだかんだ言ってユキトの事だ。本気で困っているユイカちゃんに押し付けるくらいなら潔く自分がやるに決まっていた。できることならばわたしもそういう人間でいたいけれど。
そうして一悶着から、文化祭準備は幕を開けたのだった。