日常生活と罠(2)
ところで、誰にでも、ついやってしまう習慣みたいなものはあると思う。美徳にしろ悪徳にしろ、無意識で理由すら思い浮かばないようなものだ。
わたしの場合、それは「周囲をきれいにすること」だった。
家族が綺麗好きだったせいか整理清掃が身についていて、乱れや汚れが目に付けば時間が許す限り片づけてしまう。神経質・潔癖症というほどではないし、使命感というと大げさで、なんとなくというのが一番近いだろうか。クラスの役割では大抵美化委員だ。
この習慣は高校三年になってから、ずいぶん発揮される機会が増えた。
「は~い、じゃぁー、教科書の183ページ、開いてみて下さい~」
担任の若い女性教師、北原亜衣先生――通称アイちゃんが、無意識に周囲を汚す人だからである。
教師歴は浅いみたいだが、それだけでは説明できない雰囲気を持っている。喋りは常にのんびりと平和で、声が可愛らしくて、顔がものすごく童顔で、もちろん年上なのだが無意識に和んで見守ってしまいたくなるような、大体わかっていただけるだろうか。いわゆるロリ……あーと、癒し系だ。
「ええっとぉ、古今和歌集ですけど~、これは平安時代前期にぅっ!」
小さな奇声と共にアイちゃんが派手にチョークを折る。珍しいことではない。三十分に一度は折るし、いつの間にか教卓に粉をつけて、色んな場所に物を置きっぱなしにすること数知れず、その結果何かが無くなったことすら気付かない。
潔癖症かと疑われるのは嫌なので、ひどいときは休み時間にさりげなく拭いたり元の場所へ戻したり足で揉み消したりと、人目を盗んできれいにした。
それでも汚れなんて大勢が生活していればいくらでも発生するし、はっきり言って限界がある。暇があれば、誰もいない放課後に心置きなく片付けることも、よくしていた。
「イズミちゃん、どうかした?」
「え? ううん……」
その日は朝からの長雨でとても湿気が多く、ワックスを塗り重ねた教室の床に、たくさんの上履きの跡が出来ているのを無意識に見ていた。
一緒に移動教室から戻ってきた佐々木唯香ちゃんに尋ねられて、首を横に振ってみせる。
ユイカちゃんは控えめで優しい性格で、小さなことによく気が付く。席が近くお互いに読書が趣味だとわかって以来仲良くなった。肩までのストレートな黒髪がよく似合う、今時分貴重な清純派だ。
対してもう一人の友人、川上里子は失礼な感じでこちらを指さしてきた。
「気にするな! どうせイズミなんて枯れたことしか考えてないから」
サトコは制服と茶髪が校則違反、おしゃべりで世話焼きで調子がいいやつだ。なんにでも興味を持つし、大抵慌ただしい。
こういうとアレだが、誰とでも上手くやっていけるタイプで、愛想無しのわたしをものともしない。
「はいはい、浮ついたことしか考えてない人に言われてもね」
「あーその無駄に辛辣なところが沁みるよね? 地味なカッコしてハートブレイカーだよね? そんなだからザ・無愛想って言われるんだよ?」
「言われたことないけどそれならそれでいいや」
「うわあ、十代失格」
今では一緒にいることが自然で、それに気づくと脱力感を覚えたりするけれども……。
「宮内の血筋であるからにはちょっとはさ、こう浮いた話の一つや二つないのかねえ? おもしろくないんだけど」
「さ、サトコちゃん、それは……」
だってすぐこれだ。暇だと本当にずけずけ言いたい放題言ってくれる。なんだってまあこんな友人がいるわけだろう。
「最近事件がないからって他人をだしにするとかどうよ。勉強でもしてろ」
「冷静に核心突くところが寒い! かわいくねえ! この硬派め!」
うるさいし取り合っていられない。肩をすくめて席に戻ると、ちょんと後ろから背中をつつかれる。
「イズミ、さっきの生物のノート見せてくれない?」
「ん? いいけど」
振り返ってノートを渡す後ろの席の住人は、男にしておくには惜しい容貌を屈託なく笑ませた。
「ありがと。あ、そうだ、イズミはそのままで十分かわいいと思うよ?」
「いや、お礼代わりのフォローとかいいから」
お前の方が確実にかわいいだろうが。
美貌という言葉が当てはまってしまう腐れ縁のクラスメイト、篠目行人に呆れながら心中でつっこむ。儚げなんて言われて一目置かれるユキトだが、わたしの経験から言わせてもらうとそんなことはない。愛想が悪くないから騙されるだけであって。
少々辟易したが、このクラスでわたしに親しく話しかけるのなんてこの三人くらいだ。サトコの「無愛想」は決して間違いではない。というかたぶんものすごく正しい。
話しかけられれば受け答えはするものの、必要以外に自分から話すことなんて無いし、にこにこしていることもないし、海斗関連の接触には取り合わないし。
地と言われればそれまでだが、それで人の興味を免れられるなら、本当に安いものなのだ。