番外編2
あなた一人だけを選ぶことは、出来ないわ。
それは、あまりにおあつらえ向きの言葉だった。傲慢であり。不遜で、不愉快で、思い上がりも甚だしい。
にもかかわらず、適切だった。その女に合致する言葉だった。全てを押し流す決別の言葉だった。だからこそ御堂は嗤った。
「じゃあ、俺も無理だな」
美しい女が悲しそうな顔で微笑む。想像通り、泣くこともなく。同情のように見えて、いっそその外面を殴ってやりたくなる。
まるであんた、ずっとわかってたみたいだな。
最初から、全部。
声にすらならない、背を向けるまでの間、そう思った。
※ <Second impression>
「なあ御堂、信じらんなくね?」
教室の窓から廊下を見ながら、前の席の田原が言う。体育の後だった。まだ男しかいない室内で、学ランに袖を通しながら顔を上げる。
「何が」
「ほら、あの子。宮内和泉。妹なのに超地味だよなぁ。せっかく同学年なのに、意味ねー。七瀬さんは卒業しちまったし、美形でも入学してきたのは弟だし、女子は発狂してるけど」
妹だろうが何の興味もなかったが、視界の端にちらりとその姿が見えた。黒縁眼鏡をかけ、後ろの低い位置で髪を一つにまとめた俯き気味の生徒。ほんの数秒、何の感慨もわかない。自然と眉を寄せていた。
信じられない?
「他人だろう」
「はぁ?」
「血が繋がってようが、何の関係が? 七瀬みたいな見てくれのいい尻軽女がいいなら、本人を当たればいい。お前バカか?」
宮内和泉。
ああいう被害者ぶった弱い人間は、吐き気がするくらい嫌いだった。意識したことすらない。勝手で低レベルな願望を臆面もなく声に出す手合いもまた、同じだ。くだらない。七瀬がいいなら、七瀬を相手にすればいい。自分に手が届く程度の「七瀬みたいなもの」でいいのなら、画面の中の芸能人に妄想する方がまだマシではないか。
鬱陶しい人間ばかり増える。
「身もふたもないこと言うなよ。おれ、お前みたいな人間じゃねえからな。どうせ七瀬さんになんて声かけられなかったバカだよ。そのかわり振られることもなかったけど」
辛辣な言葉にも動じない男は、薄く笑って、視線を逸らした。
「ほら、彼女が来てるぞ。エリちゃんいい足してんね」
「彼女?」
ドアのところで手を振る派手な女を見て呟く。微かな香水がまとわりつくほど、最近近くにいるのは確かだった。話しかけてくるから気が乗れば相手になるし、誘われれば体に触れもする。それだけのことだ。好意も嫌悪も別次元の話で、その現状に何の意味も見いだせない。
口にした単語は、神経を逆なでするような、べとりとした感触がした。
※
興味も接点もないと思っていた。
だが、嫌悪感はあった。そういうことなのか。
「宮内和泉? お前、マジで似てねえな」
退屈な月曜、何の変哲もない乾いた午後に、人の少ない廊下ですれ違った一秒。急に胸が悪くなるようにムカついて、御堂は振り返っていた。
理由はわからない。気が付けば中傷していた。敢えて表現すれば昏く昂ぶった、妙な気分だった。返事をしない、足早に通り抜けようとする相手の前をわざと遮る。
「そんな恰好で、逆に目立とうとしてんのか? 不細工」
「……違います」
和泉は目を上げかけて再び俯き、ほとんど声にならない声で呟いた。
人目を避けるように一人でいていかにも陰鬱な空気を纏っている。自分では逃げることくらいしかできない、脆弱で臆病な偽善者。普段は視界に入れることすら嫌いな人種に、声をかけたことを改めて後悔する。何を馬鹿なことをしているのだろう。
後悔して、それでもう終わりのはずだった。関わる気など微塵もなかった。
なのにやたら目に付くから邪魔で、神経に触って仕方が無かった。
「どうせならもっと見栄えのいい顔に整形すれば」
「あの兄弟がいなけりゃお前なんて、誰も覚えねえんだろ」
「おい、愛想笑いぐらいしてみろよ。同情でマニアが相手してくれんじゃねえの?」
すれ違うたび、ほとんど反応のない相手を侮辱する。どんな言葉でも女は無表情に俯き目を合わせなかった。言いがかりに対して反論もできない惨めで哀れで価値のない人間。余計にストレスが溜まり、馬鹿らしいと理解しているはずが、繰り返してしまう。兄弟。姉妹。“あなた、体温が高いのね。”嫌でも意識を惹きつけた始まりの声。記憶から消し去りたい表情。それが何の関係がある?
他人だ。
ああ、それよりも下位だ。
もう何度目か、放課後の階段で和泉の姿を捉えて御堂は唇を歪めた。
「無視すんなよ」
矛盾など何の役にも立たない。すれ違った瞬間見た横顔が、まるで重なるように似ていたことが、感情の防波堤を崩した。目を引く美しさもない、明るさもない、これといった特徴すらない、声も仕草も表情も違うくせに思い出させるのは、血だと言うのなら、そんな不条理がなぜ存在するのか知りたかった。
切り離せないなんて、笑える。
イラついていたモノが一気に高まり、肩に手をかけた。それならいっそ、もっと怯えさせ、軽蔑されればよかった。
反応は予想のどれとも違った。
間髪入れずばしんと派手な音をたてて、かけた手が払われていた。
「何を言ってもいいけど、触らないで」
手に痛みが残る。振り返ってこちらを見た女の、静かで冷えた目。
「こう見えても色々習ってたから、階段から突き落とすくらいはできそうかな」
おそらくそのとき、一段下から見上げる目を、初めて真正面から見た。
白い顔の中。
意外なものを見ていた。予定外の……まるで似ていない本性だ。冷静で不安定な怒りを湛えた黒い瞳は、この瞬間だけを切り取って、正面から問いを突きつけている。一体お前のどこに触れる権利があるのかと。拒絶を、口で言う以上に空気で感じさせる。
答えられるだけの正当性はなかった。そのうちに和泉は、感情を逃す様にため息を零した。
「すみません」
「……すみません?」
「ええ。代わりというわけでもないですけど」
化粧っ気の欠片もなく黒縁眼鏡で隠された顔は笑いもしない、申し訳なさそうでもない、蔑むでもない。はっきりした声が核心を突いた。
「恨めばいいじゃないですか。あの人を恨んで、許してやれば」
夕日が陰る最中、わかっていたのかと、そう思ってしまった時点でもう負けだったのだろう。
いくらでも反論は浮かんだ。それが言葉にできないほど己が惨めなものに思え、自分で自分を惨めだと思えることにすら驚きを感じた。同情されたのだ。それだけのことをした。己で己の首を絞めてやりたかった。今までそんなくだらない感情が自分の中にあるとは思わなかった。苦い、苦い、視界が歪むほど苦い、どれほど酷く殴られても、こんな屈辱には値しない。
ああ、そうか。それでもあの女を、恨むことができなかったから――
「わたしはあの人とは違う。類似点を探したってでてこないでしょう。夢を見たと思ってさっさと忘れて下さい。いつまでも引きずってるなんて女々しいですし」
「黙れ」
そいつは――宮内和泉は、思い直したように呟く。
「なぜ……誰も恨まないのかな」
わたしは人気者の姉さんなんて、大嫌いなのに。
鈍い光に籠る、自嘲するように言った台詞だけが、おそらく残らざるを得ない苦い感情。