緩やかなうつろい(4)
「あら、これ、携帯。誰のかしら」
周囲を見渡しても姉に見惚れる人だけで名乗り出る人はいない。この人通りだ。簡単に見つかったりしないだろう。
人のいい姉さんは係りの人に届けてくるからちょっと待ってて、と踵を返す。
「一緒に行くよ」
「いいわ、すぐ戻ってくるから大丈夫」
小走りで行ってしまった姉を追いきれず、海斗と二人で少し空いている木の下で待つ。どうでもいい話をしながら携帯を弄っていた海斗は、一度伸びをすると、一人勝手に納得したように頷いた。
「やっぱりキミコにあのお面買ってくるか。爆走キューピー好きだもんな。あと……綿菓子なら食えるかもだし。イズミ、ちょっとその辺見てくるからここ動くなよ」
「はいはい、どうぞご勝手に」
ひどいくせに気が回る。それとも、気が回るからひどいのか。明るい通りに出て行った弟からすぐ目を離して、ぼーっと姉さんを待っていた。帯のせいで腰回りが苦しくて少し眠い。空に半月が浮かんでいる。もうすぐあの辺りを花火が彩るだろうか、と考えていると声を掛けられた。
「こんばんは、お姉さん、一人?」
「どうかしたんすか、こんなところで」
男ばかりの軽そうな四人組。思わずまじまじと見つめたが、知り合いじゃない。友達になれそうにもない。高校生か、大学生か、ほとんど年の差は感じなかった。
「家族を待ってるだけです」
嫌な感じがして、声が硬くなる。答えると、すぐに声がかぶさってきた。
「なんだぁ、家族となんてつまんねえだろうし、一緒にいかない?」
「友達に会ったからって連絡して、なあ?」
「いえ、わたしは」
「何でも奢るよ。何がいい? 花火よく見えるとこ知ってるし」
「結構ですって――」
無遠慮に手を掴まれて、よろけた。浴衣が邪魔で動きが阻害される。
こんなところでナンパなんて、場違いと人選ミスもいいところだった。とっさに海斗の姿を探したが、人の波に視線が定まらず、急に動悸に襲われた。
悔しいというより情けない。無力感が湧く。己の意思がどこにも届かないことに、頭のどこかが凍りつく。
唇を噛みしめながら思った。本当に、情けない。腹が立つと次に投げやりな気持ちが湧いて、自棄になってしまう。口が動かなくなる。無愛想なんてそんな問題じゃない。姉と弟の器用さを改めて思い知る。彼らは常にこんな状態にさらされ、やり方はともかく全部腐らず処理してみせる。それに比べたらわたしはとてつもなく甘い。誰かのせいにしてばかりだ。
「ごめんなさい」
いい加減、そんなの嫌だ。
唐突に気分が定まって、手を取り戻すと大きな声で告げた。男たちが振り返り、周囲がこちらを見た。
「携帯、持ってないので。ここにいないと。早くいかないと、花火始まりますよ」
落ち着いて、堂々としていればいい。掌に爪を立てた。痛みでもいいから力にしたかった。
彼らは何か言いかけたが、「宮内さん?」と不意の声にかき消される。振り返ってぽかんとした。
「あ、星野……君」
よく見れば野崎裕介や稲郷正道、同じ学年の野球部の顔もある。駆け寄ってきた星野は、わたしとナンパ集団を見て首をかしげた。
「友達?」
「ううん、違う」
有無を言わせぬ笑みと共に頭を下げると、雰囲気に押されてようやく彼らは人波に流れて行った。深く、ため息を吐いてから、じわりと気恥ずかしさが襲ってきた。
「その、姉と弟を待っててたまたま一人でいたから、暇そうに見えたみたいで。ありがとう。声かけてくれて。助かりました……」
Tシャツに七分袖のパーカーというラフな格好の星野。学校では意識して地味な格好をしている分、せめて他の野球部の連中には顔が見えないように俯く。星野ははっとしたように友人たちを振り返った。
「みんな、悪いけど、先行ってて!」
「てめー星野」「おいおい、この裏切り者がっ」「彼女なんていないって、信じてたのに!」「誰だその美人」
「あーもーお前らは……」
冷やかしとブーイングを浴びせかけ、同級生達は行ってしまう。星野は少し赤い顔で瞬きした後、わたしの隣に立った。
「大丈夫だった?」
「うん、ごめん、なんだか……びっくりはしたけど」
「俺も、びっくりした。たまたま目に入って、浴衣の綺麗な人がいるなぁって思ったら宮内さんで」
「う、えーと、姉さんが着ようっていうからそれに付き合って。星野くんは野球部で?」
綺麗な浴衣を着た人という意味に脳内変換して、話を逸らす。過剰反応してしまうから、やめてほしい。たぶん、別に、ホントに他意はないっていうか、そのまま喋っているだけなんだろうけど、だからこそ心臓に悪い……。
「そうなんだ。昼から一緒に勉強してて、ついでに祭り見に行くかって」
話していた星野の視線がわたしの背後に移る。はっとして振り返ると、案の定少し離れたところに姉さんと海斗が立っていた。
「あ、と、姉さん、もどって」
冷や汗は出るけど言葉は出てこなくて、夏の熱気に当てられたみたいだ。その内に、こんばんは! と星野が勢いよく挨拶していた。姉さんは満面の笑みで挨拶を返す。それから、わたしに駆け寄って言った。
「私は海斗と行くから、イズミちゃんはお友達とまわるといいわ。せっかくだから」
せっかくだから。何か、今日、そんなんばっかりな……。
ていうか、そんなこと言ったって、わたしが嬉しいだけで彼が困るだろうと萎縮してしまう。だけど、すぐそばで聞こえた声は変わらず明るかった。
「ありがとうございます。あっ、もちろん、宮内さんがよければ、だけど」
「い、いいよ! もちろん、わたしだって星野くんがよければ、全然っ……」
「じゃ、いってらっしゃい。あんまり遅くならないようにね」
親のようなことを言いながら終始笑顔の姉さんに、もはや何も言えない。
二人の美男美女が行ってしまって、温度のわからなくなった頬をこする。熱い。夢みたいだ。行こう、と言った星野の少し後ろを歩きながら、呼吸を整えた。
「三人で来てたんだ」
「知ってると思うけど、姉さん……。今、大学から帰省してるから誘われて。綺麗な人でしょ」
「うん、似てるよな」
「いやいやいや似てない似てない似てない!」
「そうかなぁ、兄弟だし、雰囲気は違っても似てると思う」
前後の距離で話していると、人の波に少し押されて離れかける。そのとき一瞬周囲の喧騒が遠のいた気がした。
振り向いた彼が一歩戻り、手を伸ばす。同時にわたしも一歩進み、その手を取った。視線が吸い寄せられ、タイミングがぴたりと合って、それはすごく自然なことのようで、離れたくないという気持ちが重なったようで、喉の奥が熱くなった。
不思議だった。
どうして嬉しいと、泣きたくなるんだろう。
「花火、もうすぐだから、橋の方に見に行く?」
「うん、行きたい。何か食べるもの買っていこうか」
「じゃあ、あの、あれとか!」
「あれ? 純和風おしるこかき氷?」
「おいしそうじゃない?」
割と本心から言ったのだが、初めて見た、と彼は噴き出して笑った。ちょっと不服だったけれど、結局一緒に笑ってしまって。
「じゃあ、俺はポップコーンにしよう。バーベキュー味うまそうだなー、宮内さんも食べれる?」
お詫びにと言って遠慮したのだがかき氷をおごってもらい、彼もポップコーンを買い、隣に並んで歩いた。
人々が集まる広い橋の上に出て、花火を見た。同じ景色に見とれた。
甘い氷は舌を冷やし、交換して食べたお菓子はソースの味がおいしくて。
「今の、珍しいかたち」
「わ、綺麗」
川面を滑る夏の風は隣にある体温をより明確なものにして、わたしは夜空を彩る儚い光がいつまでも終わらないように、ただ、祈っていた。