緩やかなうつろい(3)
突然だけれど、隣県から姉さんが帰省してきた。大学が休みに入ったらしい。活動的な姉は実家に帰ってからも頻繁に出かけていたが、ある日の午後、居間で勉強中のわたしに誘いかけてきた。
「ねえ、イズミちゃん。今晩空いてる? 大丈夫だったら、祇園祭に行きましょうよ」
高校も夏休みに入っていた。まあテストや補習があるからサトコやユイカちゃんや星野とも毎日のように顔を合わせていて、寂しくはない。ちなみに祇園祭は地元の小さな夏祭りだ。昔は家族でよく行ったけれども……。
「いや、わたし受験生だから。彼氏か友達と行ってきたら」
小さく首を振る。
今の姉さんと行くなんて、悪いけど無理だった。
「それでもいいんだけど、そうじゃなくて……高校最後の夏休みなのだし、息抜きも必要でしょう?」
「大丈夫。ウメと散歩行ってるし、そこまで根詰めてもないよ」
悲しそうな潤んだ目で見られたって、嫌だ。嫌なものは嫌だ。高校まではストレートの黒だった飴色の髪を見つめて思う。上品なお洒落に長けていて、見るたびに明るい色気が増す、家族ながら魅力的な人だ。隣を歩くだけでどれだけ注目されることか考えただけで恐ろしい。今年は断る理由だってあるわけだし――とか考えていると姉は目を伏せ、唇にそっと白い手を寄せた。
「でもね、私また大学に帰っちゃうし、そうしたらしばらくイズミちゃんとも会えないでしょう? 一緒に出掛けたいなって、思ったんだけど、せっかくお祭りだから……でもイズミちゃんが気乗りしないなら意味ないわよね……。ごめんなさい、邪魔して、また今度……」
「い、行くよ。行く。せっかくだから、お祭りだしね」
とりあえず負けるわけだけど。
ああ、うん、勝てたためしがない。今にも散りそうな儚い美人には誰もかなわない。意志の弱さにこちらが泣けてくる。
姉は何度か瞬きをした後、両手を合わせて桜が一斉にほころぶような笑みを浮かべた。
「本当? ありがとう! じゃあ、浴衣着ましょうよ。母さんと選んでくるから、後で見に来てね」
「あ、はい……」
逆らえず、現実逃避気味に宿題をするしかなかった。疲れたら掃除をして、ウメにちょっと取り合って、ストレッチをする。そして夕暮れが窓から見える時間帯になり、姉に呼ばれて二階の寝室へ行くと、すでに色々用意されていたのだった。
「どうかしら、この柄。イズミちゃんにきっと似合うと思うの」
「……ホントに着るの?」
「お母さんのだけど、新しくていい生地よ」
期待一杯の笑顔で言われればやっぱり仕方ない。
「じゃあ、せっかくだから」
わざわざがっかりさせるのも気が引けて、結局教えてもらいながら一緒に浴衣に袖を通した。紺と紫の縦縞がベースの生地に、白と薄紅、赤紫の組み合わさった紫陽花模様をあしらった浴衣だ。帯は白で中央に薄桃色のラインが入っている。似合うかはともかく姉さんが選んだだけあって、すごくセンスがいいような気がした。
まあ本人には到底及ばないが。
「やっぱりイズミちゃんかわいい! 私はどうかしら?」
目にも鮮やかな緋色の生地。白やオレンジの百合、牡丹など大柄が散りばめられた浴衣を着た姉が首をかしげる。
「どうも何も……綺麗だよ……」
彼女自身が希少な大輪の花だった。綺麗。本物の美しさだ。帯はベージュで、メイクをして蝶の髪飾りを付けた彼女が、雑誌やテレビの中にいないのが逆に不自然なくらいに。
羨ましいとは思わないけれど、これだけ綺麗だったら自信を持って告白できたのだろうかと、束の間想像した。ぐだぐだ悩んだり迷ったりしないで、答えられたのだろうか。それがわたしなのかと聞かれたらなんとも言えないのだが。
姉さんは嬉しそうに笑うと、わたしに手を伸ばした。
「イズミちゃん、髪と化粧もしていい?」
「いいけど……座ると苦しいし、あんまり手間かかるのは嫌だよ」
「わかったわ。ねえ、」
鏡台の前に座らされて、髪を梳かれながら、呟くように聞かれる。
「好きな人がいるんでしょう?」
「……なんで?」
聞き返しながら、まだ電気を付けない、薄明るい部屋の中で、鏡の中で緩やかに動く白い手を見つめていた。髪に触れる心地よい感触。扇風機の風が足首に当たって、熱を逃がしている。
高揚と冷静と侘しさがつのり、以前こんな風にしてもらったことがあるだろうかと、記憶の狭間に誘い込まれた。
「顔とか柔らかさとか……なんとなくだけど、あぁ、いるんだなあって。どんな人なの?」
優しくて落ち着いた声に恥ずかしさも反発も生まれない。答えるために思い描いていた。どんな人なんだろう。わたしにとって、星野は。あの日の光景が蘇って胸が詰まる。
「いつも、そのままでいる、人だよ」
それだけじゃないけど、だけど、それだけだった。自分でも初めて気づく。様々な理由があって、もっと複雑な言葉だって知っているのに、それだけで十分だった。誰にもわかってもらえなくても、大丈夫だ。
姉さんは何も言わないまま微笑んで頷き、わたしの黒髪に指を通した。
居間へ降りると海斗がいた。
「おわ、浴衣だ。二人とも似合ってんな。もしかして祇園祭行くの?」
「そうよ。いいでしょう?」
姉さんは誇らしそうに胸を張る。部活終わりでシャワーを浴びたばかりらしい海斗は、タオルで髪を拭きながら軽い調子で言った。
「じゃあ俺も行っていい? キミコと行く予定だったのが、ダメになったから」
「なんでよ。また怒らせたわけ?」
「違う違う。熱が出たって」
全く。それもお前のせいじゃないのかと言いたくなるが、ため息にして逃がす。こんなところで兄弟揃うとは奇妙なことだ。
「もれなく姉君達のガードはしますが」
「そうね、じゃあ海斗も行きましょう。みんなで行った方がきっと楽しいわ」
にこにこ笑う姉を見て、今日はそういう運命なのだと腹をくくった。五分で用意してきた海斗も伴って、歩いて十分の神社を目指す。
夕闇が迫る中、普段は無い人々の話し声と屋台の香りが、風に混じり周囲に満ちていた。下駄の音が鳴り、夏の雲が流れ、なんだか無性に懐かしくなる。
「花火は、三十分後ね」
「結構混んでんなー」
「ああ、お神楽やってる」
屋台が並ぶ会場に着くと、流石に混んでいて人の波に熱気がこもっていた。道路の両側に灯るオレンジ色の光が様々な表情を浮かび上がらせる。思い思い神社でお参りをして、名物の饅頭を食べた。楽器演奏のステージを見て、海斗の買った唐揚げを横取りして、姉さんの笑顔でおまけしてもらったり、輪投げで競ったりもした。何の問題もない兄弟みたいに。
姉が落し物を拾ったのは、金魚すくいの前だった。