緩やかなうつろい(2)
星野は不思議そうにしていた顔を緩ませたから、わたしは顔が熱くなり、焦って俯き気味に首を振った。
「ちょっと、ストップ。何か言われてもダメ。無理だから。そういうの、無しで、」
「そういうのって?」
あれ。
そこへ全く予想外の声が割り込んできた瞬間、教室がざわめき、もともと下降気味だったわたしのテンションはマイナスまで冷えた。
「わー! わー! わぁぁあ! 海斗くんおひさー!」
「お久しぶりです、サトコさん。この前はありがとうございました。佐々木先輩も、いつもお世話になってます」
「えっ、ぃ、いいいえっ、そんな、こちらこそっ……」
海斗が立っていた。どう頑張っても無視できない存在感を伴って。クラスメイトの視線が強すぎて痛いのは気のせいではない。つーかはしゃぐサトコはどうでもいいけどユイカちゃんに話しかけないでほしい。視界に入らないでほしい。半径百メートルにいないでほしい。
やたら秀麗な笑顔で礼儀正しく振る舞う野郎がものすごく鬱陶しくて、教室の外に押し返す様にシャツの襟元を掴んだ。
「あのさ、教室まで来るのやめてくれない? ていうか、学校で話しかけるのやめてくれない?」
「連絡だよ連絡。イズミ携帯持ってないだろう。今日父さんが帰ってくるらしくて、姉さんも合わせて帰省するってさ。外食にするから早めに家帰れだと。俺は部活抜けられたら参加する」
「ああ、そう……」
「つれない返事」
ただでさえ不機嫌だったから、よくなかったのか。目を細めて艶を含んだ声で言い、海斗は襟元を掴むわたしの手を指で軽く叩いた。
「邪険にされると、余計焼きたくなるかも」
表情で変わる目の色、口元の影、愛撫にもならない戯れの感触。どこかで誰かが椅子に蹴躓く音がして、サトコが奇声を発して、わたしは反射的に手を放した。
肌がざわめき、相当苛ついた。こいつは自分という人間の認識について全く理解していないわけじゃなくて、ある程度は把握しているから。無頓着で馬鹿で、普段自分の振る舞いについて計算することなんてほとんどないが、利用できないわけじゃない。どうすれば相手の意識を釘付けにできるのか知っていて、表情で、声で、仕草で思い通りにする。まるで人より優れた何かであるように。そういうことをされると本気で腹が立つ。
もう一度制服を掴んだ。
「あのねえ、あんたそれやめなよ。詐欺だよ。それでなんでもかんでも許されると思ったら大間違いだから。いつか絶対後悔するって言い切れるよ」
「はいはい。機嫌が悪いね」
「そうさせてるのは誰なわけ」
「俺だけのせいにするのは、どうかと思うけど」
さらに言い返そうとしたところで、周りの視線に気づいて……というより、星野と目が合って、口を閉じた。胸の奥がすっと冷たくなる。見られたくない。反射的に拒否感が湧いていた。
家ならともかく学校で兄弟揃うなんてほとんどないのに、今日に限ってなぜなのだろう。
宮内海斗の姉だと、思い出されるのが嫌だった。
たぶん、他の誰にそう思われるよりも、嫌だった。
海斗が一歩、前に出た。
「どうも。弟の宮内海斗です。お話には聞いて――いって!」
「そんな自己紹介いるわけないでしょバカか!」
なのにこいつは自己紹介とか意味の解らないことを始めるし、ていうかこの学校であんたの事知らないとかありえないし、その前にわたしを無視すんなって感じだし、もうわけがわからない。
急に話しかけられて戸惑っていた星野は、数秒してとんと手を打ち、納得したように頷いた。
「ああ、そうだ。弟さんなんだ。はじめまして、星野修平です。そっか、うん、家族だな~。ウメがすごく懐いてそうだ」
「うわ、星野すげー。海斗くん相手でもあくまで自然体。さすがイズミを落としただけあ」
「サートーコー」
友人(仮)の顔にハンカチタオルを投げつけ、海斗を教室の外へ引きずり出し、後ろ手にドアを閉じて、わたしは数度深呼吸を繰り返した。そろそろストレスで血管が切れそうだった。
「もう絶縁する」
「絶縁って……」
「ほんとにやだ。馬鹿みたい」
二人で廊下に出ても遠巻きに窺われているのがわかって、投げやりに吐き捨てた。どうせ気にしすぎなのはわたしなんだろうけど。納得いかない。他人のせいにしてしまいたい。無視できるくらいの精神力があるなら、最初からこんな風にはなっていないのだし。
苛々するのを無理やりおさめようとしていると、空気を読まず近づいてくる女の子がいた。
「海斗くんとイズミせんぱいみっけ! おもしろい組み合わせぇ」
「おールリ」
弟の彼女の一人、村賀瑠莉だった。今日は長い栗色の髪を肩に下ろしている。極上の人形を連想させる美少女は、軽くふわふわした笑みを浮かべて首をかしげた。
「あなたでいいからこいつ引き取って目に付かないところにやって」
「えーっ、どうしちゃったんですか?」
「イズミの彼氏がいい人で、こりゃ文句つけられないかもって」
「違う!」
「でもこれから」
「違うってば!」
「邪魔するわけでもあるまいし」
「十分邪魔っ……」
「望んでいるものを実行に移すだけの勇気を持つことが、こわいんですか? 人生の華とも思いこんでいらっしゃる王冠を手に入れたいと望みながら、自分は臆病者だと思いこんで生きていきたいんですか?」
そして、変わらない緩い口調でルリが呟いて、応酬は途切れた。「へ?」と兄弟で彼女の方を向くと、ルリは人差し指を頬に当てて首を傾けた。
「えへ、きのうテレビで岡名くんが言ってたんですよ~。ほらあのぉ、もりのくまさんの名言みたいな? あ、そうそう、下で新発売のジュース出てたからおごってくれない? レッツ塩ジュースー!」
どこにどうつっこんでいいのかよくわからない内に、ルリは海斗のベルトを掴んで楽しそうに歩いて行ってしまう。
唖然とするしかない。出来の悪い筋書きに無理矢理巻き込まれたみたいだ。
「臆病者……」
だけど、考えないわけにはいかなかった。静かになった廊下を向こうまで眺めたって、鈍く明るいだけで。夏の空が緑の床を淡く見せている。気分次第で景色なんて簡単に変わる。
思いがけない今がこぼれていってしまうのが怖かった。望んでいたけれど、本気で望みはしなかった。ただの妄想の類だった。臆病なわたしが何かしたわけじゃない。周りの人が、サトコが、海斗が、そして星野が、変えてくれただけだ。わたしを見てくれただけだ。優しいから。
それが終わってしまうことが怖いなんて、なんて傲慢なんだろう。
そういうことか。
「イズミちゃん、機嫌直して入っておいで~ビスコあげるから。おいしくて元気」
ドアをちょっと開けてサトコが猫なで声を出す。
「それで釣られると思ってるの?」
きっと、そういうことだ。
平静を装って教室に戻ると、ユイカちゃんと星野もまだそこにいた。笑いをこらえているような顔に、視線を逸らし気味に謝る。
「ごめん、お騒がせして……」
「ううん、びっくりしたけど、やっぱり近くで見たら、みんなが騒ぐのわかるなぁって……!」
「でもユイカちゃんは騙されないよね。わたしの方が誠実だし」
「それは、もちろんイズミちゃんがっ……」
「あー、俺の事は?」
「星野くんは、違う、でしょ?」
思いがけない問いかけに頑張って切り返したり、サトコからビスコを奪ったり、騒ぐサトコと攻防を繰り広げていると、考えることからも悩むことからも遠ざかれる気がして――それすらも少し苦しかった。