番外編1
<イズミ10歳:夏休み>
「ねえ、プール行きたくない?」
アイスを食べていた。夕食後、テレビのバラエティー番組を見ながら、姉の七瀬がゆるーく言ったのがきっかけだった。
「おお、行こう行こう!」
「いいわねえ、お弁当持って久しぶりにみんなで行きましょうか」
プールと言えば、家から車で一時間ほどの場所にある市民プールのことだ。小学生の夏休みにはうってつけで、すぐさま海斗が手を挙げて同意し、洗い物をしていた母さんがにっこりと笑う。ていうか、この三人は大抵のことには賛成だから、あまり聞く意味があるとも思えない。
「どう? あなた、今度の土曜日」
そのときわたしと父さんは二人で並んでソファーに座っていた。姉さんや海斗はよく場所を変えるが、わたしはなんとなくの定位置でそこに座る。尋ねられた父さんはこちらを見て僅かに首を傾げた。
「大丈夫だ。行くか? プール」
端的な問いだった。無口で冷静だが、必ずみんなの意見を聞く。間違いなくこの家族の大黒柱だと、認識するのはもっと大人になってからだったけれども。
わたしは少し考えて、残っていたアイスの欠片を舐め、父さんがいるならまあいいかと頷いた。
「じゃあ、行く」
◆◇*─*◇◆*─*◆◇*─*◇◆*─*◆◇*─*◇◆*─*◇◆
そして行くとなると、その日はすぐにやってくる。
八月前半の土曜日は三十度を超える快晴で、プールにはうってつけの暑さだった。混んだ駐車場から飛び出して、汗ばんだ服を着替えて冷たいシャワーをくぐる。子ども三人で先に中へ入ると、もうそこは家族やカップルでがやがや賑わっていた。光をはじく水面がまぶしくて気分が引き上げられる。意外といい感じだ。
「イズミ、イズミ、流れるプール行こうぜ」
「あ、お姉ちゃん浮き輪ふくらますからちょっと待って~」
「いいからとりあえず行こうってばー」
「イズミちゃんだってこれ持っていきたいでしょう?」
と思ったがどこから遊ぼうかと迷う暇もなく、案の定テンションMAXの海斗と姉さんに両側から引っ張られた。なんとなく現実に引き戻される。仲悪いわけじゃないんだから人を挟まないでほしい。
「あー、わかったからほら空気入れ。プールは逃げない。海斗は母さんの荷物手伝ってから行こう」
「「うん!」」
苛立ったら負けだ。深呼吸をして姉さんと父さんと浮き輪を膨らませ、場所取りをする。それから改めて準備運動をして泳ぎにかかった。
海斗と競争して負かしたり、滑り台を滑ったり浮き輪でひたすら流されたり。
夏だった。
全身に水と太陽の光を浴びた。セミの鳴き声と人々の喧騒が、水の上に顔を出す度戻ってきた。
ひとしきり楽しんだところで、一旦荷物のところまで戻ろうとしてふと笑い声に振り返る。
「わぁすごいのね、綺麗な犬かき!」
「そっかぁ? 大したことねえけどな」
「ううん、すごい、ぜひ私もやってみたいわ」
「じゃ、じゃあ教えてやるよ……えーっと、あんた、どこから来たの?」
「沢野町の端っこの方よ。あなたは?」
姉さんだった。知らない男の子と話していたが、明らかにあれだった。悪気はないのだろうが、この天然美少女は短時間で何人に誤解されるのか、若干遠い目をしてしまう。
「あ、浮き輪があんなところまで行っちゃったわ」
「俺、取ってくるよ!」
「え? ありがとう……やだ、あんた超かわいいわね!」
「お姉さん達ほどじゃないけど」
「あはは、口達者~」
かと思えば海斗も海斗で綺麗なお姉さんと戯れているから笑えない。一体全体どういうことなんだろう。誰か説明してほしい。もうしばらく関わるまい。
呆れて歩き出すと、すぐ手前で同い年くらいの女の子が泣きそうな顔をしていた。気になって見渡してみたが、周りに家族らしい人は見当たらなかった。
つい「どうしたの?」と尋ねると、女の子はプールの底を指さした。
「わゴムが……落ちちゃった……」
「ん。ちょっと待ってて」
息を吸い込み、弾みをつけ深い水の底へ潜る。水色の床に光の模様が揺れていた。目を凝らすとほどなくクローバーの飾りがついた髪留めが見つかり、手を伸ばして拾った。ちょっと笑って「はい、どうぞ」と手渡すと女の子は消え入りそうな声で「ありがとう」とお礼を言ってくれた。
一仕事して再び戻ろうとすると、今度は目の前に水泳キャップが飛んでくる。つい拾い上げて飛んできた方向を見ると、数人の男の子達が一人の男の子をからかっているのが目に入った。
「なにすんだよ!」
「ばーか、かなづちー」
「泳げないとかダセー」
「悔しかったら追いついてみろよ~」
わたしは悔しそうな顔をしている男の子の頭の上に水泳キャップを乗せ、そのままプールに飛び込んで、親玉らしい子の水泳キャップを奪い、力の限り遠くへ放り投げた。なかなかいいところへ飛んだ。すぐさま罵声が飛んできた。
「なにすんだよ!」
「あの子の質問に答えるなら、わたしも答えるけど」
「あーもー! ふざけんな! ばーか!」
わたしを捕まえようとする手を適当に避けていると、やがて彼らは負け惜しみを言いながら向こうへ泳いで行く。恥ずかしくなったのだろうか。振り向いて男の子の方を見ると、彼はぽかんとしていた唇をきゅっと引き結んでこちらを見つめてきた。とりあえずぐっと親指を立ててみると、彼は噴き出したので、わたしも笑った。
「泳ぐのなんか、すぐできるようになるよ。力抜いて、足をこうやってのばして」
「こうか? 息継ぎは?」
「無理しなくて、水面に出るくらいで」
しばらく二人で練習し、母さんが迎えに来たので手を振って別れる。母さんはにこにこと笑いながら、頭を撫でてくる。
「お友達になったの?」
「まあ、そうかな? 泳ぐの教えてた」
母さんは花柄のワンピース型の水着を着ていた。独身の頃はモデルをしていたとかで、今でもありえないくらいスタイルが良くて、身内から見ても美人だ。だから勘違いされるのも仕方ない、のかな……。
「二人で来てるんですか? 妹さん?」
二人でシートの上に座ってお茶を飲んでいると、隣に座っていたナンパそうな男が声をかけてくる。母さんも母さんでのほほんと笑顔で返答するもんだから。
「あら~、本当? この子、妹に見えます?」
「ちがうんすか? わかった、じゃあ姪っ子さんだ。よく似てるから、絶対将来美人になりますよ~」
「まあ、ありがとうございます。よかったらお茶飲んでみて下さいな。これ黒豆で健康にとってもよくて」
「母さん」「花澄美」
わたしがわざとはっきり言うのと、父さんが戻ってきて名前を呼ぶのと、ほとんど同時だった。ナンパ男は明らかに固まり、父さんを見上げてさらに凍結した。うん。説明すると、簡単なことだが、我が流治父さんの容姿ははっきりいって堅気ではない。刺青をしているわけでもスキンヘッドにしているわけでもないが、背が高くて鍛えられた身体で目が鋭くて、わりと顔が整っていて雰囲気が研ぎ澄まされているせいか。別にいたって普通の会社員なのだけれど。
そして母さんはひたすら空気を読まなかった。
「あらあなた、お帰りなさい~」
「そろそろ昼にするか。そちらは?」
「なんでもないですすいませんでしたごめんなさい」
「はい」
残りの二人も呼び戻してみんなでお弁当を食べる。お腹が落ち着いた頃、母さんと海斗と姉さんは再び正面のプールへと遊びに行った。美しい三人の生き物は華やかさMAXで注目を浴びまくっていたが、本人たちは一ミリも気にしていないみたいだった。
わたしは父さんと隣同士で座ってその光景を眺めながらアイスをかじっていた。聞いてみる。
「ねえ、なんで母さんと結婚したの?」
「なんか、放っておけなかった」
「ああ……」
蛇足 ―何の意味もありません予めご了承ください―
<もしイズミが男で星野が女だったら(出会い)>
当然誰かが残っていて結局引き返すこともあるのだ。絶好のコンディションに俄然やる気が出てきて、ジャージの裾を捲り、早速雑巾を絞ってすばやく廊下から拭いた。
少し冷たい布と床。力を込めてただ汚れを落としているだけで無性に落ち着くのが不思議だと思う。一言でいうなら安堵。そこに、何か別の意味があるだとか、考えたりはしないのだが。
卑屈になりそうで頭を振る。思考を追い出す。
やがて廊下が綺麗になり、続いて教室の入り口辺りに手を伸ばそうとした。そのとき、
「あれ?」
「え?」
集中しすぎていたのか、足音に気付けなかった。不意に誰かが入ってくる。
背景の窓の外では、まだほんの僅かな雨が降っていた。
「えっと、宮内くん――」
どこか現実味のない声は、一人分だった。
ぱちりと目が合い、相手が自分の苗字を呼ぶ頃、おれも彼女の名字を思い出していた。
星野さん。
思い出したはいいが今年初めて同じクラスになった人で、つまり大勢の例に漏れず話したことがない。
「あ……っと」
まずい。どうしよう。どうしよう、というか、何で?
我に返った瞬間、思いっきり目線を逸らしていた。だってこんな、思いもしない。不意打ちに心臓が早鐘をうちはじめる。忘れ物でもしたのだろうか、ひどいタイミングだった。別に立ち入り禁止とか決められる立場じゃないが。
とにかくよく知らない相手には挨拶すら苦手なのに、そんなことを世の中は考慮してくれないのは嫌というほど知っている。
誤魔化さなければと渋々口を開きかけ、
「――ごめんなさいっ!」
「はい?」
相手の謝罪に遮られた。
ごめんなさいって何が。
再度思考停止してしまい、おれはしばらくの間雑巾を握ったまま床で言葉を探した。邪魔してごめん? そもそも話しかけてごめん?
結果的にどちらでもなく、なんと彼女は自らも雑巾を絞ってきて隣で床を拭き始める。
予定外も大概で、これには本気で動揺した。
「い、いいよ。そんな……おれは、美化委員だし、だから気になっただけで、手伝わせるなんて思ってもなくて」
「ううん。宮内くんだけにやらせてそのまま帰れないし」
「あの、じゃなくて、本当に、これは趣味みたいなものだから、」
「趣味?」
「う……まあ」
素直で真面目そうで、耳触りのいい声に、心臓が波打つ。不思議そうに聞き返されれば、仕方なくでも説明するしかない。「汚れていたらどうしても片付けたくなるだけなのだ」と言うと、星野は床の汚れを落としながらなるほどと頷いた。
「それでもすごいと思う。いつも黒板きれいにしてるし、枯れかけてた観葉植物の世話とか亜衣先生のフォローして、放課後まで……この教室がきれいなのって、絶対宮内くんのおかげだね」
「っ、気付いてる……」
「え?」
本当に、指摘された瞬間はどうしようかと思った。普段の行動は、誰にも気付かれないように注意していたのだから。
予想以上に恥ずかしく、並ぶ机の脚を見ながら苦笑と共にそう零すと、星野は手を止めて曖昧に首を傾げた。
「気付くよ。のんびりしてる亜衣先生だってそのうち……少なくとも、ここに一人は。だから、みんなを代表して、」
ありがとうございます。
遠い音しかない空間で。正面からまっすぐに笑みを向けられる。
なぜ見てしまったのだろう。
なぜ、そのときだったのだろう。
いつ思い出しても、それは本当に他意のない、自然な表情に見えた。本来ならとても親しい人間にしか見せられないような。
羨ましい――と思うと同時に、胸に苦い思いが滲んで、無理矢理視線を引き剥がすしかなかった。
苦い。とても苦く、心臓が痛くてうるさくて、深呼吸をしてもまだ顔が熱くて。
ああ、しまった。完全にやられた、なんて思ったって。
無駄だ。
いくら後悔したところで、一瞬でも好きだと思ってしまったら、そう簡単には取り消せないのだから。
結論:特に違和感はない