かなわないもの(4)
昼休みまではあっという間だった。気を落ち着かせながらお弁当を食べて、時間通りに体育館横のスペースに向かう。ベンチの前に辿り着くと、部室に行っていたらしい星野がちょうど走ってくるところだった。
「はー、ギリギリセーフ?」
「じゃあ、特別にセーフで」
「おお、ラッキーだ」
ホントにいちいち何もかもが可愛い。屈託のない笑顔で彼は空気を和ませ、二人でベンチに腰を下ろす。他の生徒の姿は見えなくて、体育館内で賑やかに騒ぐ声だけが聞こえていた。間に空いた一人分の距離が、近いようで遠いようで、現実感を薄くする。
「それで、俺、昨日は……すげー焦っちゃって、あんな、急に自分勝手なこと」
顔を見ることができなくて、曇り空を眺めた。キスの話はどう頑張っても冷静に考えられない。
「それは、わたしのせいだから、もう……気にしないで。あのとき星野くんの話全然聞くつもりなくて……」
「そう、なんだよな。無かったことにしてほしいって言われたけど、そういうわけにはいかなかった」
口調に少し拗ねたような響きが混じる。ああ、こういう声も出すんだと、新しい発見に胸が疼く。もっと聞いてみたいのに、同時にこれ以上近づくのはとても怖くて、何度考えても訳が分からなくなった。
――そんなに、一人で綺麗でいなくてもいいじゃん。
サトコに言われた言葉が浮かぶ。確かに、自分が傷つくのは嫌だった。そして自分の臆病さが誰かを傷つけるのが嫌だった。何もしなければ綺麗でいられる。悪い方にばかり考えているのかもしれないが、どうすれば割り切れるのかどうしてもわからない。
「本当に、聞かれるとは思わなくて。片思いでいいって思ってて……正直、それで終わらせるつもりだったの」
「うん」
「だから、付き合うとかはわたしの中でありえなくて、考えたこともなかったっていうか……」
「そうかぁー」
ため息が聞こえて、恐る恐る隣を見ると、星野は膝に両手を置いて少し俯いていた。
「覚えてる? 俺、あの時宮内さんのことしか心配しなかった」
「あの時?」
「川から戻ってきたとき。感謝なんか一かけらも出てこなかった。犬たちが溺れそうだったのに、そんなこと吹っ飛んでた。情けなくて、悔しくて、死ぬほど安心して……ウメとマツが溺れたとしても、たぶん俺は宮内さんが危険な目に合うよりはよかったんだ。最低な飼い主だよな」
最上の言葉を貰ったはずなのに、なんだかおかしかった。そんなのウソだ。なんで自分ではわからないんだろう。最低なんて、そんなはずはない。
「ううん。違うよ。わたしが飛び込まなかったら、星野くんが助けに行ったよね。もし泳げなかったとしても、絶対助けに行った。放っておけるわけないんだから」
こちらを向いた顔に頷いて見せる。溺れている子犬を眺めているだけだなんて、そんなこと出来る人じゃない。わたしが近くにいたという、それだけのことだ。
「だから、わたしが行ってよかったんだよ。たぶん」
「う……そう言われると嬉しいのか嬉しくないのか、わかんねえなー」
「事実として、よかったってことかな」
「よかったっていうのも、単純すぎだけど……!」
「まあ、でも、過去は変えられないし」
「これからは、気を付けるってことだよな?」
「うん。もともとそんなに衝動的じゃないから」
いつの間にか微妙な攻防になり、言い合っていたが、星野が深く呼吸をしたのが分かったから、わたしも片手を握りしめた。
「ともかく、そういう気持ちがあったから、宮内さんの言ってたこと聞いたときは、びっくりしたけど、嬉しかった」
「うん……」
「話聞いてもらえないから、どうしようかと思って、あんな形になってしまったけど」
風が吹いて、今度はわたしが俯く。今にも雨が降り出しそうだった。
初めて話をした日も雨が降っていた。止みそうで止まない弱い雨だった。あのとき放課後の教室に入ってきたのが彼じゃなかったら、きっと誰も好きにならなかった。
まだ決定的な問いに対する答えが見つからない。彼はわたしの方を見て笑ったようだった。
「もう一回ちゃんと伝えたら、宮内さんは困る?」
静かな中に決して急かさない、自然で柔らかい声が響き、瞼の裏が熱くなった。
困る。
困るよ。
なんで、こんな風なんだろう。
必死に感情を抑えた。
「好きだから、困る」
「え?」
「わたし、兄弟があれだし性格もこんなだし、高校の三年間は絶対恋愛はしないって、入学したときに決めてたの。からかわれたくなかったから。でも、やっぱり言われるときは誰でも言われるものだよね。そのうち他の人が何考えてるのか全然わからなくなって、嫌になって、あんまり腹が立って、たまたま告白してきた人と好きでもないのに付き合うことにして。どうせ姉さんの代わりか冗談だと思ってたんだよ」
すごく心臓が痛かった。だけどわかってもらうには話すしかなかった。
「違ったんだ」
「違った。ちゃんとわたしが好きだったって……振られたけど、そんなこともわからなくて。それ以来、今度こそ恋愛には関わらないって思ってた。つまり……全然心の準備っていうか、覚悟じゃないけど……片思いはともかく、今すぐ付き合うっていうことを全く考えられないっていうか……」
「ってことは……俺、すげーラッキーなのかな」
「は?」
ラッキーって何が。
必死で頭を整理していたけれど、よくわからない返しをされて、間抜けな声が出る。
怪訝な顔をしていただろうけど、星野は照れたように頬を掻きながら、気付かず続けた。
「それって、好きになってもらえる確率が、ほとんどなかったってことじゃない?」
「え……? あ……う……そう、かも、しれないけ、ど……」
そうだけど改めて確認しないでほしい。っていうかわたしがべた惚れってことバレ過ぎだろ!
急に顔から火が出そうになって、言葉が喉に引っかかって、咳き込みそうになる。ああ、もうやだ。帰りたい。部屋に引きこもりたい。
笑いを含んだ声が指摘した。
「宮内さん、顔赤い」
「こんなときに平然としてても変でしょ!」
「うん、けど、急に動揺するから、なんかかわいいなって」
「かわいくはないから!」
さらっと爆弾発言された気がするが、勢いで否定し、さらに意を決して彼の目を見つめて言った。
「もしよかったら、これからも友達でいてくれないかな。いつになるかわからないけど、心の準備ができたら、もう一回ちゃんと伝えたいから。そのとき星野くんが心変わりしてても、納得して振られるよ」
わがままで精一杯の言葉に、彼は目を逸らさないまま頷いた。
「わかった。待ってる。そう言ってもらえただけですげー嬉しい」
言葉をそのまま表すような、素朴で特別な表情に見とれた。わたしのつまらない虚勢を剥いで、ゆっくりと前に進む力をくれる。だから、いつか必ず言える気がした。
ありふれた、わたしだけの言葉で。
「教室、戻ろっか」
ベンチから立ち上がるとき、一瞬だけ手を繋いで、笑い合った。雨交じりの風を深く吸い込んで、彼の隣に並ぶ。
ふと振り返ると、微かな光に雨がさらさらと輝いて、確かな夏の気配がした。