かなわないもの(2)
そして体力気力を使い果たして家まで帰りつき、玄関に飛び込んだ瞬間海斗と正面衝突した。結構な勢いだった。
「ぷはっ!」
「うおっ!?」
「ワウワウっ」
最悪なタイミング。二人してしゃがみこみ、しばらく痛みに耐える。なにやってるんだというようについてきた犬が吠え、もう何か力が抜けて動けそうになかった。
「いってぇ……イズミ、大丈夫か? つーかドア開けるときはもうちょいゆっくり……イズミ?」
「あーもう、だめ、なんだけど、こんな、」
「は? え、なに、イズミ、顔赤――ってびしょ濡れじゃねえか! どうした!? まさか誰かに」
「ちが……べつに、ど、どうしたとか、どうしたとか」
「おい、本当に熱あるんじゃねえの? とりあえず着替え持ってくるから風呂まで行こう。な。歩けるか?」
「うぅ……」
どうしたとか、どうしたとかどうしたとか! どうしたもこうしたもあるか! こんなことが現実にあるもんか! 妄想だとしたらわたし、頭大丈夫なのか?
海斗になだめられてのろのろと浴室まで行き、張り付いた服を脱ぎ頭から熱いシャワーを浴びる。まるで鈍い。熱が淀み、感覚が遠くて、途切れない水に溺れそうになる。試合の後のように疲れていた。からかわれたのかもしれないと思った。だけど、
――そういうこと、だから……
「そんなわけは……」
ない。誤魔化せない。嘘ではありえない。彼はそんな人じゃない。この皮膚に触れた手が熱かった。わたしを見ていた。まっすぐで偽りのない眼差しだった。
どうして?
「気分悪い?」
部屋着に着替え、居間に戻ったわたしにスポーツドリンクを差し出しながら海斗が問う。受け取りながらソファーに座り、項垂れて首を横に振る。そういえば彼はジーンズにシャツとベストという外出着だった。出掛けるところだったのだろう。
所在無くジュースのキャップを開けながら言った。
「……出掛けてきていいよ。怪我したとか、じゃないから」
「いいって俺の事は。デートはまた行けばいい」
「デート……キミコちゃん……?」
「んーいや、年上のお姉さんに遊ばれに行こうとしてた」
「じゃあいっか……」
「ははっ。そうかもな。俺結構かわいそうじゃねえ?」
あっさり笑う海斗をかわいそうだと、素直に思う。正直憎み合わない事が不思議だった。わたしにとって海斗が負担になるように、海斗にとってもわたしはいつでも負担になる。気づきたくはなかったのに。
優しさとは不自由なものだ。
「ウメ、連れて帰ったんだな。引き渡すかもって言ってただろう」
「ああ……忘れてた。ていうか……ウメが、ついてきたから」
「その人と何かあったわけか」
「なにかって、なに、なにがなんでどうしてそう」
「言いたくないなら無理には聞かないけど。心配性なんだよ、たぶん俺」
足元で尾を振るウメを撫でながら、海斗は呟いて、少し黙った。
静かな室内にいても胸のざわつきが収まらず、口に含んだ飲料の冷たさだけが浮く。話せる言葉もないが、離れる気にはならなかった。敢えて言うなら意味のないことを喋り続けてほしい。
「はっきり知ってるわけじゃないけど、いい人なんじゃないの。イズミが好意を持つってことは。何があったとしても、素直に受け止めればいいと思うよ。信じるのも案外いいもんだって……俺が言うのも何だけど」
「わかってるよ……」
「とりあえず、都合がいいように信じればいいんだよ。そうしないと、なんか、動けないだろ」
海斗に聞いたことがある。なぜ、見境なく女の子と付き合うのだと。
彼は断る理由が思い浮かばないと、答えた。
『好きになってもらえるのって嬉しいことだし、女の子はかわいいと思う。断ろうとしてもどこがだめなのかって聞かれると、答えられなかった。どんな子だっていいところがあるわけだしな。だめじゃないのに断るのは変じゃないのか?』
誠意が無いにも関わらず姉と弟を心底から憎めないのは、確かな強さがあるからだろう。
他人に向けられた感情を全部平等に受け入れる。受け止めても、潰れない強さがある。
わたしにはどう足掻いてもできないことだ。
「ああ、でも別に、その人と無理に付き合わなくてもいいけど」
「は……?」
「応援してるわけじゃないから。独り占めされるのは、気に食わないしな」
さらりと半乾きの髪に触れられ、頬が熱くなった。自分の事は棚上げにして文句つけるなんか生意気にもほどがある。
「触るなバーカ! 別に、わたしは誰のものでもないから。自分だって誰かに何かを切り売りしてるわけじゃないでしょ。あんまり馬鹿にすんな!」
「まあね。素直に嫉妬してみただけだって。わかってるくせに」
「なんでわたしに嫉妬するわけ。もっと他に正しく嫉妬すべき人がいると思うんですけど」
「あー……」
タイミングよくケータイが振動して、海斗がメールを開く。彼は形のよい眉を微かに顰め、一つ息を吐いた。一挙一動が秀麗で気を抜くと見つめてしまう。なるほど、憂慮なんて星の数ほど降ってきそうだった。
「やっぱ、出掛けてこようかな」
「うん」
「本当に大丈夫?」
「うん」
「夕食は母さんが作ってるから、ちゃんと食べろよ」
「わかってるよ」
一人になりたいのかなりたくないのか、わからなかった。でも、これ以上海斗に重石をつけたくはない。
会話を打ち切り、夕食を温めるために台所へ行った。食欲はなかったが野菜スープとサラダとハンバーグをよそって少しずつ食べる。一人でテレビを見ていても、内容が頭に入ってこない。猫のノリコが足元で丸くなる。いつのまにか唇に指で触れていた。思考が揺らいだ。
好きだ。そういう、口づけ。嬉しい。恐い。信じられない。どうなんだ。好きだよ。でも、それだけでよかった。あのままでいたかった。そうなのか。なんて自分本位。ああ、自信がない。弱くて嫌になる。逃げてしまった。わからないんだよ。どうすればよかったんだろう。これから、明日、どうすれば――
プルルル、と家庭用電話機が鳴って、はっとした。ウメが短く吠え、時計は午後八時を過ぎていて、外はとっくに日が暮れていた。
「はい。宮内ですが」
鼓動をなだめながら電話に出ると、聞きなれた声が鼓膜に触れた。
『お、もしもしイズミ? ですよね?』
「え……サトコ?」
驚いて聞き返すと、生真面目な声で返答がある。
『ええ。親友過ぎて逆に困る。川上里子です』
「そうだね。困った。切っていい?」
『なんで切るの。なんでこのあたしが電話切られなきゃいけないの。ていうかイズミ携帯買えよ。もはや現代人じゃないよ。今時女子高生でありえないよマジで』
「いや、うん、買うけど」
自分でもちょっと思っていたがなんとなくため息が出る。そこまで言われる筋合いはない。
ともかく思いがけない電話に、気持ちを仕切りなおして訊ねることにした。
「で……どうしたの?」
『あ、そうそう。そうなのよ』
「早く言えうざいから」
『だから、それ。どうしたのって、聞こうと思って。電話したんだけど』
平静を装って冷たく言ったのに、優しい声に答えられて、一瞬息が詰まった。
なぜそんなことを聞くのだろう。どうして知ったのだろう。疑問に思い、選択肢は幾つもないことを思い出す。たぶん、星野じゃない。だとしたら……。
「海斗、から?」
『そうだよ。ちょっと前に海斗君から連絡あって、イズミに何かあったみたいだからよかったら家に電話してほしいってさ。イズミからはきっと掛けられないからって。超姉思いで惚れたわ』
情の深さも心配りもまるでそつがなくて、嫌になる。自分だって楽なわけがないだろうに、なぜそこまで。
感情を殺したくて目を閉じると、友人の笑う気配がした。
『ていうか、そんなことも知らないんだよねえ。あんたは。そんなに、一人で綺麗でいなくてもいいじゃん。何かあったんならあたしでもユイカちゃんでもすぐ電話すればいいんだよ。迷惑じゃないし。近くにいるんだから、偶には頼ってほしいと思うよ』
叱るでもない、からかうわけでもない、穏やかな言葉が心に刺さった。言われて初めて気づいた。
己の事で精一杯で、きっと周りのことなんて何も考えてはいなかった。一人で行動することを苦だと思わないし、むしろ一人ではできないことが恐かった。誰かに依存するのは嫌だった。自分一人で自分の全てを整えていたかった。
間違いだとは思わない。
だけど、そういう事達と、今サトコが言ったこととは、似ているようで違うのだろうか。
そうだったらいいと思う。
このまま抱え込めば、全部消してしまうだけだろうから。
「……わたし、今日、手違いで星野君に告白、みたいな、してしまって」
『ほう!? それでそれで?』
「ほ、ほんとに、言うつもりなかったんだよ。聞かれるなんて思わなくて……でも、ふられるはずだったのに」
『うんうん』
サトコは要領を得ない話にいつもの調子で相槌を打つ。
情けない気持ちはあったが、重かった混乱が薙いで、確かに何かが変わっていく予感がした。