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かなわないもの(1)

 

 ぼんやりした約束をしたその週の日曜日の昼過ぎ、わたしは星野の家の前の河川敷に行った。

 貰われていく前に最後に一度、兄弟で遊ばせないかと星野が提案したからだ。二度と会わないとも限らないが、わたしもそれはいいなと思い、賛成してウメを連れて行った。

 ちなみにサトコも誘ったのだが用事があると言って参加せず(嘘だったら事故れ)、実質二人きりなのだが、わたしはジャージで犬の保護者に徹し犬どもを遠慮なく盾にすることを決意して挑んだ。部活とバイトの合間で私服姿の彼は少し眩しかったけれど。


「おお、やっぱりみんな久々の再会で嬉しそう」

「本当に……さらに元気だよね。ウメ、ボール!」


 広い河川敷に三匹を開放して、精一杯相手をする。午後が傾いた昼下がりはいい天気で、時折散歩をする人がいるだけの草原は平和な貸しきり状態で。

 暖かい光の中三匹は元気よく走り回り、ボールを追いかけて、取っ組み合いをして、わたしや星野にじゃれついた。甘やかしてはいけないと思っても、今日だけはなんとなく怒る気になれない。そんな日だった。


 走り回ると汗ばむくらいの陽気で、風が心地よく吹く。「マツ、しっかりやれよ!」と笑顔で子犬をなでる星野を、これまでにない清々しい気持ちで見つめる。些細なことでいくらでも笑ってしまう。五感は明確なのに、夢のようにも思う。


 これからもう一度でも、こんなに堂々と彼を見る機会があるだろうか。

 わたしは今日、ウメを手放してしまうのだろうか。

 世界はこんなに綺麗だったっけ。

 とりとめのない思考は泡のように溢れては消え、遊べ遊べと際限のない犬たちの催促が、ずっと続けばいいという気持ちになった。


 そうして遊び始めて、半時間は過ぎただろう。

 滅多にない平和な時間が、このまま穏やかに終わることを疑っていなかったわたしは甘かった。事件というものは、大抵そういうときに起こる。


 アホだ。


 信じがたいアホ共だった。離れたところにいた星野が「あっ」と声を上げたときには遅かった。若干見直しかけていたのに、わたしの犬に対する評価は一気に無に帰した。だって水際でじゃれあっていたウメとマツが、不意に川に転がり落ちたのである。


「キャンっ!」


 短い岸壁があって、その下に深めな水は絶え間なく流れている。泳げない二匹は甲高い悲鳴をあげて、暴れた。

 わたしは近くに居た。それだけで、考えることなく上着だけ脱いで、飛び込んでいた。


「宮内さん……!」


 星野の声が遠くから聞こえた気がしたが返事はできなかった。

 雨で増水した初夏の水温は刺すように冷たくて。全身の硬直を振り切るのに数秒かかり、側にいたマツを拾い上げて岸に戻すのに十数秒かかる。

 振り返るとウメの姿は完全に水に沈んでいた。足がつかないほどではない川の中に頭まで潜ると、三メートルほど前方にその姿を見つけた。動きにくい服装だったが、流れに逆らい手を伸ばして夢中でウメを引っ掴む。

 酸素の限界寸前、水面に顔を出すと肩にウメの爪が食い込んで、自分の呼吸音が震えていた。名前を呼ばれて振り返ると、マツを抱いた星野が岸壁ぎりぎりのところで、必死の形相をして手を伸ばしている。

 わたしは流されないよう慎重に岸に戻ると、その手を取って河川敷にあがった。子犬は激しく身震いして水を飛ばした。

 正常な呼吸がなかなか戻ってこなかった。青とも茶ともいえない静かな川の色が目蓋の奥で揺れる。眼鏡を流してしまったことに気付き、髪を絞りながら、わたしはぐったりして寝転びたい気分だった。


「ああ、もう……! なにやってっ……いきなり飛び込むとか、危ないだろ!」


 珍しいことに星野は怒っていた。少し泣きだしそうでもあったので、転落したバカたちに言っているのかと思いきや、「宮内さん、聞いてる?」と睨まれて慌てて返事をする。


「え? あ、はいはい……」

「無事だからよかったけど、ほんとよかったけど、マジで心臓止まるかと思った……俺、膝が悪くてほとんど泳げないし。わかってるのに、飛び込むところだった」

「ごめん。でもあの、わたしこう見えて運動神経で困ったことはなくてね」

「そんなの関係ない! むしろそういう人のほうがいざってときには――」


 心配されている。

 怒られながらもそう実感できて、殊勝な振りで聞いているのも全然悪くはなかったのだが。

 寒い。

 誤魔化しようがなかった。いくら初夏でも風が吹くと震えが走る。堪えきれずに一度くしゃみをしてさりげなく上着を引き寄せると、星野はすぐに気付いてぱっと立ち上がった。


「って、ごめん……! そうだよな、すぐタオルとか取ってくるからちょっとだけ待ってて!」

「うん、ありがとう」


 走っていく気配がして、わたしは大きく呼吸をした。夕暮れが近づいて空の色が変わり始めていた。

 ずぶぬれのウメがもうけろっとした顔で側にやってくる。このやろう、と睨み付けたが犬は逃げる気配はなく、わたしは諦めてウメを抱き上げ、草の上に寝転んだ。

 焦点を合わせた、柴犬の濡れた目が不意に滲んだ。そのとき身体が震えたのは、たぶん寒さのせいではなかった。歯が鳴った。

 ああ――よかった。


「これだから、犬なんて嫌いなんだ。大嫌い。落ち着きないし、馬鹿だし。わかってる?」


 本当に、わかってるの。それとも理解できないの。伝わらないの? 本気で、心臓が破裂しそうなほど、無我夢中になったのはなぜなのか。躊躇しなかったのは。今まで恐怖すら打ち消せたのは。

 教えてやりたかった。お前がいなくなったら、きっとわたしは二度と犬に触れない。目に映すことさえ拒む。


「クゥン」


 まるで慰めるような表情をして犬は鳴き、どうしようもなくなって、気が抜けた。全く、本当に、バカだ。出会ったからには死なせたりしないと、わたしが思うよりもずっと前から星野に思われているくせに。川に飛び込むなんて我ながら危険なことをしたけれど、真面目で一生懸命な彼が悲しまなくて本当によかった。

 ぼんやりと呟いていた。



「お前はいいね。大切にされて。わたしだって、星野くんが好きなんだよ」



 人生の汚点を挙げるとしたら、ベスト3以内に入る。それくらいの衝撃が待っていた。



「え……?」



 返答が、聞こえた。

 耳を疑い、わたしはこれまでにない勢いで飛び起きて、ウメを放り出した。

 振り返るとすぐ側に星野が立ち尽くしている。呆けた顔をして。


 今、わたし――。

 それ以上は思い返せそうにもなかった。いやわかるけどわかりたくない。やりなおしたい。訂正したい。いっそ抹消したい。あまりにも恥ずかしい。だっておかしくない? どういうこと? ほんの一分前からでいいのに、なにをどう足掻いても、絶対に、聞かれたという事実は覆りそうになかった。


 事実――犬相手に告白した。最低じゃないか!


「な、なん、で? タオルは!」

「あ、その、やっぱ、家に来てもらったほうがいいと思って、」

「ちがう。違うの。今のは違うから!」

「違う、の?」

「違う、わけじゃないけど……! そういうことじゃなくて! 言おうと思ってなかったの、ウメのことも、仲良くなろうと思ったんじゃなくて、掃除、助けてくれた分少しでも返したかっただけで」

「宮内――」


 言い訳のオンパレード。ウメを睨んでももうどうしようもない。

 死ぬほど顔が熱くて、いっそ死んだほうがマシだと思った。言葉を重ねるほどみっともなくて空しかったが、遮らずにはいられない。

 だって無理だ。聞きたくない。知りたくない。奪われたくない。わかっているのにふられるなんかひどすぎる。こんなずぶ濡れな上、片思いすら否定されて、どうやって家に帰れって言うんだろう。


「付き合いたいなんて絶対言わないし、これは事故で、これ以上話したいとも言わないから、だから、ごめん。本当にこれはなかったことに」


 何か言おうとしていた彼は、諦めたように口を閉じる。

 やっぱり優しいな。

 なぜか泣きそうになった瞬間、右腕を引かれ、うなじに彼の手を感じた。


 そして思わず目を閉じた暗闇の中で、唇を塞がれる感触がした。


 一秒。

 たったそれだけで、全部壊れてしまう。



「そういうこと、だから……」


 

 すぐそばにある星野の頬が赤かった。

 律儀な視線がまっすぐにわたしを見つめている。


 ――嘘。こんなの、絶対勝てるわけないじゃないか。


 眩暈がして、なんかもう言葉なんて出てくるはずもなくて、わたしは全力でその場から逃げだした。

 









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