日常生活と罠(1)
「宮内先輩、あの、これ……」
「はい?」
「わ、渡してくれませんか? 手紙なんですが……」
「海斗?」
「はい」
高校生活も最終学年に入り、一月ほど経とうとしている朝。登校直後、靴を履きかえたところで、目の前にすらっとしたかわいらしい少女が立ちはだかる。
「イズミー、先行っとくよ」
友人のサトコが薄情なことを言い、わたしは「はいはい」と適当に返事をして、見知らぬ後輩に視線を戻す。学校指定のスリッパの色は深紅だから一年生だ。
「ごめん、知らないかな。ポストは受け付けてないんで。兄弟だとしても不干渉、平等拒否でお願いします」
「え、でも」
「自分で渡すべきですよ」
朝は、三日ぶりである。夕方は昨日あった。グラフでもつければ何らかの法則が見えるのかもしれないが――何かと言えば、入学当初は宮内七瀬の妹、そして現在は宮内海斗の姉として、珍重されているのだった。
利用法はもっぱら情報伝達手段であり、手紙とか、連絡先とか、差し入れ、予定把握、現在の交友関係その他諸々……断るのもいちいち楽ではないのだが。
しばらく問答をした後頭を下げ、ぱたぱたと階段を上っていく見知らぬ女の子を見送りながら、やれやれとため息を吐く。
世の中には理解できないことが多い。流行は廃れるものだし人気は衰えるものなのに、弟は相変わらずで、一年経ってもあまりファンが減らないのは一体どういうことなのだろう?
玄関から走りこんできた同じクラスの副委員長に「宮内さん? 遅刻だよ!」言われ、ようやく階段に足をかける。
「おはようございます」
なんだか最近焦る気もしなくなってきている。
数段追い越されたところで、振り返った彼女、林真美さんに怒られた。
「ちょっとは焦ってよ、私まで危機感無くなるからさ」
「いや、わたしのことは気にせずどうぞ」
「はぁっ、目の前にいてんな無茶な」
「ああ、そうか。それもそうだよね。じゃあ急ごう」
「んー? 宮内さんって、イメージ以上に大物よねぇ」
「……それはちょっと、言葉の選択ミスでは……」
マミさんは、今年初めて同じクラスになった人だが、ザックリした性格のおしゃれな人で好感が持てる。そんな美人に、悪目立ちするだけの自分がどう思われているのか……。
憂いながら教室の後ろのドアからそっと入ると、ようやくなじみつつあるクラスメート達は静かに自習をしていた。
進学校の三年だから、毎朝の見慣れた光景である。
廊下側、後ろから三番目の席に滑り込むと、置いて行ったくせに(一応)友人のサトコが斜め前から睨んできた。
「イズミ、遅いよ!」
「何か省略されてない?」
「てへ。イズミ、早く数学のプリント見せてよ、書き写せないじゃん私書くの遅いよ?」
「あーもー……」
省略の仕方はおかしいし、後で文句を言われるのも面倒で、しょうがなく宿題を見せてやる。一時限目が英語だったのを思い出し、自分も予習に取り掛かる。
大勢の、緊張感の薄い緩やかな沈黙が下りてきて、ようやく気分が安定した。
辞書をめくりながらそっと呼吸を確かめる。文字を綴る音が耳を抜ける。並ぶ背中を視界の端に意識して、溶け込んでいる、と思う。
大丈夫。このまま。
このままで、心の半分を眠らせた感覚のまま、過ぎ去ることだけを願い、信じていた。
信じたものの末路は二つあるなんて、考えてもみなかった。
救われるか、もしくは――