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小さな生物の時間(7)

 不可能なことはどこにでも溢れているのだと思う。

 例えば絶え間ない思考の中で、実行できるもの、できたものがどれだけ存在するというのだろう。大して問題でないものは、すぐに忘れてしまう。思い通りに出来ないことやする必要のない、興味を持てない事柄も同様に。

 唯一つ、不可能だからこそ密かに焦がれ続け、自分の中に隠し続ける思いだけは特別なのかもしれない。

 おそらく永遠に叶わないからこそ。


「ウメ、いくよ」


 晴れた日には朝と夕方、少し大きくなった柴犬と出掛けることが日課になっていた。できるだけ車道のない道を行けるところまで行ってみる。子犬ははしゃぎながらもちゃんとついてきて、黒々と煌めく目でよくわたしに笑いかけた。今日はどっちにいく? どこまでいく? いい天気だね。競争しようよ。まるでそんな事を喋りかけるみたいに。

 あまり人のいない景色をひたすら歩いていると、ありふれたものが珍しかった。例え同じ場所でも光の加減で見方が変わる。日に緑の色が濃くなる。六月の風は仄かに甘く、雨に洗われた空は美しく、それだけで戻れないくらい遠くへ行けそうで、少し怖かった。


「ワンワンっ」


 ある程度行くと、ウメが必ず立ち止まって吠え、終わりを告げるから、散歩には終わりがあった。わたしは仕方なく毎回犬の後について家路を辿った。

 雨の日も、一緒に窓の外を眺めていた気がする。わたしが勉強をする間、ウメはうろうろと一人で遊んだり、母や猫のノリコに少し取り合ってもらったりしていた。本当に落ち着きがないし、じっとしているのが苦手らしく鬱陶しい。それでもわたしが一段落してお茶を飲みながら雨を眺めていると、いつのまにかそばに座って同じだけ同じ方向を見るのだった。


 そんなたわいもないことを、星野と一々話したわけじゃない。報告はせいぜい健康状態や飼い主探しの様子程度で。サトコなんかは呆れて「何やってんだ!」と非難してきたけれども、片思いくらいわたしの自由である。確かに話せれば嬉しいし、笑顔を向けられると高揚したけれど、少しでも貪欲になることにかなりの抵抗があった。

 そんな梅雨時の朝、


「イズミ先輩! おはようございます」

「おはよう」


 靴箱で、偶然後輩のキミコと一緒になった。先月までは毎日のように部活で顔を合わせていたのに、もう懐かしい気分になる。弟とは、まだ付き合ってくれていた。

 靴をスリッパに履き替えながら、キミコは健康的な笑顔で話す。


「やっぱり先輩達がいないと寂しいです。毎日でも遊びに来てくださいよ」

「そうかな。二年生はしっかりしてるし、三年が引退してのびのびしてるんじゃない?」

「なんでですか。先輩達そんなに厳しくなかったじゃないですか」

「うん……? まあ、そうか」

「ていうか、余計なこと言うより努力して示す感じだったから、身に染みたんですよねー。私達じゃいまいちそんな風にはいかないというか」


 才色兼備な部長は苦笑し、思い出したように話題を変えた。


「そういえば海斗に聞いたんですけど、イズミ先輩、子犬を預かってるらしいですね」

「あ、うん」


 聞かれて、妙にうろたえる。


「えーっと、ちょっと、知り合いが大変そうだったから。前犬飼ってたしね」

「さすが先輩。受験時期なのに優しいですね。それで私思ったんですけど、よかったら飼い主探し手伝いましょうか? 知り合いに聞いたら、意外と早く見つかるかもしれないですし」

「え。あ、そうだね……」


 わたしはキミコから視線を逸らし、言葉を濁した。別に何でもない話なのに、自分で自分の反応に驚いていた。

 焦り、急な話に焦ったこと自体を的外れだと思う。不自然な所は何もない。すごくありがたい提案なのに、なんでこんな曖昧な返事をしているのか、わからない。



「あ、イズミせんぱい! おはようございまぁす」



 そのとき別の声が割り込んでこなかったら、わたしはもっと間違った言葉を発していたかもしれない。でも幸運と言えるのかどうかは微妙な所だった。掛けられたのはそれまでの空気を一気に吹き飛ばすような可憐な挨拶だったからだ。


「お、おはよう」


 やばい。振り返って見た姿に軽く頬が引きつる。声も確実に上ずっていた。

 誤解を生みそうだが、何かがとんでもなく変だったわけではない。それどころかその子は文句なしに可愛かった。ふわりとした茶髪で人形のような整った顔立ちに、決してアイちゃんにはない大人っぽさも兼ね備えている。背は低いのにかなりプロポーションがいい。もしこんな子に笑顔で声をかけられたら、男性ならほぼ確実に落ちるんじゃないだろうかという感じだ。スレンダー美人なキミコとは対極にあるようなこの美少女は、村賀瑠莉(むらがるり)といって、一学年下のキミコの同級生にあたる。

 問題は――ルリが、弟の彼女だということだった。

 彼女。

 二人とも。

 ああ、海斗を崖から突き落としたい。


「もうもう朝から会えて今日は超ハッピーです~!」

「そうなの……?」

「あたし隠れファンですもん、イズミせんぱいの。わー言っちゃった、なんか恥ずかしいなぁ」


 ファンってなんだ。ジェネレーションギャップ?

 小悪魔的と評されるルリの言動にますます言葉に詰まる。本気とは思えないのだが、海斗とはもう二ヶ月か三ヶ月か、わりと続いているから厄介だった。そこまで話す機会もないけれど、ちょっと苦手なのかもしれない。明るくてふわふわしていて考えていることが全く分からない。

 キミコが相当ムッとした顔で睨む。


「なんなのよ。先輩を困らせないでよ」

「えーそうでしたぁ? だったらごめんなさぃ、嬉しくってつい」

「あ、いや別に……」

「ありがとうございます! せんぱいやばいくらい優し~」

「あのねぇ……」


 当たり前だが、この二人全然仲がよろしくない。ルリの方はいつも笑顔で直接キミコに何か言うわけでもないようだが、キミコと海斗が二人でいる時も平気で声を掛けたりするのだ。つまりさっぱり空気を読まない。キミコは当然そんな彼女に苛々するわけだ。


「大体村賀さん、どうしてまだ海斗と付き合ってるの。本気なの?」

「本気っていうか、海斗くん今のところ一番かっこいいもん」

「は? かっこよければそれでいいわけ?」

「ぅん、そうかなぁー。もっとかっこいい人がいたら別れるよ?」

「なにそれ!」


 とか考えていると瞬く間に修羅場になりはじめたので、わたしは全力で割り込んだ。当事者でもないのに死ぬほど居たたまれなかった。


「あの、そろそろ遅刻するかもしれないので、教室。行こう。ほら行こうすぐ行こう早く行こう」


 自分の教室に入って席に着いた時は若干泣きそうなくらいほっとした。今日一日分の気力をすでに使い果たした気がする。机に教科書を入れながら、何事もない日常ってなんて幸せなんだろうとささやかな思考に浸る。


 そんなとき、星野に声を掛けられたのは偶然だったのだろうか。

 彼はいつもの明るくて自然な笑顔だった。


「おはよう。あのな、昨日子犬を飼ってくれる人見つかったんだ! 二匹なんとかなりそうでさ」

「ほんと? 早かったね」


 ああそうかと、急いで笑みを作った。

 なんの違和感もなかった。不自然な所は何もない。だから遠い雑談にざわめく教室の中、わたしの内心には気付かず、星野は机の横で少し悪戯っぽい表情を浮かべた。


「どんな人達だと思う?」

「え。えっと。どんな人? どんな人だろう……希望としては、優しい老婦人がいいかな」

「いいなあ、それ。裕福で、可愛がってくれそうだ」

「違うんだね。正解は?」

「一人は兄の知り合いで、愛犬家のおじさんだって。それでもう一人が、なんと隣のクラスの鈴木。知ってる?」

「ああ、鈴木君! 去年同じクラスだったよ。よかった、ちゃんと世話してくれそう」


 チャイムが鳴る。ホームルームが始まる前に、聞かないでいたことを星野が告げる。


「そういうわけだから、宮内さん、今まで本当にありがとう。ウメは近いうちに引き取りにいくよ」







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