小さな生物の時間(6)
「お腹いた……」
のろのろ歩き出して、さっきまで麻痺していた体調不良を思い出した。不安定な気分で自転車置き場まで辿り着き、かごに鞄を入れたところで、足元の違和感に気が付く。画鋲が数個落ちていた。ということは、そういうことか。悟ってしまい貧血気味の頭がくらくらして、嘆息するしかなかった。何もこんな日に釘を刺さなくてもいいのにと思う。別に調子に乗っているわけでもないし、わたしだけがいい身分におさまるなんて、ありえないのに。
渋々タイヤに手を触れた時、近くで足音がして、背筋に悪寒が走った。
悪意を見たせいか。まるで危機感だけが鋭敏になってしまったようだった。
最近、視線を感じるんだよね――先日自分でつい漏らしてしまった懸念が急に思い出され、気のせいだと誤魔化していた感覚が蘇り、感情のままに腰が浮く。自転車にぶつかる。
反射で倒れる車体を捕まえようとして、呆れた声に支えられた。
「何やってんだ、お前」
御堂。
ただの同級生。
背の高い渋面の男の顔を見て、勘違いと安堵がごちゃまぜに押し寄せて、呆然と心臓を押さえた。ああ、本当に、何やってるんだろう。
「……別に、何でもないですけど」
何でもない。違う。やはり、全て偶然で何を気にする必要もない。
苦笑し、鼓動をなだめるように自分に言い聞かせた。
「すみません。自転車」
不必要に長く見つめていたことに気付き、謝罪しながら目を伏せる。掌に冷たい汗を掻いていた。御堂は無言で車体から手を放し、自分が乗っていた自転車を留めると、再度こちらを見た。もう唇に冷笑を浮かべていた。
「相変わらずだな。たいした人気だ」
「何が」
「それとも自分で画鋲ばら撒いたわけか? そりゃいい。パンクしたくらいなら案外乗り心地もいいだろう」
「楽しい?」
「はぁ?」
「楽しいんですかね。こういうのって」
無意識に呟いてから、後悔した。全く取り合いたくはないのに、体調が優れないと知らない内に余計なことを言ってしまう。
もう今日はだめだから早く帰って休もうと、自転車を押しながら駐輪場を出る。やはりタイヤの空気はいい具合に抜けていて、乗れそうになかった。本当につまらない。出費が嫌なくらいで、そう大したことではないが。
「まあいいか……」
徒歩で帰ったら三十分以上かかるだろうかと、考えるだけで気が滅入りそうなので、無心で足を動かした。何も考えない。考えることもない。考えたところでどうにもならない。なのに、そんなに進みもしない内に足が重くなる。商店街の手前、細くて薄暗い小道で腹痛がして立ち止まる。手前から足音が聞こえてきたが、顔を上げる気にもならず、脇に避ける。まさか本当に懸念が近くにあるなんて思いもしなかった。
「あの、すみません」
「はい?」
「西高生ですよね。何年生なの?」
「え?」
本気で、自分の身にそんなことが起こりうるなんて考えていなかった。足音は近くで止まり、声を掛けられ、驚いて顔を上げた。二十代だろうか、のっぺりとした色白の顔の男がほとんど笑いもせずに佇んでいる。全く見覚えはないし、質問の意図もわからない。わたしに話しかけているとは思えなかった。
いや、思いたくなかった。
「見てたんです、よく。ここ通るときとか。近くで見ても肌綺麗ですね。名前なんて言うんですか? 連絡先教えてほしいんですけど」
何、これ、と思考が止まり、壊れた機械のように動かなくなる。背後の石垣と廃屋からぬるい風が吹く。
理解できないことが、何よりも怖かった。見てた、なんて、知るわけがなかった。こんな場所でこんな状況、全てが日常から逸れようとしていた。相手の声がやけに平坦なことが不気味で、心臓が音をたてて鼓動を刻み、逃げるように足だけを動かした。出口が遠くに見える。早く抜け出さないと手遅れになりそうだった。なのに遠い。足音がぴたりとついてくる。
「あの、電話番号だけでいいんで。あ、自転車、どうかしたの。運びますよ――」
「っ……!」
男の手がこちらへ伸びた瞬間喉が鳴り、自転車を突き飛ばして後ずさっていた。ガシャンと派手な音がしても、感情の映らない黒々とした目はわたしから離れなかった。また距離を縮めようと近づいてくる姿がやけに大きく見えて動かそうとした足が震え
「おい、何しやがる」
聞き覚えのある声が、飛び込んだ。
獰猛な獣の唸り声みたいだった。
視界を遮るように学生服が前に立ち、明るい茶髪が目に映っても、信じられなかった。
歪んでいた視界が元に戻り、同じ帰り道だったかなと、まるで場違いなことだけを思った。
「知り合いじゃねえよな。こんなところで女に声かけて、何してた? ストーカーか? 逃げるなよ、クズが。殴られるのが嫌なら財布を出せ。身分証もだ」
堂に入った様子で脅しをかける背中をぼんやりと見ながら、呼吸を繰り返していた。いつ男が逃げ去ったのかもよく覚えていない。御堂に声を掛けられるまで思考が途切れていた。
「おい、もう済んだぞ。いつまで黙ってる。……何か、されたのか」
「……いや。なにも……」
くぐもった声が出て、額を押さえて首を振った。そう。何もされていない。別に、何も。よくわからないことを言われただけで、何もなかった。
頭が冷え、息を吸って倒れたままの自転車に手を伸ばす。寸前、御堂が奪うように自転車を起こしてそのまま押して歩き出した。驚いて、やけに腹の中が熱くなり、追いかけて腕を掴んだ。
「いいですよ、そんなこと、しなくて」
「てめえの意思なんかどうでもいいんだよ。大口叩くなら、死にそうなツラどうにかしてから言え」
「目がおかしいんじゃないですか。別に何ともない。返してください」
「うるせえ。お前のつまんねえ自虐はうんざりだ」
「自虐って……なに。意味が分からない。一体わたしの何がわかるって……」
彼は少しも動じなかった。途中で、言葉からも手からも力が抜け落ちる。
立ち止まった。なんだか不意に空っぽな気分だった。
例えばわたしは一人、こんな風に寂れた道に立ち尽くして誰にも顧みられない存在なのだと思う。ずっと昔から。なのにそのことに危機感も覚えないし不満もないのだから、可笑しかった。こんなの、本当にどうしようもない。
怪訝そうに振り返った御堂に言った。
「そもそも、助けてほしいとも言ってないじゃないですか。帰り道こっちだったんですか? 全部余計なお世話ですよ」
どれだけ丁寧に礼を言っても足りないような気がするのに、無性に軽蔑されたくて一番最低な言葉を選んだ。殴られてもいいし、どうなってもどうでもよかった。
「楽しいか?」
「は?」
「お前が聞いたんだ。駐輪場で」
楽しいんですかね、こういうのって――画鋲を見ながら言った皮肉のことか。確かに言った。それがどうしたと視線で促すと、御堂は口元を歪ませた。
「ふざけんなと、言い忘れたから、言いに来たんだよ。お前、俺を画鋲を撒くような奴と同じに扱っただろう。何様のつもりだ」
「それは」
ああ……そうだ。そうなるのだろう。わたしは御堂の事を陰で嫌がらせをする人間と同列に並べたと同じだった。だからなんだと言いたかったのに、思った以上にどこかが抉られて、唇を噛みしめる。
「それに比べりゃ、今の言われようの方がずいぶんマシだな」
覚悟していたのに許すみたいな台詞を言わないでほしい。一体わたしにどうしてほしいのか教えてほしい。冷たさの抜けた表情で歩調を合わせるのをやめてほしい。
頭の中で消えてゆく願いを持て余すうちに、商店街の光の中に出て、眩しさに一度目を閉じた。夢から抜け出したような、また別の夢の中に入ってしまったような、例えようのない感覚がした。
何かを言えるはずもなく、黙々と家路をたどり、家の前で自転車を受け取る。唇を引き結んだまま頭を下げた。それが精一杯だった。後ろ姿を見送ることもできず、自転車を片づける間、この家の場所を覚えている彼の事を思った。
過去に姉の七瀬と付き合っていた。
彼は今でも姉の事が好きなのだろうと、思った。