小さな生物の時間(5)
ところでわたしがついやってしまう習慣と言えば整理清掃なのだが、この頃もう一つ増やしてもいい気がしてきた。
「ぅひゃうっ!」
「わっ!?」
放課後、帰ろうとしていた教室で、アイちゃんがチョークの入った箱の中身をぶちまける。躓いたのだろうか。見事と言ってもいいくらい綺麗なぶちまけかただった。カラフルなチョークが散乱し、粉が白く空中を舞って前列の生徒の机と床を染める。
そのときわたしや星野やサトコ他数名がその場にいたのだが、一同しばし沈黙を余儀なくされた。人に被害が無かったのは幸いだったが、さすがアイちゃん。やってくれる。
「ぅう……ばらまいちゃった。ごめんね~、センセイちょっと探し物してただけなのに……」
ふわふわした茶髪を揺らして、年上のはずの担任は涙声を出す。なぜそこを探そうと思ったのかは不可解だったが、我に返ると声をかけていた。
「大丈夫ですか?」
そう、つい。理屈じゃない。
庇護欲なのかなんなのか、自分でも知りたい。考える前に声が出る。無意識に手が出る。仮にどんな人にも世界で一人どうしても世話を焼きたくなる他人がいるとしたら、わたしはこの担任がそうだったのだろう。
散らばったチョークを拾い集めながら言った。
「わたし達で片づけますから、先生は気にせず探し物を続けて下さい。ちなみになんですか?」
「いつもごめんねぇ宮内さん~印鑑がね、どっか迷子になっちゃって……」
印鑑とチョーク。うん。ともあれ、わたしはサトコに声を掛けようと振り向き、
「ごめん用事が出来そうなのでさようならまた明日!」「僕は塾が――」「部活に遅れたら殺されるんで……」「ごめんね友達が待ってて」
見事に逃げられた。
何かに追われるようにドアから出ていく。他のクラスメイトはともかく、言い訳にもなってないサトコの野郎はふざけてるんだろうか。明日絶対に宿題をみせてやらないと心に誓う。
それでも、教室を眺めて思わず瞬きをした。残ってくれた人が一人いたからだ。頼まなくても雑巾とほうきを持ってきてくれる。期待なんてしてたわけじゃないのに、確認する前から彼の事を思い浮かべていたような気がした。
「俺こっちから机拭くよ。宮内さん、そっち頼んでいい?」
軽くシャツの袖をめくりながら星野が笑う。どこまでも自然体で柔らかな風情が、眩しくてたまらない。
「もちろん。ありがとう」
優しく心臓の音を早める。ほとんど目を合わせられなくて、だけどつられて笑みが零れて、この状況に少しだけ感謝した。
こんな風に一緒にいるなら、たぶん不自然じゃないから。期待なんてするはずがない。時々笑ってもらえれば、それだけでいい。それがいいことなのか悪いことなのか、未だに判断することはできなくても。
「あったよ! わぁい、よかった~」
「本当ですか」
そうしてわたし達が机を拭き上げ床を掃き終える頃、ちょうどいいタイミングでアイちゃんが笑顔を見せる。誰もが心奪われるハートウォーミングスマイルだった。よかったねと頭を撫でたくなる衝動を我慢して、わたしと星野は改めて帰りの準備をする。
油断していたといえば、油断していた。目の端でアイちゃんが窓を開けようとしているのは見えていたのだから。何か気になったのだろうか。聞く機会は永遠に訪れなかった。
次の瞬間、いっぱいに開け放たれた窓から突風が吹きこむ。
「きゃぅっ!!」
「ええっ?」
教卓に置かれていた課題の作文が、一枚残らず教室内に散乱した。
◆◇*─*◇◆*─*◆◇*─*◇◆*─*◆◇*─*◇◆*─*◇◆
「ん、と……とりあえず、これで全部ですね」
「うん、破れたりもしてないです」
「えぅ……またまたごめんねーありがとう~」
とりあえず、拾った。拾うしかなかった。三十数人分、一人大体三枚書いているはずだが、問題はそこからだった。
ホッチキスで留めていなかったので誰がどの三枚なのか、並びがさっぱりわからない。自分の分だけは探してどうにか抜き出してみたが、後は絶望的だった。窓から入ってくる爽やかな風と歓声があまりにも他人事で放心したくなる。
落ち込むアイちゃんを尻目に星野と目線を合わせる。
「これは、あれかな。名前を書いてある一枚目を参考にして、筆跡と文章のつながり具合で判断する?」
「やっぱそれだよな。うん、きっと何とかいけると思う。先に一枚目だけ取り出して並べておいてから――」
そのとき教室の丸い時計が目に入り、ふと気が付いた。とっくに四時を回っている。
他のクラスメイトは早々に帰ったのに、彼はこんなことしていていいのだろうか。ようやくそう思い至って思考が冷えた。放課後とはいえ、バイトをしていてしかも野球部……すごく忙しい人なのに、嫌な顔をしないから思い出せなかった。
そんなにいい人でどうするんだ。
迷惑をかけているのに気付かない、自分の鈍感さに腹立たしいような気持ちが込み上げて、喉が苦しかった。
「あの、星野くん部活かバイト、あるよね? わたしやっておくから気にせずに」
「いや、ちょっとくらい遅れても平気。気になるからやらせて。二人でやれば案外すぐに終わるよ」
「そういうわけにもいかないよ。大丈夫だから」
「あっ、あのね、センセイわかるからへいきだよ~」
「え?」
焦って問答を続けていたら、予想外の台詞が割り込む。
わかるって何が。
たぶん二人して首を傾げていた。説明するように、アイちゃんは集めた作文を広げてひょいひょい並べ替え始めた。
その間、三分も無かったんじゃなかろうか。
「できた~」
「できたって……あれ、でも、うん。確かに、出席番号順に並んで……ます……ね」
「うわーマジで? どうしてわかったんですか?」
「うんとね、一回ざっと読んでたからね、わかるの~」
「え?」
一回ざっと読んでたらわかる――いや。そうか? そうだろうか? 別に、馬鹿にしていたわけじゃないが。声に眠気を誘われるときはあるが、存外論理的で授業は分かりやすいと思っていたが。それでもちょっとそれは関係ないというか、ねぇ……。
「すげー、天才的だなー」
「人間誰でも偏りはあるってことかな……」
にこにこと礼を言い、今度こそ職員室へ帰って行ったアイちゃんを見送って、わたし達も教室を出る。
誰の姿もなかった。放課後の校内は開放的で明るく、二人分の足音が聞こえるほどの仄かな静寂に包まれていた。なんだか懐かしい空気に満ちている。そのせいか、不思議と緊張はしなかった。学校行事や子犬の事を話していると、とても楽しくてあっという間に靴箱まで辿り着く。不自然にならないように、尋ねた。
「今日は、これから部活?」
「うん、今月いよいよ予選会なんだ。あっという間だよな」
決して飾らない、嬉しそうな横顔から目を逸らす。
彼が今日バイトなら途中まで一緒に帰ることになっていただろうかと、束の間考えた。何と呼べばいいのかわからない感情が胸の内で燻って、続く言葉を奪う。確かに安堵していたし、もう十分なのに、微かな痛みのようなものを伴う。
気づかないふりをして、靴を履きながら笑顔をつくった。
「楽しみだね。応援してるから」
「ありがとう。宮内さん、今度は、」
「うん?」
聞き返すと素直な表情は少し慌てて、頬に赤みが差したような気がした。星野は数秒考える仕草をして、一度首を振り、わたしを見つめる。その眼差しに心臓が跳ね、反射的に俯いていた。苦しい。呼吸が、詰まる。
何か言いかけて、止めて、促す様に数歩星野は歩を進めた。緊張していた空気が少しほぐれて、わたしは顔を上げた。
呼吸をする。好きなのだと、とても強く自覚する。彼の事が好きだ。好きなだけだ。この気持ちが伝わってしまうのなら、わたしは彼の傍にいる資格がない。それでもいつまでもこんな風に好きでいたいと思った。
後ろ姿から振り返って星野が笑う。少し照れたような、あの笑顔だった。
「今度、応援に来てよ。俺はマネージャーだけど、試合、絶対面白いから」
「――うん」
頷いて、走っていく彼の姿をしばらく眺めていた。目の奥が熱くて、やはり胸が苦しかった。わたしはきっと断れない。必要以上に関わらないはずが、何にでも縋ってしまうようで、醜かった。恋というものがなければと、馬鹿げたことを考えるほどどうかしている。