小さな生物の時間(3)
梅雨入り前の晴れとも曇りともつかない天気で、ベージュストライプのシャツワンピースと黒のレギンスにパンプスをつっかけて散歩がてら。高校ではひたすら地味な格好をしているが、休みの日はどうでもいいのであまり髪を結ばないし眼鏡もかけない。姉と弟にお洒落してくれと懇願され飽きたというのもある。
坂を下った先にある家に着くと、はしゃぐ柴犬を一旦下してチャイムを押す。ドアを開けたのは本人だった。着ているラフなシャツが絵具で汚れていた。
「こんにちは。風邪ひきそうらしいけど、大丈夫?」
「イズミ。皮肉から入るのはちょっと、ねえ。もしかして、かなり怒ってる?」
「どうだろう」
「まあとりあえず……どうぞ。あ、犬飼ってたっけ? ウメ? 部屋までは抱えて行ってくれる?」
そこまで弱くもないだろうと思っていたが、予想通り元気そうだった。広々とした洋風の一軒家に通されながら、バレないように息を吐く。全く人騒がせな野郎だ。
室内に目をやれば壁を埋め尽くすように絵画が掛けられているのが印象的だった。正面の木の階段の脇、明るい色の廊下を通り抜けながら思う。この家は外界から遮断されているみたいだ。静かで、まるで早朝の眠る空気をそのまま留めている。
奥の広い大部屋に入ると、抱いていたウメを床に放した。壁際に画材道具やがらくたが積まれ、転がっていた。左手が庭に面していて、明るい日差しがたっぷりと入り込み木の床を照らしている。もともとユキトの両親が趣味で絵を描いていて、今はユキトが使っているらしい。不思議そうに辺りを嗅ぎまわる子犬を撫でながら、ユキトは笑った。
「イズミ、髪伸びたね。似合う。そのまま学校来ればいいのに」
「姉さんとか海斗みたいなこと言うのは無し。そして誤魔化すな」
「ああ、明後日は学校行くから、そんなに気にしなくてもいいよ」
「気にならないならわざわざ来たりしないけどね。昨日は何してたの」
「昨日は、競馬場行ってた」
「ケイバジョウ?」
「馬見に行ってた。あれ描いてんだよ、今」
親指で示され、右手の壁に貼り付けられた大きな布に、目が吸い寄せられる。無防備に見てしまう。心の準備もしないまま。色が、風景が有無を言わさず不意に体の中に飛び込んできて、息を詰めるしかない。痛む。どこかに傷がつく。目が離せない。鈍った部分が痛みで蘇る。
魂って本当にあるのか。彼の絵を見ると、いつもそんな感覚に陥った。
「ペガサス狩りっていう題名」
「う、ん。……これは本当に……あると思う。こういう世界が、存在するよね」
何を思い描いたというのだろう。両手を広げて余るほどの布に別の世界が映っている。立ち込める曇天、地上から射かけられる矢、天上から降り注ぐ雨を背景にして、全てを跳ね返す圧倒的な猛りで純白の群れが駆け抜ける。ほんの少しの悲壮感。自由。誇り。どんな言葉も陳腐で、不自由だ。
ユキトがくすぐったそうに目を細めた。
「すっごい……殺し文句だ。とにかくそう思ってたんだよ。こういう世界が存在すればいいって。いや、存在させてやるって、思った。本当、それだけなんだ」
彼の単刀直入な感情と性格が、羨ましくて憎いと、昔からそう思うことがあった。あの絵の景色を見た時もそうだった。高校一年の初夏。蒸し暑い日で、誰もが多少なり不快な気分で過ごしていた日。わたしはまだサトコともユイカちゃんとも友達ではなく、特別に親しいクラスメイトもいなくて、たぶん、宮内七瀬の無愛想で地味な妹としてだけ存在していた。
からかわれることが多かった。最下級生だったのだ。あしらい方を覚えておらず、悪意と冗談の区別もつかなかった。どうしたらいいのかわからなくて、なんとなく幼馴染のユキトと一緒にいた。それがまたわたしを特別視させることにも気づかずに。
そしてあの時たちの悪い上級生の男子生徒が数人でわたしの教室まで押しかけてきたのだ。冗談だったのかもしれないけれど、本当に苦痛だったのを忘れはしない。
「なあ、お姉ちゃんにちょっと口きいてくれよ。それだけでいいから、なあ? それくらいいいだろ」
「そうそう、約束してくれるだけでも」「全然難しいことじゃないよな。頼むよ」
「できません……」
教室が緊張した嫌な空気に包まれているのに、お構いなしだった。人数が多いから引けなかったのかとにかくしつこかった。彼らだけでなく、こうした事態を引き起こさせるわたしの存在も疎まれているのだろうと、居たたまれなかった。
言葉少なに断り続ければ、いつしか苛立ちは嘲笑と侮蔑に変わる。知っていたが、どうすればいいのかなんてわからなかった。
「なんだよ、自分が相手にされないから怒ってんの? そういうこと?」
「おいおい、鏡見たことある? まあ、あれだな、七瀬さん紹介してくれたら相手してやるけどな」
「はは、俺は別にいけそうだけど、妹でも超ぎりぎり」
ひどい侮辱にも何も言い返せなかった。本当に、言葉が出てこなかったのだ。自分の心が熱いのか冷たいのか、それすらわからなくなる。どうしてそんな風に言えるのか。どこまで本気で言葉を紡いでいるのか。他人の感情がわからなくて、立ち竦んでいた。
その時わたしの腕を掴んで振り向かせたのがユキトだった。
「なんで言い返さないの?」
「――え?」
「え、じゃなくて。僕には関係ないからしばらく聞いてたけど。なんで言い返さないの。何言われても平気なの? そんな人だったっけ」
幼馴染は冷たい目でわたしを見ていた。腕を掴む手が痛い。それ以上に責めるような視線と言葉が痛かった。
「どうにかなるって思ってる? どうにもならないよ。誰かが助けてくれるなんて、ありえない。怒れよ。自分の事なら、自分でなんとかしなよ」
ユキトの事が、羨ましくて、憎いと、思った。奔放で直情で無理解。一生理解しあえないと思った。彼には言葉が出てこない人間の気持ちなど絶対に理解できない。理解しようともしない。
何も答えられない内に、手が外れる。ユキトはわたしの横を通り過ぎ、ぽかんとしていた上級生の一人を平手で思いっきり殴った。流れるように躊躇のない動きだった。
「なにしてっ……!」
「愛の告白なら七瀬さんに言えよ。情けない。教室の空気が悪くなるから出て行け」
まっすぐで曇りがなく、迷いがない声は、逃げ場など与えない。どれだけ自分が弱いのか、突きつけられるから憎かった。
案の定教室中を巻き込んだ乱闘になりかけて、わたしもユキトも存分に痣をつくって次の時間の授業をさぼった。身体も心もぼろぼろでぐちゃぐちゃで。とりあえず一緒に屋上まで来たものの、身体は痛むしユキトの事も憎らしくてどうしようもなかった。
あんなことを言うくらいなら庇うな。関わるな。手を出すな。余計なお世話だ。この無神経。
イズミが何もしないから教室ごと迷惑を被っているんだ。臆病者。被害者ぶるな。偽善者。
ぐずぐずと降る弱い雨にまみれながら、飽きて嫌になるまでお互いを詰り追い詰め罵りあった。わけがわからないほど惨めで口惜しかった。それでも、二人でいるしかなかった。似ていたから、縋るしかなかった。
「虹だ……」
疲れきって随分沈黙していた中、久々に声を聞いて、顔を上げる。
いつしか雨は上がり、フェンス越しの彼方に、街を包むような大きな虹が架かっていた。
「嫌いになりそう。いくら綺麗でも、どうでもいい……最悪な気分だし」
「確かにね。こんな気分、滅多にない。せっかくだから描くかな。題名は“平行線”でいいか」
「いいんじゃない。描いてよ。そしたら、見るたび思い出すから。わたしを侮辱した人達のこと。絶対許さない」
「僕も多分、許せないな。どんなに謝っても、許さない」
許さない――そう言って、髪を攫う風の中で、あの日フェンス越しの空を見ていた。
二年近くたち、あの時よりはわたしもユキトもそれぞれに上手くやれるようになったはずだ。鈍い振りをすることにも慣れた。何より、いいクラスメイトに恵まれたと思う。偶にこうしてユキトが学校を休んでも、矛盾した感情はほとんど湧かなくなった。不器用で、彼らしいと思えるようになった。
「それはいいけどね。学校休んで競馬場なんて行くな。どこの不良なの……せっかくお見舞いもってきたのに」
「え、ほんと? それならおみやげ買ってくるんだった」
「いらないって」
ため息を吐いてバッグから筒を取り出してユキトに渡す。中身を見て、彼は声を上げた。
「これ、“平行線”! どうしたの? もしかして校長に黙って剥がしてきた?」
「そんなことするか! ちゃんと話して返してもらったに決まってるでしょ」
「話すって言ったって……」
「話したよ。えーと、この絵は篠目君が恩人のために書いたんですが、完成前にその人が亡くなってしまってそのままになっていたんです、辛い思い出なので返してあげてくださいって」
「うそっ」
まあ、嘘だけど。
わたしが説明すると、ユキトは腹を抱えて笑い転げた。まったく人の苦労も知らずにいい気なものだ。破り捨てようかとも思ったが、結局ユキトの絵が好きなわたしにはできなかった。呆れついでに宿題のプリントやらを取り出していたら、不意に傍に影が落ちる。何だと問う前に、頬に触れられた。そっと慈しむように、優しげに。
指先の熱が伝わった。
「ありがと、イズミ。見捨てないでくれて」
髪を梳く感触に背筋が竦む。何か言おうとしたけれど、切なそうな微笑みを近くで目の当たりにしたせいで、見失った。胸の奥がぎゅっと絞られる。
なぜ、そんな風に笑うの。見捨てるわけないでしょう。
そのとき数秒。弟とはまた違う、本当に綺麗な顔が間近にあり、抱きしめられるのかな、それともわたしが抱きしめてもいいかな、と衝動的な気分に襲われていた。
「ワンワンっ!」
ウメがわたしを庇うように間に立ちふさがり、ユキトに向かって吠えたので、一瞬にして噴き出してしまったが。「ちょっと、なんで?」と突っ込んでしまうくらい、なかなか、いいリアクションだった。
確かに柄じゃないか。
わたしがウメを抱き上げて笑いを堪えていると、ユキトは体育座りをしてわざとらしく唇を尖らせる。
「そんなに忠実な番犬を飼わなくてもいいのに」
「飼ってないよ。預かってるだけ。バカなんだ」
「なにそれ? まあいいけど……あ、ジュースでも飲む?」
「いい、もう帰る。ほら、チャイムが鳴ってるし。顔合わせたくない」
ピンポンピンポンピンポンと、三度連続で音がして、ついでに「ユキトー!」と叫ぶ声もした。あれは絶対野崎裕介だ。超近所迷惑。たぶん稲郷君もいるだろうし、他のクラスメイトも何人か来たのだろう。仕方ないから、窓から出て庭から帰らせてもらおう。
「そんなに自分を過小評価しなくてもいいんじゃない?」
静寂はもう感じない。ぼんやりと玄関の方を見たユキトに、わたしは笑って言ってやった。