小さな生物の時間(1)
後から思えば自分でも驚く話だ。後悔しているわけではないし、見栄を張ったのでもない。理屈も理由も思い浮かばないくらい純粋にこの人の役に立ちたいと思った。思って、説得して、全部話がついてから、自分の行動を信じられないと思った。何も考えないまま気持ちのままに動けるほど、わたしはわたしを肯定していたのだろうか。
わからない……おそらくそんなことは関係ないのだと思う。
ただ、不憫で眩しくて自由な彼に一瞬触れたかったのか。
突飛な提案は一旦保留になったが、翌日の交渉の結果子犬を一匹預かることに成功した。わたしが犬好きだと思い込んでいたのが役に立ったので、それだけはサトコのおかげだ。星野は申し訳ないほど頭を下げ、礼を言った。
「実際十分には構ってあげられてなかったから、すごく助かる」
わたしの家では二年前に飼っていた犬が亡くなっている。子犬を連れ帰ると予想以上にすんなり受け入れられ、海斗なんて一目で「飼おう」と言い出す始末だった。夕食後、わたしは手早くケージや餌の用意をしながら釘を刺した。母さんは多趣味で交友関係が広く、かつ料理店のパートに出ていて今も家にいない。
「飼うんじゃなくて預かるだけだから。絶対飼わないから」
「なんでさー。母さんも喜んでたし、父さんもいいって言うだろう」
「犬嫌いだし、飼うとなるとそれなりに大変だってわかってるでしょ。誰も家にいないときもあるのに」
「わかんなくはねえけど、イズミは厳しいよ。もうちょっと緩やかに生きたらいいのになぁ」
「わたしはあんたや姉さんとは違うの。そうなれるとも思ってないんで、余計なこと言わない」
「ウメ、俺の姉ちゃんはこんな人なんだ……くれぐれも下手なことを言うなよ」
「どうでもいいけど甘やかしすぎないでね。結局困るのはその子だから」
子犬――ウメを抱いてソファに寝転がる海斗に、わたしは冷たい視線を向ける。彼女とのメールや好きなテレビ番組もそっちのけにするほど気に入ったらしいが、だめなものはだめだ。
ウメも心なしかわたしのほうを見て悲しげに首を傾げた。つぶらな瞳が潤んでいる。だめなの? なんで?
「ほら訴えてる」
「そのストレートなところがもうね……」
「ダメなんだ。イズミって難しいなぁ。もしかして俺のせい?」
「そうだね」
うぜえ。冷たい笑みで答えて、ウメに食事とトイレをさせた。身体を拭いてケージに入れてようやく落ち着き、わたしは側にいた愛猫のノリコの背を撫でる。灰色の縞模様をした長生きの成猫は、子犬がやってきたことにも我関せず、触らせてやってもいいという表情を崩さない。猫は気ままで自由で冷静で、本当に素晴らしい動物だと思う。
「ノリコには優しいのに。差別だ」
「余計なことを言わないなら、優しくしてもいいよ」
冗談めかして弟が言い、わたしはぞんざいに返すしかない。二年前愛犬が死んでしまったとき、家族揃って酷く悲しんだことをもう忘れてしまったのか。自分の責任でもう一度その経験をする気にはなれない。
「ところでイズミ。なんであの子、預かることになったの?」
「……なんで?」
「ああ。なんで。どうしたの、でもいいか。ちょっと預かることになったって言ったけど、誰かに頼まれた?」
メールを打ち終えたらしい海斗が不意に横目で尋ねてきた。
「いや……友達、が……三匹拾ったみたいで、大変そうだったから、預かるくらいならいいかなって」
「ふうん。その言い方、サトコさんでもユキトさんでもないよな。あの優しそうなユイカさんって人?」
「別に、いいでしょ。そんなの、誰でも。言ってもわかんないよ……」
「へえ?」
誰にも見られないテレビ番組が陽気な声で何か解説し続けている。根掘り葉掘り聞かれ、妙に後ろめたいというか、嫌な気分になる。拒否の意味で顔を逸らしたままノリコに触れていると、急に毛の感触が逃げた。いつの間にか傍に来た海斗が猫を抱き上げ、愛想を振りまくときのあからさまな作り笑顔でわたしの顔を覗き込んだ。
「それ、もしかして男?」
「ふっ……」
どうにか話を終えたいと思っていたのに、遅かった。反応もまずかった。とっさに嘘が言えなくて絶句したわたしを見て、海斗の笑顔が引きつる。
なんなんだ!
「は? ちょっと、マジですか? 犬なら御堂先輩のわけねえし、まさか福島先輩」
「ちがう! 変なこと言うなバカ!」
「うお、なんにしろショック。なんだってまあ……最近ちょっと様子が違うとは思ったけどな……」
顔が熱い。見透かしたような言動を聞いていられず、勢い余って海斗をオレンジ色のカーペットに押し倒していた。間に挟まれてノリコが迷惑そうに身じろぎする。
いっそ本気で殴りそうだった。なんだってこんな尋問みたいに聞かれなきゃなんないんだと思う。もう絶対誰にもばれたくない。言いたくないのに。こんな弟ならなおさら。
珍しく渋面をつくってぶつぶつ言っていた海斗は、思い出したようにノリコを開放し、至近距離でも曇りない美貌でこちらを見上げてきた。
「とりあえず、付き合ってるわけじゃないよな」
「ばっ……何言ってるの? 頭おかしいの? むしろ首絞めろってこと? 暗にそういう要求? いいよいけるよだったらキミコちゃんのかわりにわたしが」
「あー……まあまあ。なんとなくわかったから。それならいいんだ……俺、どうもイズミの事は心配でね。さすがに邪魔はしないけど」
実際首を絞めかけたわたしの肩に手をかけて、わたしごと身軽に身を起こした海斗は、憂いを湛えた目でぽんぽんと肩を叩いてきた。
「何かあったら言えよ。とりあえずは。絶対茶化したりしないから」
「絶対何にもないよ。永遠に」
「うん。永遠になくても困るけどさ」
「うるさい勝手に困れ!」
それこそ宥めるみたいに頭を撫でてくる手を乱暴に振り払い、わたしは何かに負けた気分で自室まで駆け上がり、ふて寝した。そんなことくらいしかやりようがなかった。むかつく。海斗なんか大嫌いだ。
でも、大体寝れば朝が来るわけで、朝が来れば昨日が過去になるわけで、そうしたら意外と立ち直れたりしている。怒ることにも飽きるし、宿題だってあるし、なにより中間テストが終わった後は陸上部での最後の試合があった。
三日間の日程で行われた総体は不思議と朝からよく晴れて、風が遊ぶように吹いていた。
適度な自然に囲まれた陸上競技場で、丸く切り取られた空を見ながら、軽いジョギングとストレッチで身体を温める。独特の浮き立つ空気の中、部員と高揚した会話を交わして。人波に紛れ数年で色褪せた薄いユニフォームを身に着け、普段は言えない真面目な台詞と気合いを口にして、意識が薄くなるほどの緊張を抱いて、走った。なんとなく入った部活だったけれど、泣いたり吐いたり腹を立てたりすぐ限界にぶち当たったり夏は暑いし大抵練習きつい割に結果が出なかったりぬか喜びしたりで、こうして改めて並べてみてもろくでもない。
そんなことを全部捨てるように、あるいは拾い集めるように、駆け抜けた。
苦しくても呼吸なんて忘れるくらい夢中で。200メートル、400メートル。
「イズミ先輩。お疲れ様でした」
夢を見ているようにあっという間だった気がした。
決勝までいったがベストタイムは出ず、もう少しで手が届くほんの僅かな、しかし決定的な差で入賞できなかった。それでも確かに走りきった後にしか見えない空が、視界いっぱいに広がっていた。
全部終わった後、部室のある学校のグラウンドに戻って解散になった。呆然と座り込んでいたわたしに、キミコが言う。見上げて笑いかけると、頼もしくて完璧なはずの後輩は、まるで幼い子のような拗ねた表情をした。
「本当に、お疲れ様でした……」
「うん。お疲れ様」
「なんでそんな……さっぱりしてるんですか」
「そう見える?」
「見えますよ」
「だって、楽しかったから」
夕暮れが西の空から広がり、街路樹の葉を鮮やかに染めていた。春を過ぎた遠くの山の稜線を際立たせ、掬い取れそうな透明な光を零していた。キミコが何か言いかけて、言えないまま座り込む。同学年の山戸がグラウンドの真ん中から、やはり楽しそうに手を振っている。それに手を振りかえしながら、深く呼吸をした。
悔しくて全然さっぱりなんてしていない。ただ走ることが好きだった。本当に実感してはいないが確かに終わったと感じた。ゴールを走り抜けた瞬間、ラインの上の空気がわたしの存在を忘れて、そのまま通り抜けていったような気がした。
「まだ私は、お礼なんて言いませんから……先輩が、卒業するまでは」
「うん。でもわたしはとりあえず、言いたいから、言っておくよ」
ありがとう。
悔しくて開放的で少し寂しくて、悲しくはない。今どうしてもこの気持ちのまま、そう言っておきたかった。