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微温湯と不安(3)

「うん。それも、そうですね」


 やめてほしかった。

 あまりにもあからさまで。そんな挑発的な発言してくれたら、軽蔑してやらなければいけないような気がした。


 だから曖昧で何の意味もない笑みを浮かべ、意味をなさない返事をした。予想していたのかどうなのか、御堂は不愉快そうに眉を顰め、冷たい目でこちらを見下ろす。微かに首を傾げて見せた。一体どうしてそんなに面倒臭いのだろうと思う。

 面倒臭い。簡単なのに、難儀にしてしまって、何の意味があるのか。互いにどうでもいいと思っているはずなのに、どうしてわたしが挑発に乗って軽蔑してやらなければならないのか。嫌悪を誘おうとするのか。

 東美紀のような嫌がらせならまだいいが、最近意図がよくわからなかった。不可解だと疲れる。わたしにはそこまでの義理も価値も興味もない。つまらない人間だと、通り過ぎてくれれば一番いい。そう思うように振る舞っているのに――


「変わんねえ。お前、最高にムカつくな」


 やはり、思っていることを見抜いたように、彼は反応していた。無意味な言葉を選ぶのは案外難しかった。意図が分からない上頭が働かなくて、返事に迷う。その間に御堂は数歩距離を詰め、口元に蔑んだ笑みを閃かせた。


「とてもあいつらの兄弟とは思えねえ。顔はひでえわ性格は暗いわ、血ぃ繋がってねえんだろ、本当は。相変わらずモテねえみたいだしなあ……サビシイなら相手してやろうか? それとも、陰ではひっかけてんのか? 前みたいに」

「ああ。そうですね」


 手を伸ばせば届く距離にいても関係がなく、体全体や、特に肺の辺りに冷たいものがあるような気がした。それが冷たいほど冷静になり、視点が客観的になり、目の前の威圧的な男の何もかもが希薄になる。とても愛しい感覚だ。

 感情を引きずり出す熱なんていらなかった。鮮明で生々しい感触もいらなかった。この血筋で生きてきて学んだ一番有用なことは、他人の感情に一々左右されなくなったことに違いない。否定に否定を返すのは簡単だが、その方法はわたしには適さないと数年前気づいた。それまで気づかなかった自分が馬鹿だと言えるような、単純明快な理由からだった。


「水道。使うなら使ったらどうですか。昼休み終わりますよ」

「くだらねェこと言ってんなよ」


 言葉を返すよりも早く。

 御堂は目の前で壁を蹴りつけた。目で追えもしない、その鈍く激しい音が、一度だけ心臓を揺らした。


「あ、イズミちゃん!」


 そして階段の方から呼ぶ声がして、わたしは顔を上げ、呼吸をする。彼は脇をすり抜けその場から立ち去る。絡まった糸をほどくように名を呼んだのは、ユイカちゃんだった。


「ただいま」

「お疲れ。忙しかった?」

「ううん、今日は図書室に来る人少なくて。ほとんど本の修理してたの」

「そっか」

「イズミちゃんは? 何か用事が……?」

「いや、ちょっと後輩が人生相談に来たから話聞いて送ってきたところ……という感じ?」

「感じ?」


 ユイカちゃんが小さく笑ってスカートが微かに揺れる。冷たさが涼しさに変わって、不思議なほど気が抜けた。ということは、何かを気負っていたのかと逆算できて、ちょっと悔しかった。


「うん……結局、そんな感じ」

「大変だった、とか……? 何かあれば、なんでも手伝うよ……?」

「ありがとう。そんなこと言ってくれるの、ユイカちゃんだけだなぁ」

「ぇ、そ、そんなことないと、思うけど」


 顔を赤くして下を向くユイカちゃんに感謝しながら教室に戻る。そこにはちゃんと穏やかな日常があって、少し胸が締め付けられた。望むもの。不快ではない雑談に満ちた教室、受験へ向けての授業、最後の大会のための部活動、月末の中間テスト、勉強と掃除と友人との会話。

 その中に兄弟関連の人間関係が入り込んできても、多少の嫌がらせや冷やかしをされても、不安ではなかった。揺らがなかった。微温湯のような僅かな空虚さを抱えた日常が、愛しくて絶対だった。


 だけどそれはたった一人の一言で揺らいでしまう。そんなことって、ありなのか?



「ねえねえ見て見てイズミこれ!」

「何? 本?」


 中間テストが終わった次の日の朝、登校直後のわたしの前にサトコが何かを置く。見れば写真集のようだった。それはいいが表紙からして、明らかに犬。タイトル「三度のメシより犬を見ろ」。ちなみにわたしは犬が嫌いである。


「かーわいいでしょ!?」

「いいや?」

「見てこの美しい歯! そして肉付き! 眉毛おしり鼻づら」

「そこに注目するの?」

「なによりこんな純粋に動物見てかわいいって言ってるあたしの好感度がすごいでしょ!?」

「そうだね」


 不純な動機で写真集を見せてくるサトコがどうでもいいので、わたしは無意識の部分で返答しながら宇宙の誕生について思いをめぐらせる。ビックバンにより形成された軽い元素のことを考えていると、


「あ、犬だ。好きなの?」


 急に脇から明るい声を掛けられて、意識を呼び戻された。この声。動揺を押し隠しながら顔を上げると、やはり机の横で立ち止まっていたのは星野だった。友人たちと教室に入ってきた直後らしく、少し制服が皺になっていた。


「えっと……これは、サトコの」と、わたしが答えかけると、

「そーなのそーなのっ。イズミってばこんな本買うくらい犬好きなんだよ? 乙女だよねえ」


 サトコに大嘘吐かれた。どういうつもりかは――わからないとは言わないが、勘弁しろ。

 視線に殺気を乗せてみたのだが、本人はどこ吹く風である。

 星野は見ていいかとわたしに聞き、当然のようにサトコが許可を出したので、写真集をめくりはじめた。犬が好きなのだろう。楽しそうだ。彼はあれ以来、放課後以外の清掃を手伝ってくれている。まれに短い言葉を交わすことはあったけれど、それだけで満足だから、今は少し近すぎる。


「うち、今柴の子犬が三匹いるんだ。すごい元気いいやつ」

「へーそうなんだぁ。飼い犬が生んだの?」

「それがさ、兄貴が拾ってくるんだ。やたら捨て犬に出会っちゃうタイプで、その度に飼い主探しして。今も飼い主募集中。結局かわいいから怒るに怒れないんだけど」

「いい人じゃん。ねえ? イズミんちは犬飼えないの?」

「――え。それは……たぶん」


 急に話を振られて、二人と視線が合い、気まずく顔を逸らす。前に飼っていたことはあるし、現在猫は飼っているけれど、遠慮したい。猫は好きだが、犬は好きではないのだ。

 なんとなく言葉を濁していると、ここでサトコがわざとらしい気安さでとんでもない提案をしやがった。


「じゃあさ、とりあえず見に行っていい? イズミは犬に飢えてるし、あたしも柴犬ってすごい好きだし」

「は?」

「あぁ、いいよ。見に来る?」


 星野はちょっと微笑んだだけだ。

 それなのにわたしは面白いほど動揺してしまって、思わず頷くという失態を犯したのだった。

 


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