微温湯と不安(2)
確かに階段の方から歩いてくる彼は、一目でわかった。
容姿端麗、眉目秀麗。どんな賞賛もしっくりくる。単に整っているだけではない。人の視線を惹きつけるような、人目にさらされる事に慣れた者独特の特別な空気を纏っていた。
背丈は170㎝台後半だったか、何でもない学ランを着ていても人波に紛れることはない。光に当たれば分かるくらいに、ほんの少し茶に染めた黒髪は、長くもなく短くもなく、耳と襟足にかかって滑らかな肌に影を落としていた。
その瞳が緩慢にこちらへ向けられ、唇が笑みの形をつくる。羨望、嫉妬、感嘆、そういったものすら一瞬無効にする、至高の表情だった。
「ああ、いた、キミコ。イズミの所だったんだ」
「……海斗……」
本人にしてみれば別に、何の意味も、意図も、意識すらない。それなのに今のこの数秒で、何人が血迷っただろう。
なんだか今すぐ殴りかかりたくなった。それか無人島に流したい。
キミコもあからさまに萎えていた。たぶん同じことを思った。
なんて、不必要な美貌だ。
「教室にいなかったから、探してたんだ。部活の相談事? そういやあんまり元気なかったらしいけど」
誰のせいだコラ。
的外れなことを言い出すのでわたしが眉を顰めて睨んでいると、彼も薄々察したらしい。
「あー、もしかして、俺のせい……?」
キミコの正面に立ち、気まずそうに頬を掻く。
キミコは口を真一文字に結んで見上げていたが、「だったら?」と一言低い声で問うた。
「心当たりがあるんだったら? 反省してくれるわけ? ねえ。これから……」
聞けるのか、と少し驚いた。最後、少し声が詰まった気持ちの方が痛いほどよくわかった。
一緒に育ったから何度も見てきたのだ。こんな特別な異性に物を言うなんて、自分が間違っているんじゃないか。こんなことを言うと捨てられるんじゃないか。そう恐怖して何も言えなくなる人たちの事を。
陽気な人間性を知っていて一定期間傍にいても、あまりに特別だから、眩しくて、恐くて、遠い存在に見える。キミコは必死でその幻想を打ち消そうとしている。たぶん、それは……。
海斗は数度瞬きしながら、じっとキミコを見つめていた。聞き終えてふっと表情を和らげる。笑みも、零れた。
「な、なによ、笑いごとじゃないし」
「おお。なんか、悪い……面白がってるわけじゃないけど」
「じゃあなんなわけ」
「いや、反省した。かなりね。やっぱキミコはかっこいいわと思って」
「っ……なに、それ。もうしないってこと?」
「んーそれとこれとはまた、ねえ? そうだ、ほらこれ。こないだキミコが言ってた新発売のキウイ味、偶然見つけて――」
遠巻きに見つめても決して入り込むことはできない。
近い距離で話す二人はもうどこか甘く、心配しなくてもちゃんと恋人同士に見えた。たぶんそれは、キミコが本気で、理想ではない同じ現実の中で、海斗の事を好きだからなのだろう。
「まったく……」
結局ただの痴話喧嘩で済んでよかったというか、やはりはた迷惑というべきか。
踵を返して遠ざかりながらわたしは軽くため息を吐いた。キミコの役に立てたならいいが、海斗が原因だから嬉しくはない。本当に複雑な気分だ。
教室に戻る途中、手洗い場に視線をやると、やたら水が飛び散っていた。これまた郷愁を誘われ、よいしょと雑巾を手に取って縁と薄緑の床を拭う。冷たくて硬い感触が手になじむ。やはり掃除をしている方が気分がいいし、性に合っていて楽しい。そんなことを考えながら、素早く一通り綺麗にしたところで、腰を上げようとして、目の前にだれかの足が見えた。同時に、すぐ上の窓辺に置いてあったプラスチック製の花瓶が、落ちてきて水を飛び散らせた。
「――」
スカートと黒の靴下に、結構かかった。今しがた綺麗にしたばかりの床に萎れかけた白い花が散らばる。花弁が浮く。
ぽかんとして、思考が途切れた。反射で顔を上げて唯一、ああ、これは悪意だな、と理解した。
「あんたが邪魔だから、間違えて落としちゃった。片づけてよ」
東美紀、去年まで同じクラスだった同級生。ストレートパーマをかけた肩までの黒髪を揺らし、冷たい居丈高な目でこちらを見下ろしている。
わたしは目を逸らし、黙って花瓶と花を拾って元の場所に戻した。ぞうきんを絞って水を吸い取りながら、微かに思い出していた。そういえばこういう嫌がらせも久しぶりだ。彼女は以前、わたしに海斗を紹介しろと言ってきたことがある。できないと言うと、断られるとは思わなかったのか、最後には態度を豹変させた。
『なんでそれくらい、クラスメイトなのにダメなわけ? 自分も特別だと思ってんのか。調子に乗んな』
それ以来彼女のグループからは敵視され、何かと嫌がらせもされた。彼女だけに限らない。断るとやはり冷たい目で見られ、一年、二年の時の方が肩身が狭かった。今は最上級生だからずいぶんと平和だ。
「最悪に地味なんだから、水でもかぶった方が目立っていいんじゃない?」
何も言わず黙々と床を拭いていると、美紀は捨て台詞を残して立ち去る。
作業自体は大した手間ではなかった。
しかし、濡れた靴下が気持ち悪い。
蛇口をひねり、水を多めに流し、雑巾を洗って、洗って、洗って、絞る。握力を確かめるくらい力を込めて絞ると、ようやく不快感は無くなった。ハンカチを取り出して手を拭きながら、窓の外の青空を見て、ため息を漏らす。やばい。今日何回目だ?
「何突っ立ってんだ。地味女」
「うわ……」
そして新たな声がかかって、思わず声を出してしまった。雑巾を絞るくらいで忘れられるほどの出来事だって、重なれば消耗してくるらしい。
次々とめまぐるしい展開にわたしは振り向いて、声の主である不機嫌な男の姿を眺めた。
背が高く、体格もよく、明るい茶に染められた短い髪が目立ち、顔立ちは鋭利に整っている。不良というよりボクサーのような威圧感がかなり近寄りがたく、実際喧嘩は強いと噂されていた。血の気の多い連中のリーダー格で、また親が大企業のお偉いさんだとかなんとか、別にどうでもいいけど。
本当にびっくりするほどどうでもいい。昨日食べたご飯粒の数くらいどうでもいい。
大体地味とか言うならいっそ背景と同化させるくらいして声かけてくんな。と思った。
「何? 迷惑かけたつもりはないけど」
「てめえなんか、迷惑になるほどの存在感ねえだろう」
男――御堂孝則が皮肉気に口元を歪ませて、思わずスカートの裾を握った。