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婚約破棄されたので農業改革で国を救ったら、元婚約者が泣いて復縁を求めてきましたが、もう遅いですわ

作者: uta
掲載日:2026/03/25

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

「凛との婚約は家同士の取り決めに過ぎない。僕が本当に愛しているのは雫、君だけだ」


夕暮れの畦道で、私は足を止めた。


黄金色に染まる稲穂の向こう、古い神社の境内。そこで婚約者の桐生蓮司が、花宮雫を抱きしめている。


……ああ、なるほど。


五年間、尽くしてきた相手の本心を、こんな形で知ることになるとは。


(まあ、薄々気づいてはいたけれど)


私——柊木凛は音を立てないよう、一歩後ろに下がった。稲穂が風に揺れる音が、二人の甘い囁きを運んでくる。


「蓮司様……でも、凛様が可哀想です」


雫の声は震えている。演技だ。あの潤んだ青い瞳を上目遣いに向けているのだろう。彼女の十八番。


「雫は優しいね。でも心配いらないよ。凛は没落寸前の伯爵家の娘だ。僕との婚約がなくなれば、あの家は終わりさ」


蓮司の声には、隠しきれない優越感が滲んでいた。


(終わり、ね)


私は小さく息を吐いた。怒りよりも先に、呆れが込み上げてくる。


五年間。私は何を見ていたのだろう。


いや、違う。見ていなかったのは彼の方だ。私という人間を、一度たりとも。


「凛には申し訳ないと思っているよ。でも、政略結婚なんて古い慣習だ。僕は自分の心に正直に生きたいんだ」


(自分の心に正直、ですか)


聞いて呆れる。花宮家の借金がいくらあるか、この男は知っているのだろうか。雫があなたに近づいた本当の理由を、少しでも考えたことがあるのだろうか。


……いいえ、考えるはずがない。


桐生蓮司という男は、生まれてこの方、自分の頭で何かを考えたことなどないのだから。


私は踵を返した。


夕日に照らされた畦道を、一人歩く。足元の土は、祖母と何度も歩いた道と同じ感触がした。


『いいかい、凛。知識は誰にも奪えない財産だよ』


祖母の声が、脳裏に蘇る。


私は懐に手を当てた。そこには、五年かけて書き上げた農業改革案がある。桐生家に嫁いだ後、柊木領を立て直すために。この国の農業を変えるために。


……もう、必要ないわね。


いいえ。必要なくなったのは、桐生家との縁の方だ。


「お嬢様」


不意に声をかけられ、私は足を止めた。


振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。日に焼けた肌。学者には見えない鍛えられた体躯。黒曜石のような深い瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


「……どなたでしょうか」


「失礼しました。私は鷹宮悠真と申します。宮廷農政官を務めております」


農政官。その肩書きに、私の心臓が小さく跳ねた。


「静江様の……柊木静江様のお孫様でいらっしゃいますね」


祖母の名前。私は目を見開いた。


「祖母をご存知なのですか」


「私は静江様の最後の弟子です」


青年は——悠真は、深く頭を下げた。


「五年前から、ずっとお会いしたいと思っておりました。貴女の書かれた改革案を、拝見する機会がありまして」


私は息を呑んだ。


「……どこで」


「静江様が、亡くなる前に託してくださいました。『いつか孫娘を助けてやってほしい』と」


夕日が、悠真の横顔を照らしている。その瞳には、祖母と同じ種類の、真摯な光が宿っていた。


「あの改革案は、この国の農業を変える可能性を秘めています」


悠真は顔を上げた。


「凛様。貴女の価値を、正しく理解できる場所があります。……宮廷にお越しになりませんか」


風が吹いた。黄金色の稲穂が、さわさわと揺れる。


神社の方から、蓮司と雫の笑い声が聞こえてきた。


私は、静かに微笑んだ。


「ありがとうございます、鷹宮様。ですが、その前に」


夕日を背に、私は姿勢を正した。


「片付けなければならないことがありますの。少々お待ちいただけますか」


悠真は黙って頷いた。


私は畦道を引き返す。神社へと続く道を、今度は堂々と歩いて。


さあ、五年間の茶番を終わらせましょう。




「あら、蓮司様。雫様も。奇遇ですわね」


私の声に、二人は弾かれたように振り返った。


境内に足を踏み入れた私を見て、蓮司の顔色が変わる。雫は咄嗟に蓮司の腕から離れようとしたが——私は手を上げてそれを制した。


「いいのですよ、そのままで。お似合いですもの」


「り、凛……いつから」


「いつから、ですか? そうですね」


私は微笑んだ。社交界で身につけた、完璧な令嬢の笑み。


「『婚約は家同士の取り決めに過ぎない』というところからでしょうか」


蓮司の顔が蒼白になった。雫は私の顔色を窺いながら、じりじりと後ずさっている。


(逃げる場所なんてないのよ、雫)


「凛、これは違うんだ。僕は——」


「違わないでしょう?」


私は穏やかに遮った。


「本当に愛しているのは雫様。私との婚約は政略に過ぎない。……全部聞こえておりましたわ」


「聞いて、凛。僕は君を傷つけるつもりは——」


「傷ついてなどおりませんわ」


私の言葉に、蓮司が凍りついた。


「……は?」


「ですから、傷ついてなどおりません」


私は一歩、蓮司に近づいた。彼の整った顔が、困惑に歪んでいる。


「五年間、蓮司様のお側にいて気づいたことがありますの。あなたは私を見ていなかった。私の言葉を聞いていなかった。私が何を考え、何を望んでいるか、一度も尋ねてくださらなかった」


「それは……」


「愛していない相手に愛されていなかったと知って、なぜ傷つく必要がありますの?」


蓮司の目が見開かれた。


(ああ、この顔)


予想通りだ。彼は私が泣いて取り乱すと思っていた。「どうして」と問い詰め、「見捨てないで」と縋りつくと。


愚かな男。私をいったい誰だと思っているの。


「凛様……」


雫が恐る恐る口を開いた。大きな瞳に涙を溜めて、震える声で言う。


「ごめんなさい、凛様。私、蓮司様を奪うつもりなんて……本当に、愛してしまっただけで……」


「存じておりますわ」


私は雫に向き直った。彼女の瞳の奥に、計算高い光が見える。この娘は、私が怒り狂うのを待っている。醜く取り乱す姿を見たいのだ。


——残念だったわね。


「雫様の御実家、花宮男爵家は大変な御苦労をされていると聞いておりますわ」


雫の顔が強張った。


「お二人が結ばれれば、桐生家の財力で花宮家も安泰ですものね。蓮司様、どうぞ雫様を幸せになさってくださいまし」


「ちょ、ちょっと待て、凛!」


蓮司が声を荒らげた。余裕を失った顔は、普段の甘いマスクとは似ても似つかない。


「君は、それでいいのか? 僕との婚約がなくなれば、柊木家は——」


「終わり、ですか?」


私は彼の言葉を引き取った。先ほど、彼自身が吐いた台詞を。


「ご心配には及びません。柊木家のことは、柊木家で何とかいたしますわ」


「何とかって……君に何ができる!」


蓮司の声が裏返った。彼は自分が切り捨てようとした女に、逆に見限られたことがわかっていない。


「そうですわね。あなたには想像もつかないでしょうから、教えて差し上げる義理もありませんわ」


私は懐から一通の書状を取り出した。婚約を証明する契約書の写しだ。


「では、正式に婚約解消の手続きを進めましょう。私から申し出た形にしていただいて結構ですわ」


「なっ……」


「あなたから申し出るより、そのほうが体裁がいいでしょう? 『没落伯爵令嬢に捨てられた子爵嫡男』では、桐生家の商売にも差し支えますものね」


蓮司は言葉を失った。隣で雫が青ざめている。


彼女はようやく気づいたのだ。私が怒り狂う代わりに、冷静に身を引いたことの意味を。


婚約破棄に伴う違約金。社交界での風評。桐生家が「格上の伯爵家との縁」を失う損害。


——そして何より、花宮家の借金を肩代わりする義務。


「凛様、お待ちください」


雫が駆け寄ってきた。その顔から、か弱い少女の仮面が剥がれかけている。


「あの、婚約解消は、もう少し時間をかけて……」


「時間をかける必要がありますの?」


私は首を傾げた。純粋な疑問として尋ねてみる。


「蓮司様は雫様を愛していらっしゃる。雫様も蓮司様を愛していらっしゃる。邪魔者の私がいなくなれば、お二人は晴れて結ばれる。……何か問題が?」


雫は口をぱくぱくさせた。言葉が出てこないようだ。


(計算が狂ったわね、雫)


あなたの筋書きでは、私は蓮司に縋りつき、醜態を晒すはずだった。そうすれば「凛様が可哀想だから、もう少し時間を」と言い訳しながら、桐生家からの援助だけ受け取り続けることができた。


でも、私があっさり身を引いてしまえば——


蓮司は、雫と正式に婚約するしかない。


花宮家の借金ごと。


「それでは、蓮司様。五年間お世話になりました」


私は最後の礼をした。完璧に、優雅に。伯爵令嬢として恥じない所作で。


「お二人の幸せを、心よりお祈り申し上げますわ」


踵を返す。夕日に照らされた境内を、私は振り返ることなく歩き出した。


「ま、待てよ凛! 凛!」


背後で蓮司が叫んでいる。追いかけてくる気配はない。きっと雫が止めているのだろう。


鳥居をくぐり、畦道に出る。


悠真が待っていた。私の姿を見て、小さく頷く。


「終わりましたの」


「……お見事でした」


彼の声は低く、静かだった。褒めているわけでも、労っているわけでもない。ただ、事実を述べているだけ。


その淡々とした態度が、今の私には心地よかった。


「鷹宮様。先ほどのお話、詳しく聞かせていただけますか」


「はい。……こちらへ」


悠真が歩き出す。私はその後に続いた。




「これは……素晴らしい」


悠真の声が、初めて感情を帯びた。


彼の私邸——というより研究室と呼ぶべき空間で、私は改革案の説明を終えたところだった。壁一面の書架には農学書がびっしりと並び、机の上には土壌のサンプルや種子の標本が整然と置かれている。


「輪作システムの改良案。土壌改善のための堆肥の配合比率。収穫時期の最適化……」


悠真は私の書いた文書を、食い入るように見つめている。


「どれも理論的に正確で、かつ実践可能な内容です。これを実行すれば、王国の穀物生産量は最低でも三割は増える」


「祖母の教えを、私なりにまとめただけですわ」


「謙遜が過ぎます」


悠真が顔を上げた。黒曜石の瞳が、まっすぐに私を見る。


「静江様は確かに偉大な学者でした。しかし、この改革案には静江様にはない視点がある。現場で働く農民の負担を考慮した工程管理。貴族の領地経営に組み込みやすい収支計算。……これは、貴女自身の才能です」


私は思わず目を逸らした。


こんなふうに、真正面から評価されたのは初めてだった。


蓮司は私の知識に興味を示さなかった。父は私が農学を学んでいることすら知らない。社交界では「女が学問など」と嘲笑の対象だった。


だから私は隠してきた。自分の能力を、自分の価値を。


「五年間、ずっとこの案を書き続けてきました」


気がつけば、私は口を開いていた。


「桐生家に嫁いだら、領地経営に参画できると思っていましたの。あの家は商業で財を成しましたから、新しい農業技術にも理解があるだろうと」


「……なるほど」


「でも、蓮司様は違いました。あの方が私に求めていたのは、『伯爵令嬢』という肩書きだけ。私の頭の中身には、一片の興味もなかった」


「凛様」


悠真の声が、静かに響いた。


「私は、貴女の頭の中身に興味があります」


私は顔を上げた。


悠真は相変わらず無表情だった。社交辞令でも、お世辞でもない。ただ事実を述べているだけの声音。


「静江様は、貴女のことを誇りに思っていらっしゃいました。『あの子は私を超える』と。私はそれを確かめたかった。……確かめられました」


「お祖母様が、そんなことを……」


「この改革案を、宮廷に提出しませんか」


悠真の言葉に、私は息を呑んだ。


「宮廷に?」


「今、王国の農政は行き詰まっています。人口は増えているのに、耕作地は限界に近い。飢饉の危機が迫っているのです」


悠真は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。


「この改革案があれば、危機を回避できる可能性がある。……いいえ、回避だけではない。王国の農業を根本から変えられる」


「でも、私は女ですわ。没落寸前の伯爵家の令嬢に過ぎません。宮廷が耳を貸すとは思えませんわ」


「私が後ろ盾になります」


悠真が振り返った。


「農政官として、私はそれなりの発言力を持っています。静江様の名前も、まだ宮廷では重みがある。……それに」


彼は少し言葉を切った。不器用な男が、言葉を選んでいるようだった。


「静江様に頼まれたのです。『孫娘を頼む』と」


私の心臓が、大きく跳ねた。


「貴女が不当に扱われることを、静江様は予見していらっしゃいました。だから私を育て、この国の農政に送り込んだ。貴女を守れる立場に」


悠真の声は淡々としていた。でも、その瞳の奥には、静かな決意の炎が燃えている。


「私は静江様の遺志を継ぎたい。……貴女の才能を、正当に評価される場所へ導きたいのです」


長い沈黙が落ちた。


私は自分の手を見つめた。畦道を歩き、土に触れ、作物を育ててきた手。伯爵令嬢らしくない、働く者の手。


「……お願いしますわ」


私は顔を上げた。


「鷹宮様。どうか、お力添えください」


悠真は小さく頷いた。その口元が、わずかに緩んだように見えた。


「お任せください。……それと」


「はい?」


「悠真、とお呼びください。鷹宮様では、他人行儀ですから」


私は目を瞬いた。この堅物の農政官が、そんなことを言うとは。


「では、悠真様。私のことも凛とお呼びくださいまし」


「……凛様」


悠真は小さく呟いた。その声には、どこか照れたような響きがあった。


(あら)


私は思わず微笑んでしまった。


祖母の教え子は、存外に不器用で誠実な男のようだ。




「この改革案を提出したのは、没落伯爵家の令嬢だと?」


宮廷の大広間に、宰相の声が響いた。


私は背筋を伸ばし、居並ぶ高官たちの前に立っていた。悠真が隣に控えている。


「はい。柊木凛と申します」


「ふむ……柊木、か。静江殿の血筋だな」


宰相は白髪交じりの髭を撫でた。老齢だが、眼光は鋭い。


「静江殿には、かつて世話になった。だが、女の身で農政に口を出そうとは、大胆なことだ」


周囲から失笑が漏れた。「女のくせに」「身の程知らず」という囁きが聞こえる。


(想定内ですわね)


私は表情を変えなかった。


「畏れながら申し上げます。私が女であることと、この改革案の価値は無関係かと存じます」


「ほう?」


「ご覧いただければお分かりになるはずです。輪作システムの改良、土壌改善の手法、収穫時期の最適化。……どれも理論と実践に裏打ちされた内容ですわ」


宰相は改革案に目を落とした。しばらく頁をめくり、眉を寄せる。


「……なるほど。確かに、これは」


「机上の空論ではございません。祖母から学んだ理論を、私自身が柊木領で検証した結果です」


「検証? 伯爵令嬢が、自ら畑に?」


「はい。五年間、領民とともに」


広間がざわついた。貴族の令嬢が農作業をするなど、前代未聞だ。


「柊木凛様の改革案は、私も精査いたしました」


悠真が一歩前に出た。


「農政官として断言いたします。この案が実行されれば、王国の穀物生産量は三割以上増加します。迫りくる飢饉の危機を、回避できる可能性がございます」


「鷹宮、貴様がそこまで言うか」


宰相が目を細めた。悠真は宮廷で「変わり者」と評されているが、その能力は誰もが認めている。


「この案を一蹴することは簡単です。『女の戯言』と笑えばいい。しかし、それで飢饉が来た時、誰が責任を取るのですか」


悠真の声は冷静だった。だが、その言葉には鋭い刃が潜んでいる。


「私は農政官として、この改革案を採用することを進言いたします。凛様を王家直轄の農政顧問に任命し、柊木領を改革の試験地とすることを」


広間が静まり返った。


「……農政顧問、だと?」


「静江殿がかつて務められた役職です。血筋の上でも、能力の上でも、凛様は相応しい」


宰相はしばらく沈黙した。老練な政治家の目が、私を値踏みするように見つめている。


「柊木凛。質問がある」


「はい」


「そなたは先日、桐生子爵家の嫡男との婚約を解消したと聞く。没落寸前の家が、財力ある家との縁を切る。……なぜだ」


私は一瞬、息を呑んだ。この場でそれを聞かれるとは。


「価値観の相違、とでも申しましょうか」


「価値観?」


「桐生家が求めていたのは、『伯爵令嬢』という肩書きだけでした。私の知識も、私の努力も、彼らには無価値だった」


私は宰相の目を真っ直ぐに見た。


「私は道具として生きることを拒みます。私の価値は、血筋でも肩書きでもない。私自身の能力と、私自身の選択にある」


広間が静まり返った。


宰相は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。


「……静江殿に似ている」


「え?」


「あの方も、そうだった。身分も性別も関係ない、実力だけで評価しろと。……あの頃、私は若造でな。静江殿に何度も論破されたものだ」


宰相の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「よかろう。柊木凛、そなたを王家直轄の農政顧問に任命する」


私は息を呑んだ。周囲からどよめきが上がる。


「ただし、条件がある。一年以内に柊木領で成果を出すこと。それができなければ、即刻罷免する」


「……承知いたしました」


私は深く頭を下げた。


顔を上げると、悠真が小さく頷いているのが見えた。その瞳に、誇らしげな光が宿っている。


「やりましたな、凛様」


悠真が小声で囁いた。


「ええ。……ありがとうございます、悠真様」


私は微笑んだ。今度は、社交界の仮面ではない。心からの笑みを。




改革案が採用されてから、三ヶ月が経った。


柊木領は見違えるほど活気づいていた。新しい輪作システムが軌道に乗り、収穫の見通しは上々だ。領民たちの顔にも、希望の色が戻ってきている。


「凛様、今年の収穫は例年の五割増しになりそうです」


領地の代官が、嬉しそうに報告してきた。


「まだ始まったばかりですわ。来年はさらに改善できるはずです」


私が畑を見渡していると、畦道の向こうから見覚えのある馬車がやってきた。


桐生家の紋章。


「……まさか」


馬車が止まり、扉が開く。


降りてきたのは、蓮司だった。


三ヶ月前より、明らかにやつれている。整っていた顔は疲労で翳り、切れ長の目は落ち窪んでいた。


「凛……」


「蓮司様」


私は社交界の笑みを浮かべた。完璧に、優雅に。


「お久しぶりですわね。何か御用でしょうか」


「凛、頼む。もう一度、僕と婚約してくれないか」


私は一瞬、自分の耳を疑った。


「……は?」


「花宮家の借金が、想像以上だった。桐生家の財政が傾いている。雫とは……うまくいっていないんだ」


蓮司は必死の形相で続けた。


「凛、君は今、農政顧問だろう? 王家とつながりがある。君と婚約すれば、桐生家も立て直せる。頼む、昔のよしみで——」


「お断りいたします」


私は即答した。


「な……」


「蓮司様。あなたは三ヶ月前、何とおっしゃいましたか?」


私は一歩、蓮司に近づいた。


「『凛との婚約は家同士の取り決めに過ぎない』。『本当に愛しているのは雫だけだ』。……お忘れですか?」


蓮司の顔が蒼白になった。


「あなたは私を箔付けの道具として利用し、用が済んだら捨てようとした。そして今、また利用しようとしている。……虫が良すぎませんこと?」


「凛、違うんだ。僕は君の価値がわかっていなかった。今ならわかる、君は素晴らしい女性だ——」


「今さら、ですわね」


私は静かに言った。


「私が農学を学んでいたことを、あなたは知っていましたか? 五年間、改革案を練り上げていたことを、一度でも聞こうとしましたか?」


蓮司は言葉を失った。


「私の価値を最初から認めてくださった方がいます。私のためにすべてを賭けて、宮廷で後ろ盾になってくださった方が」


背後で、馬の蹄の音が聞こえた。振り返ると、悠真が馬を降りるところだった。


「凛様、遅くなりました。宮廷での会議が——」


悠真は蓮司に気づき、足を止めた。その瞳が、冷たく細められる。


「桐生子爵嫡男。何の用だ」


「貴様は……鷹宮農政官か」


蓮司の顔が歪んだ。私と悠真を交互に見て、何かを察したようだった。


「そうか……お前たち、できているのか」


「下品な言い方はおやめになって」


私は冷たく言った。


「悠真様は私の恩人であり、同志です。それ以上でも以下でもありませんわ」


(……今のところは)


私は心の中で付け加えた。悠真の耳が、わずかに赤くなったのが見えた。


「蓮司様。お引き取りください」


「凛……!」


「雫様をお大事に。……借金の返済、頑張ってくださいまし」


私は踵を返した。悠真が黙って私の隣に並ぶ。


背後で、蓮司が何か叫んでいる。でも、もう聞こえなかった。


聞く必要もなかった。




夕暮れの畦道を、悠真と並んで歩いていた。


蓮司が去った後、しばらく無言で歩いた。黄金色の稲穂が、三ヶ月前と同じように風に揺れている。


「凛様」


悠真が口を開いた。


「先ほどの、『それ以上でも以下でもない』という言葉。……本心ですか」


私は足を止めた。


振り返ると、悠真が真剣な顔で立っている。夕日が彼の横顔を照らしていた。黒曜石の瞳が、いつになく揺れている。


「悠真様」


「私は……その」


普段は冷静な農政官が、言葉を探してもがいている。その不器用さが、どこか可愛らしかった。


「静江様に頼まれたから、貴女を助けたわけではありません」


「え?」


「いや、最初はそうでした。恩師の孫娘を守る、それが義務だと思っていた」


悠真は一度言葉を切り、深く息を吸った。


「でも今は違う。貴女の改革案を読んだ時から、貴女自身に惹かれていた。貴女の知性に。貴女の強さに。貴女の——」


彼の言葉が途切れた。悠真は顔を背け、耳まで赤くしている。


(あら、まあ)


私は思わず笑ってしまった。


「凛様?」


「ごめんなさい。悠真様が、あまりにも不器用で」


「……すみません。こういうことは、苦手で」


「知っておりますわ」


私は悠真の前に立った。


「先ほどの言葉、訂正してもよろしいでしょうか」


「……訂正?」


「悠真様は私の恩人であり、同志です。それ以上でも以下でもない、と申しましたが」


私は夕日に照らされた畦道を見渡した。三ヶ月前、ここで裏切りを目撃した。同じ場所に、今は悠真が立っている。


「この畦道は、私にとって終わりの場所でした」


「……はい」


「でも今は——」


私は悠真を見上げた。


「始まりの場所、ですわね」


悠真の目が見開かれた。そして、その口元がゆっくりと緩む。


「凛様」


「悠真様。私、あなたに聞きたいことがありますの」


「何でしょう」


「五年間、私の改革案を探していたとおっしゃいましたわね。『これを書いた方に会いたい』と」


「はい。静江様から託されて以来、ずっと」


「会って、いかがでした?」


悠真は少し考え込んだ。この人は、本当に言葉を選ぶのに時間がかかる。


「……想像以上でした」


「あら。どのように?」


「改革案だけでも素晴らしいと思っていました。でも、書いた本人は——」


悠真の声が、わずかに震えた。


「もっと、素晴らしかった」


私の心臓が、大きく跳ねた。


「私は口下手で、不器用で、社交辞令も言えない男です。貴女に相応しい言葉を持っていない」


悠真が一歩、私に近づいた。


「でも、行動で示すことはできます。貴女を守ること。貴女の夢を支えること。貴女と共に、この国の農業を変えること」


夕日が沈みかけていた。空が茜色から紫へと変わっていく。


「凛様。私と——」


「はい」


私は悠真の言葉を遮った。


「え?」


「はい、と申しましたわ」


悠真が目を丸くしている。私は微笑んだ。


「まだ何も言っていないのですが」


「五年間、道具として扱われてきましたの。私の言葉に耳を傾けてくれる人、私の価値を認めてくれる人。……ずっと、待っておりましたわ」


私は悠真の手を取った。土に馴染んだ、温かい手だった。


「言葉が下手でも構いません。行動で示してくださるのでしょう?」


悠真の顔が、見る間に赤くなった。この堅物の農政官が、こんな顔をするとは。


「……はい」


「では、これからもよろしくお願いいたしますわね」


夕日が最後の光を投げかける。黄金色の畦道で、私たちは向かい合って立っていた。


終わりの場所だった畦道。裏切りを目撃した畦道。


今、ここで。新しい道が始まろうとしている。


「凛様」


「何でしょう」


「私は、貴女を幸せにします」


悠真の声は静かだったが、そこには揺るぎない決意があった。


「存じておりますわ」


私は微笑んだ。今度は、心からの笑みを。


遠くで、蓮司が後悔の涙を流しているかもしれない。雫が計画の破綻に歯噛みしているかもしれない。


でも、そんなことはもう関係ない。


私の心は、すでに遥か先の未来を見つめていた。


悠真と共に歩む、新しい道の先を。




——後日談——


柊木家の農業改革は大成功を収め、一年を待たずして王国中に広まった。没落寸前だった伯爵家は、今や農政の要として王家から重用されている。


桐生家は花宮家の借金に押しつぶされ、商業の地位を大きく落とした。蓮司と雫の仲は冷え切り、社交界では「身から出た錆」と囁かれているという。


私は農政顧問として、そして悠真の隣で、新しい人生を歩んでいる。


『知識は誰にも奪えない財産だよ』


お祖母様。あなたの言葉は、本当でしたわ。


私は自分の価値を、自分で証明しました。


そして、その価値を認めてくれる人と出会えました。


——だから、もう大丈夫です。


畦道に立ち、夕日を見上げる。隣には悠真がいる。


これが私の、新しい始まりの場所。




——了——

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