婚約破棄されたので農業改革で国を救ったら、元婚約者が泣いて復縁を求めてきましたが、もう遅いですわ
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あらかじめご了承の上、お楽しみください
「凛との婚約は家同士の取り決めに過ぎない。僕が本当に愛しているのは雫、君だけだ」
夕暮れの畦道で、私は足を止めた。
黄金色に染まる稲穂の向こう、古い神社の境内。そこで婚約者の桐生蓮司が、花宮雫を抱きしめている。
……ああ、なるほど。
五年間、尽くしてきた相手の本心を、こんな形で知ることになるとは。
(まあ、薄々気づいてはいたけれど)
私——柊木凛は音を立てないよう、一歩後ろに下がった。稲穂が風に揺れる音が、二人の甘い囁きを運んでくる。
「蓮司様……でも、凛様が可哀想です」
雫の声は震えている。演技だ。あの潤んだ青い瞳を上目遣いに向けているのだろう。彼女の十八番。
「雫は優しいね。でも心配いらないよ。凛は没落寸前の伯爵家の娘だ。僕との婚約がなくなれば、あの家は終わりさ」
蓮司の声には、隠しきれない優越感が滲んでいた。
(終わり、ね)
私は小さく息を吐いた。怒りよりも先に、呆れが込み上げてくる。
五年間。私は何を見ていたのだろう。
いや、違う。見ていなかったのは彼の方だ。私という人間を、一度たりとも。
「凛には申し訳ないと思っているよ。でも、政略結婚なんて古い慣習だ。僕は自分の心に正直に生きたいんだ」
(自分の心に正直、ですか)
聞いて呆れる。花宮家の借金がいくらあるか、この男は知っているのだろうか。雫があなたに近づいた本当の理由を、少しでも考えたことがあるのだろうか。
……いいえ、考えるはずがない。
桐生蓮司という男は、生まれてこの方、自分の頭で何かを考えたことなどないのだから。
私は踵を返した。
夕日に照らされた畦道を、一人歩く。足元の土は、祖母と何度も歩いた道と同じ感触がした。
『いいかい、凛。知識は誰にも奪えない財産だよ』
祖母の声が、脳裏に蘇る。
私は懐に手を当てた。そこには、五年かけて書き上げた農業改革案がある。桐生家に嫁いだ後、柊木領を立て直すために。この国の農業を変えるために。
……もう、必要ないわね。
いいえ。必要なくなったのは、桐生家との縁の方だ。
「お嬢様」
不意に声をかけられ、私は足を止めた。
振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。日に焼けた肌。学者には見えない鍛えられた体躯。黒曜石のような深い瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
「……どなたでしょうか」
「失礼しました。私は鷹宮悠真と申します。宮廷農政官を務めております」
農政官。その肩書きに、私の心臓が小さく跳ねた。
「静江様の……柊木静江様のお孫様でいらっしゃいますね」
祖母の名前。私は目を見開いた。
「祖母をご存知なのですか」
「私は静江様の最後の弟子です」
青年は——悠真は、深く頭を下げた。
「五年前から、ずっとお会いしたいと思っておりました。貴女の書かれた改革案を、拝見する機会がありまして」
私は息を呑んだ。
「……どこで」
「静江様が、亡くなる前に託してくださいました。『いつか孫娘を助けてやってほしい』と」
夕日が、悠真の横顔を照らしている。その瞳には、祖母と同じ種類の、真摯な光が宿っていた。
「あの改革案は、この国の農業を変える可能性を秘めています」
悠真は顔を上げた。
「凛様。貴女の価値を、正しく理解できる場所があります。……宮廷にお越しになりませんか」
風が吹いた。黄金色の稲穂が、さわさわと揺れる。
神社の方から、蓮司と雫の笑い声が聞こえてきた。
私は、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます、鷹宮様。ですが、その前に」
夕日を背に、私は姿勢を正した。
「片付けなければならないことがありますの。少々お待ちいただけますか」
悠真は黙って頷いた。
私は畦道を引き返す。神社へと続く道を、今度は堂々と歩いて。
さあ、五年間の茶番を終わらせましょう。
「あら、蓮司様。雫様も。奇遇ですわね」
私の声に、二人は弾かれたように振り返った。
境内に足を踏み入れた私を見て、蓮司の顔色が変わる。雫は咄嗟に蓮司の腕から離れようとしたが——私は手を上げてそれを制した。
「いいのですよ、そのままで。お似合いですもの」
「り、凛……いつから」
「いつから、ですか? そうですね」
私は微笑んだ。社交界で身につけた、完璧な令嬢の笑み。
「『婚約は家同士の取り決めに過ぎない』というところからでしょうか」
蓮司の顔が蒼白になった。雫は私の顔色を窺いながら、じりじりと後ずさっている。
(逃げる場所なんてないのよ、雫)
「凛、これは違うんだ。僕は——」
「違わないでしょう?」
私は穏やかに遮った。
「本当に愛しているのは雫様。私との婚約は政略に過ぎない。……全部聞こえておりましたわ」
「聞いて、凛。僕は君を傷つけるつもりは——」
「傷ついてなどおりませんわ」
私の言葉に、蓮司が凍りついた。
「……は?」
「ですから、傷ついてなどおりません」
私は一歩、蓮司に近づいた。彼の整った顔が、困惑に歪んでいる。
「五年間、蓮司様のお側にいて気づいたことがありますの。あなたは私を見ていなかった。私の言葉を聞いていなかった。私が何を考え、何を望んでいるか、一度も尋ねてくださらなかった」
「それは……」
「愛していない相手に愛されていなかったと知って、なぜ傷つく必要がありますの?」
蓮司の目が見開かれた。
(ああ、この顔)
予想通りだ。彼は私が泣いて取り乱すと思っていた。「どうして」と問い詰め、「見捨てないで」と縋りつくと。
愚かな男。私をいったい誰だと思っているの。
「凛様……」
雫が恐る恐る口を開いた。大きな瞳に涙を溜めて、震える声で言う。
「ごめんなさい、凛様。私、蓮司様を奪うつもりなんて……本当に、愛してしまっただけで……」
「存じておりますわ」
私は雫に向き直った。彼女の瞳の奥に、計算高い光が見える。この娘は、私が怒り狂うのを待っている。醜く取り乱す姿を見たいのだ。
——残念だったわね。
「雫様の御実家、花宮男爵家は大変な御苦労をされていると聞いておりますわ」
雫の顔が強張った。
「お二人が結ばれれば、桐生家の財力で花宮家も安泰ですものね。蓮司様、どうぞ雫様を幸せになさってくださいまし」
「ちょ、ちょっと待て、凛!」
蓮司が声を荒らげた。余裕を失った顔は、普段の甘いマスクとは似ても似つかない。
「君は、それでいいのか? 僕との婚約がなくなれば、柊木家は——」
「終わり、ですか?」
私は彼の言葉を引き取った。先ほど、彼自身が吐いた台詞を。
「ご心配には及びません。柊木家のことは、柊木家で何とかいたしますわ」
「何とかって……君に何ができる!」
蓮司の声が裏返った。彼は自分が切り捨てようとした女に、逆に見限られたことがわかっていない。
「そうですわね。あなたには想像もつかないでしょうから、教えて差し上げる義理もありませんわ」
私は懐から一通の書状を取り出した。婚約を証明する契約書の写しだ。
「では、正式に婚約解消の手続きを進めましょう。私から申し出た形にしていただいて結構ですわ」
「なっ……」
「あなたから申し出るより、そのほうが体裁がいいでしょう? 『没落伯爵令嬢に捨てられた子爵嫡男』では、桐生家の商売にも差し支えますものね」
蓮司は言葉を失った。隣で雫が青ざめている。
彼女はようやく気づいたのだ。私が怒り狂う代わりに、冷静に身を引いたことの意味を。
婚約破棄に伴う違約金。社交界での風評。桐生家が「格上の伯爵家との縁」を失う損害。
——そして何より、花宮家の借金を肩代わりする義務。
「凛様、お待ちください」
雫が駆け寄ってきた。その顔から、か弱い少女の仮面が剥がれかけている。
「あの、婚約解消は、もう少し時間をかけて……」
「時間をかける必要がありますの?」
私は首を傾げた。純粋な疑問として尋ねてみる。
「蓮司様は雫様を愛していらっしゃる。雫様も蓮司様を愛していらっしゃる。邪魔者の私がいなくなれば、お二人は晴れて結ばれる。……何か問題が?」
雫は口をぱくぱくさせた。言葉が出てこないようだ。
(計算が狂ったわね、雫)
あなたの筋書きでは、私は蓮司に縋りつき、醜態を晒すはずだった。そうすれば「凛様が可哀想だから、もう少し時間を」と言い訳しながら、桐生家からの援助だけ受け取り続けることができた。
でも、私があっさり身を引いてしまえば——
蓮司は、雫と正式に婚約するしかない。
花宮家の借金ごと。
「それでは、蓮司様。五年間お世話になりました」
私は最後の礼をした。完璧に、優雅に。伯爵令嬢として恥じない所作で。
「お二人の幸せを、心よりお祈り申し上げますわ」
踵を返す。夕日に照らされた境内を、私は振り返ることなく歩き出した。
「ま、待てよ凛! 凛!」
背後で蓮司が叫んでいる。追いかけてくる気配はない。きっと雫が止めているのだろう。
鳥居をくぐり、畦道に出る。
悠真が待っていた。私の姿を見て、小さく頷く。
「終わりましたの」
「……お見事でした」
彼の声は低く、静かだった。褒めているわけでも、労っているわけでもない。ただ、事実を述べているだけ。
その淡々とした態度が、今の私には心地よかった。
「鷹宮様。先ほどのお話、詳しく聞かせていただけますか」
「はい。……こちらへ」
悠真が歩き出す。私はその後に続いた。
「これは……素晴らしい」
悠真の声が、初めて感情を帯びた。
彼の私邸——というより研究室と呼ぶべき空間で、私は改革案の説明を終えたところだった。壁一面の書架には農学書がびっしりと並び、机の上には土壌のサンプルや種子の標本が整然と置かれている。
「輪作システムの改良案。土壌改善のための堆肥の配合比率。収穫時期の最適化……」
悠真は私の書いた文書を、食い入るように見つめている。
「どれも理論的に正確で、かつ実践可能な内容です。これを実行すれば、王国の穀物生産量は最低でも三割は増える」
「祖母の教えを、私なりにまとめただけですわ」
「謙遜が過ぎます」
悠真が顔を上げた。黒曜石の瞳が、まっすぐに私を見る。
「静江様は確かに偉大な学者でした。しかし、この改革案には静江様にはない視点がある。現場で働く農民の負担を考慮した工程管理。貴族の領地経営に組み込みやすい収支計算。……これは、貴女自身の才能です」
私は思わず目を逸らした。
こんなふうに、真正面から評価されたのは初めてだった。
蓮司は私の知識に興味を示さなかった。父は私が農学を学んでいることすら知らない。社交界では「女が学問など」と嘲笑の対象だった。
だから私は隠してきた。自分の能力を、自分の価値を。
「五年間、ずっとこの案を書き続けてきました」
気がつけば、私は口を開いていた。
「桐生家に嫁いだら、領地経営に参画できると思っていましたの。あの家は商業で財を成しましたから、新しい農業技術にも理解があるだろうと」
「……なるほど」
「でも、蓮司様は違いました。あの方が私に求めていたのは、『伯爵令嬢』という肩書きだけ。私の頭の中身には、一片の興味もなかった」
「凛様」
悠真の声が、静かに響いた。
「私は、貴女の頭の中身に興味があります」
私は顔を上げた。
悠真は相変わらず無表情だった。社交辞令でも、お世辞でもない。ただ事実を述べているだけの声音。
「静江様は、貴女のことを誇りに思っていらっしゃいました。『あの子は私を超える』と。私はそれを確かめたかった。……確かめられました」
「お祖母様が、そんなことを……」
「この改革案を、宮廷に提出しませんか」
悠真の言葉に、私は息を呑んだ。
「宮廷に?」
「今、王国の農政は行き詰まっています。人口は増えているのに、耕作地は限界に近い。飢饉の危機が迫っているのです」
悠真は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「この改革案があれば、危機を回避できる可能性がある。……いいえ、回避だけではない。王国の農業を根本から変えられる」
「でも、私は女ですわ。没落寸前の伯爵家の令嬢に過ぎません。宮廷が耳を貸すとは思えませんわ」
「私が後ろ盾になります」
悠真が振り返った。
「農政官として、私はそれなりの発言力を持っています。静江様の名前も、まだ宮廷では重みがある。……それに」
彼は少し言葉を切った。不器用な男が、言葉を選んでいるようだった。
「静江様に頼まれたのです。『孫娘を頼む』と」
私の心臓が、大きく跳ねた。
「貴女が不当に扱われることを、静江様は予見していらっしゃいました。だから私を育て、この国の農政に送り込んだ。貴女を守れる立場に」
悠真の声は淡々としていた。でも、その瞳の奥には、静かな決意の炎が燃えている。
「私は静江様の遺志を継ぎたい。……貴女の才能を、正当に評価される場所へ導きたいのです」
長い沈黙が落ちた。
私は自分の手を見つめた。畦道を歩き、土に触れ、作物を育ててきた手。伯爵令嬢らしくない、働く者の手。
「……お願いしますわ」
私は顔を上げた。
「鷹宮様。どうか、お力添えください」
悠真は小さく頷いた。その口元が、わずかに緩んだように見えた。
「お任せください。……それと」
「はい?」
「悠真、とお呼びください。鷹宮様では、他人行儀ですから」
私は目を瞬いた。この堅物の農政官が、そんなことを言うとは。
「では、悠真様。私のことも凛とお呼びくださいまし」
「……凛様」
悠真は小さく呟いた。その声には、どこか照れたような響きがあった。
(あら)
私は思わず微笑んでしまった。
祖母の教え子は、存外に不器用で誠実な男のようだ。
「この改革案を提出したのは、没落伯爵家の令嬢だと?」
宮廷の大広間に、宰相の声が響いた。
私は背筋を伸ばし、居並ぶ高官たちの前に立っていた。悠真が隣に控えている。
「はい。柊木凛と申します」
「ふむ……柊木、か。静江殿の血筋だな」
宰相は白髪交じりの髭を撫でた。老齢だが、眼光は鋭い。
「静江殿には、かつて世話になった。だが、女の身で農政に口を出そうとは、大胆なことだ」
周囲から失笑が漏れた。「女のくせに」「身の程知らず」という囁きが聞こえる。
(想定内ですわね)
私は表情を変えなかった。
「畏れながら申し上げます。私が女であることと、この改革案の価値は無関係かと存じます」
「ほう?」
「ご覧いただければお分かりになるはずです。輪作システムの改良、土壌改善の手法、収穫時期の最適化。……どれも理論と実践に裏打ちされた内容ですわ」
宰相は改革案に目を落とした。しばらく頁をめくり、眉を寄せる。
「……なるほど。確かに、これは」
「机上の空論ではございません。祖母から学んだ理論を、私自身が柊木領で検証した結果です」
「検証? 伯爵令嬢が、自ら畑に?」
「はい。五年間、領民とともに」
広間がざわついた。貴族の令嬢が農作業をするなど、前代未聞だ。
「柊木凛様の改革案は、私も精査いたしました」
悠真が一歩前に出た。
「農政官として断言いたします。この案が実行されれば、王国の穀物生産量は三割以上増加します。迫りくる飢饉の危機を、回避できる可能性がございます」
「鷹宮、貴様がそこまで言うか」
宰相が目を細めた。悠真は宮廷で「変わり者」と評されているが、その能力は誰もが認めている。
「この案を一蹴することは簡単です。『女の戯言』と笑えばいい。しかし、それで飢饉が来た時、誰が責任を取るのですか」
悠真の声は冷静だった。だが、その言葉には鋭い刃が潜んでいる。
「私は農政官として、この改革案を採用することを進言いたします。凛様を王家直轄の農政顧問に任命し、柊木領を改革の試験地とすることを」
広間が静まり返った。
「……農政顧問、だと?」
「静江殿がかつて務められた役職です。血筋の上でも、能力の上でも、凛様は相応しい」
宰相はしばらく沈黙した。老練な政治家の目が、私を値踏みするように見つめている。
「柊木凛。質問がある」
「はい」
「そなたは先日、桐生子爵家の嫡男との婚約を解消したと聞く。没落寸前の家が、財力ある家との縁を切る。……なぜだ」
私は一瞬、息を呑んだ。この場でそれを聞かれるとは。
「価値観の相違、とでも申しましょうか」
「価値観?」
「桐生家が求めていたのは、『伯爵令嬢』という肩書きだけでした。私の知識も、私の努力も、彼らには無価値だった」
私は宰相の目を真っ直ぐに見た。
「私は道具として生きることを拒みます。私の価値は、血筋でも肩書きでもない。私自身の能力と、私自身の選択にある」
広間が静まり返った。
宰相は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「……静江殿に似ている」
「え?」
「あの方も、そうだった。身分も性別も関係ない、実力だけで評価しろと。……あの頃、私は若造でな。静江殿に何度も論破されたものだ」
宰相の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「よかろう。柊木凛、そなたを王家直轄の農政顧問に任命する」
私は息を呑んだ。周囲からどよめきが上がる。
「ただし、条件がある。一年以内に柊木領で成果を出すこと。それができなければ、即刻罷免する」
「……承知いたしました」
私は深く頭を下げた。
顔を上げると、悠真が小さく頷いているのが見えた。その瞳に、誇らしげな光が宿っている。
「やりましたな、凛様」
悠真が小声で囁いた。
「ええ。……ありがとうございます、悠真様」
私は微笑んだ。今度は、社交界の仮面ではない。心からの笑みを。
改革案が採用されてから、三ヶ月が経った。
柊木領は見違えるほど活気づいていた。新しい輪作システムが軌道に乗り、収穫の見通しは上々だ。領民たちの顔にも、希望の色が戻ってきている。
「凛様、今年の収穫は例年の五割増しになりそうです」
領地の代官が、嬉しそうに報告してきた。
「まだ始まったばかりですわ。来年はさらに改善できるはずです」
私が畑を見渡していると、畦道の向こうから見覚えのある馬車がやってきた。
桐生家の紋章。
「……まさか」
馬車が止まり、扉が開く。
降りてきたのは、蓮司だった。
三ヶ月前より、明らかにやつれている。整っていた顔は疲労で翳り、切れ長の目は落ち窪んでいた。
「凛……」
「蓮司様」
私は社交界の笑みを浮かべた。完璧に、優雅に。
「お久しぶりですわね。何か御用でしょうか」
「凛、頼む。もう一度、僕と婚約してくれないか」
私は一瞬、自分の耳を疑った。
「……は?」
「花宮家の借金が、想像以上だった。桐生家の財政が傾いている。雫とは……うまくいっていないんだ」
蓮司は必死の形相で続けた。
「凛、君は今、農政顧問だろう? 王家とつながりがある。君と婚約すれば、桐生家も立て直せる。頼む、昔のよしみで——」
「お断りいたします」
私は即答した。
「な……」
「蓮司様。あなたは三ヶ月前、何とおっしゃいましたか?」
私は一歩、蓮司に近づいた。
「『凛との婚約は家同士の取り決めに過ぎない』。『本当に愛しているのは雫だけだ』。……お忘れですか?」
蓮司の顔が蒼白になった。
「あなたは私を箔付けの道具として利用し、用が済んだら捨てようとした。そして今、また利用しようとしている。……虫が良すぎませんこと?」
「凛、違うんだ。僕は君の価値がわかっていなかった。今ならわかる、君は素晴らしい女性だ——」
「今さら、ですわね」
私は静かに言った。
「私が農学を学んでいたことを、あなたは知っていましたか? 五年間、改革案を練り上げていたことを、一度でも聞こうとしましたか?」
蓮司は言葉を失った。
「私の価値を最初から認めてくださった方がいます。私のためにすべてを賭けて、宮廷で後ろ盾になってくださった方が」
背後で、馬の蹄の音が聞こえた。振り返ると、悠真が馬を降りるところだった。
「凛様、遅くなりました。宮廷での会議が——」
悠真は蓮司に気づき、足を止めた。その瞳が、冷たく細められる。
「桐生子爵嫡男。何の用だ」
「貴様は……鷹宮農政官か」
蓮司の顔が歪んだ。私と悠真を交互に見て、何かを察したようだった。
「そうか……お前たち、できているのか」
「下品な言い方はおやめになって」
私は冷たく言った。
「悠真様は私の恩人であり、同志です。それ以上でも以下でもありませんわ」
(……今のところは)
私は心の中で付け加えた。悠真の耳が、わずかに赤くなったのが見えた。
「蓮司様。お引き取りください」
「凛……!」
「雫様をお大事に。……借金の返済、頑張ってくださいまし」
私は踵を返した。悠真が黙って私の隣に並ぶ。
背後で、蓮司が何か叫んでいる。でも、もう聞こえなかった。
聞く必要もなかった。
夕暮れの畦道を、悠真と並んで歩いていた。
蓮司が去った後、しばらく無言で歩いた。黄金色の稲穂が、三ヶ月前と同じように風に揺れている。
「凛様」
悠真が口を開いた。
「先ほどの、『それ以上でも以下でもない』という言葉。……本心ですか」
私は足を止めた。
振り返ると、悠真が真剣な顔で立っている。夕日が彼の横顔を照らしていた。黒曜石の瞳が、いつになく揺れている。
「悠真様」
「私は……その」
普段は冷静な農政官が、言葉を探してもがいている。その不器用さが、どこか可愛らしかった。
「静江様に頼まれたから、貴女を助けたわけではありません」
「え?」
「いや、最初はそうでした。恩師の孫娘を守る、それが義務だと思っていた」
悠真は一度言葉を切り、深く息を吸った。
「でも今は違う。貴女の改革案を読んだ時から、貴女自身に惹かれていた。貴女の知性に。貴女の強さに。貴女の——」
彼の言葉が途切れた。悠真は顔を背け、耳まで赤くしている。
(あら、まあ)
私は思わず笑ってしまった。
「凛様?」
「ごめんなさい。悠真様が、あまりにも不器用で」
「……すみません。こういうことは、苦手で」
「知っておりますわ」
私は悠真の前に立った。
「先ほどの言葉、訂正してもよろしいでしょうか」
「……訂正?」
「悠真様は私の恩人であり、同志です。それ以上でも以下でもない、と申しましたが」
私は夕日に照らされた畦道を見渡した。三ヶ月前、ここで裏切りを目撃した。同じ場所に、今は悠真が立っている。
「この畦道は、私にとって終わりの場所でした」
「……はい」
「でも今は——」
私は悠真を見上げた。
「始まりの場所、ですわね」
悠真の目が見開かれた。そして、その口元がゆっくりと緩む。
「凛様」
「悠真様。私、あなたに聞きたいことがありますの」
「何でしょう」
「五年間、私の改革案を探していたとおっしゃいましたわね。『これを書いた方に会いたい』と」
「はい。静江様から託されて以来、ずっと」
「会って、いかがでした?」
悠真は少し考え込んだ。この人は、本当に言葉を選ぶのに時間がかかる。
「……想像以上でした」
「あら。どのように?」
「改革案だけでも素晴らしいと思っていました。でも、書いた本人は——」
悠真の声が、わずかに震えた。
「もっと、素晴らしかった」
私の心臓が、大きく跳ねた。
「私は口下手で、不器用で、社交辞令も言えない男です。貴女に相応しい言葉を持っていない」
悠真が一歩、私に近づいた。
「でも、行動で示すことはできます。貴女を守ること。貴女の夢を支えること。貴女と共に、この国の農業を変えること」
夕日が沈みかけていた。空が茜色から紫へと変わっていく。
「凛様。私と——」
「はい」
私は悠真の言葉を遮った。
「え?」
「はい、と申しましたわ」
悠真が目を丸くしている。私は微笑んだ。
「まだ何も言っていないのですが」
「五年間、道具として扱われてきましたの。私の言葉に耳を傾けてくれる人、私の価値を認めてくれる人。……ずっと、待っておりましたわ」
私は悠真の手を取った。土に馴染んだ、温かい手だった。
「言葉が下手でも構いません。行動で示してくださるのでしょう?」
悠真の顔が、見る間に赤くなった。この堅物の農政官が、こんな顔をするとは。
「……はい」
「では、これからもよろしくお願いいたしますわね」
夕日が最後の光を投げかける。黄金色の畦道で、私たちは向かい合って立っていた。
終わりの場所だった畦道。裏切りを目撃した畦道。
今、ここで。新しい道が始まろうとしている。
「凛様」
「何でしょう」
「私は、貴女を幸せにします」
悠真の声は静かだったが、そこには揺るぎない決意があった。
「存じておりますわ」
私は微笑んだ。今度は、心からの笑みを。
遠くで、蓮司が後悔の涙を流しているかもしれない。雫が計画の破綻に歯噛みしているかもしれない。
でも、そんなことはもう関係ない。
私の心は、すでに遥か先の未来を見つめていた。
悠真と共に歩む、新しい道の先を。
——後日談——
柊木家の農業改革は大成功を収め、一年を待たずして王国中に広まった。没落寸前だった伯爵家は、今や農政の要として王家から重用されている。
桐生家は花宮家の借金に押しつぶされ、商業の地位を大きく落とした。蓮司と雫の仲は冷え切り、社交界では「身から出た錆」と囁かれているという。
私は農政顧問として、そして悠真の隣で、新しい人生を歩んでいる。
『知識は誰にも奪えない財産だよ』
お祖母様。あなたの言葉は、本当でしたわ。
私は自分の価値を、自分で証明しました。
そして、その価値を認めてくれる人と出会えました。
——だから、もう大丈夫です。
畦道に立ち、夕日を見上げる。隣には悠真がいる。
これが私の、新しい始まりの場所。
——了——




