第10話 暁
走っていた。
夜明けの空が東の端から白み始めている。まだ星が残っていた。だが闇の質が変わっている。空が薄くなり、樹海の輪郭が夜の底から浮かび上がろうとしている。冷たい空気が肺に入り、吐く息が白い。冬が近い。
足が地面を蹴った。草を踏み、土を蹴り、石を避けた。丘を駆け降りている。ラステンへ向かって。
考えたのではなかった。
寝台の上で夜明けを待っていた。ゲルダの寝息が聞こえていた。暖房のオレンジ色の光が白み始めた空に溶けていくのを見ていた。そして——立ち上がった。荷袋を掴んだ。戸を開けた。走り出した。その間に思考はなかった。足が先に動いた。あの日、子供たちに棒を持たせたときと同じだ。老人の薪を割ったときと同じだ。身体が先に答えを出していた。頭はまだ追いつかない。だが足は止まらなかった。
ラステンの家々が近づいてくる。まだ灯りは消えている。夜明け前の、最も暗く最も静かな時間。犬が一匹、道の端で頭を上げた。おれの足音に耳を立てて——吠えなかった。尾を一つ振った。いつもと同じだ。だがいつもと同じではなかった。おれが走っている。それだけで、今朝は昨日と違う朝だった。
集会所を通り過ぎた。窓は閉じている。中に椅子がある。石板がある。算術の問題がある。——それを守る。
言葉にしたのは、そのときが初めてだった。走りながら、喉の奥で。声にはならなかった。だが確かに、おれの中で何かが固まった。足りない信仰で、それでも選ぶ。昨夜、草の上に座って辿り着いたあの静寂の先に、おれの足が今、着地している。
レンネの家が見えた。
集会所の裏手にある小さな平屋だ。木戸に粉筆の白い跡がついている。子供たちが落書きしたのを消した痕だ。窓は閉じている。灯りはない。まだ眠っている。
戸を叩いた。
三度。拳の底で。静かに、だが強く。
中から物音がした。衣擦れ。板床を踏む足音。戸の向こうにレンネの気配があった。
「……誰?」
眠りから覚めたばかりの、掠れた声だった。
「おれだ。旅の——」
言いかけて、止めた。もう旅人と名乗る意味はなかった。
「開けてくれ。頼む」
戸が開いた。
レンネが立っていた。寝巻きの上に上衣を引っかけている。髪が乱れていた。目が——暗がりの中でも、おれの顔を捉えていた。何かがおかしいと、この女はもう気づいている。教師の勘だ。子供の異変を見逃さない人間の、あの目。
「逃げろ」
おれの声は思ったより低かった。
「全員。今すぐだ。灯りを隠せ。壊せ。持ち出せるものだけ持って、集落を出ろ」
レンネの顔から色が引いた。
夜明け前の薄い光の中で、それがはっきりと見えた。頬の血の気が失せていく。唇が白くなる。だが目だけが——目だけは、おれを見据えたまま動かなかった。
「あなた——」
声が震えていた。だが問いの形を保っていた。
「騎士なの」
「そうだ」
「この集落に——来たのは」
「処理のためだ」
処理。その言葉がレンネに届いたとき、彼女の目の奥で何かが繋がるのが見えた。都から来た人間。灯りのことを聞く。メモを取る。——都の人が気にするもの。知っていますよ。レンネは知っていたのだ。灯りが危ういものであることを。だがその先に何があるのかまでは、知らなかった。処理。その一語が、彼女の知識の空白を一息に埋めた。
レンネの両手が、胸の前で握りしめられた。寝巻きの袖を掴んでいる。指の節が白い。
「なぜ——教えてくれるの」
おれはレンネの目を見た。覚悟を決めた人間の目。あの日遺物の灯りを見せてくれたときと同じ、水面のような静けさ。だが今、その水面の下に恐怖があった。
「おれにはできない」
声が途切れた。喉が詰まった。息を吸った。冷たい空気が肺を満たした。
「おれが来た目的を」
レンネが唇を噛んだ。一瞬、長い一瞬、おれたちは戸口で向き合っていた。夜明けの空が白くなっていく。鳥が一羽、遠くで鳴いた。ラステンの最初の朝の音だった。
レンネが動いた。
振り返り、部屋の奥に戻り、何かを掴んで出てきた。上衣の前を留め、髪を結び、靴を履く。その動きに迷いはなかった。教師だ。子供が怪我をしたとき、教室で喧嘩が起きたとき、一番最初に動く人間。レンネはそのようにできている。
「何時間ある?」
「わからない。班の集合はまだだ。だが——長くはない」
「わかった」
レンネが走り出した。最初の家に向かって。戸を叩く音がした。レンネの声が夜明けの空気を切った。
「起きて。荷物をまとめて。今すぐ。説明は後。今すぐ」
声が大きかった。子供たちの前で聞いた柔らかな声ではない。集落の全員に届くように張った、教師の声。統率する声。何年もこの集落で子供たちをまとめ、親たちと話し、夜学を開いてきた人間の声。その信頼が今、人を動かしている。
戸が開く音。問いかける声。レンネが答える。短く、正確に。「危ない。逃げる。今すぐ」。
次の家。また次の家。レンネは走った。おれもその後を追った。戸を叩き、声をかけ、人を起こした。
ラステンが目を覚ましていく。
混乱があった。当然だ。だがレンネが指示を出すと、人々は動いた。家族ごとに荷をまとめろ。灯りは隠せ。持てるものだけ。北の樹海に向かえ。散開しろ。一箇所に固まるな。
子供を抱えた母親が家を出る。老人が杖をつきながら戸口に立つ。男たちが食料を袋に詰めている。遺物の灯りを布で包み、荷の底に押し込む者がいた。壊せ、とおれは言った。だが彼らにとって、それは祖母の祖母の代から受け継いだ温もりだった。壊せるはずがない。布で包んで、持ち出す。——それがこの人たちの答えだった。
子供たちが出てきた。
眠そうな目をこすりながら、親に手を引かれて。あの女の子——ミーネがいた。おれの目と合った。膝の泥はもう乾いていて、昨日までの棒を握ってはいなかった。代わりに小さな布袋を胸に抱えていた。
「おじさん——旅の人」
おれは何も言えなかった。ミーネの母親がその手を引いて、北へ向かう人々の列に加わった。ミーネが振り返った。おれを見て、何か言おうとして、やめて——前を向いた。
そのとき、背後で足音が聞こえた。
ラステンの住人のものではなかった。速く、重く、規則正しい。訓練された人間の走り方だった。おれにはすぐにわかった。同じ訓練を受けた身体が、その足音の意味を知っていた。
「何をしている、エルト」
ヨルンだった。
集落の南側の道に立っていた。丘の野営地から駆け降りてきたのだろう。息が上がっている。だが目は冷静だった。冷静で——鋭かった。視線がおれを貫き、その向こうの、荷をまとめて散っていく人々を捉えていた。
ヨルンの右手が、腰の剣の柄にかかっていた。
「答えろ。何をしている」
おれはヨルンに向き直った。
数日前の自分がそこにいた。命令に忠実で、教義を疑わず、百二十人と数千人を天秤にかけて重いほうを選べる人間。大神官様はおれたちより遠くを見ておられる。ヨルンはそう言った。おれもかつてそう信じていた。
「退け、エルト」
ヨルンの声が低くなった。剣の柄を握る手に力が入っている。
「おまえの任務だろう。処理だ。この集落の処理が、おれたちの任務だ」
おれはヨルンの前に立った。道の真ん中に。ヨルンと避難する人々のあいだに。
「おれの任務は、もう終わった」
声は震えなかった。自分でも意外だった。昨夜まであれほど揺れていたものが、今朝は静かだった。決断とはそういうものなのかもしれない。揺れて、揺れて、揺れ尽くした先で——止まる。
「退け」
ヨルンがもう一度言った。
「退かない」
「おまえは反逆するのか。聖騎士団の騎士が、処理命令に逆らうのか」
「ああ」
その一語がおれの口から出たとき、世界が少し変わった気がした。何かが決定的に、取り返しのつかないほうへ動いた。だが不思議と、恐れはなかった。恐れる余裕がなかったのかもしれない。足が動いている。身体が先に選んでいる。頭は——もう追いつかなくていい。
ヨルンの目が揺れた。
怒りではなかった。困惑だった。訓練で想定されていない事態が、ヨルンの前に立ちはだかっていた。敵と戦う訓練は受けた。禁忌に触れた民間人を処理する訓練も受けた。だが——同僚が道の真ん中に立ち、退くなと言った場合の訓練は、受けていない。
ヨルンの手が剣の柄を握った。そして——引いた。
鋼が鞘を擦る音が朝の空気を裂いた。半ばまで。刃が朝日を弾いて白く光った。
おれの身体が動いた。腰を落とし、両手を前に出した。剣はない。素手だった。だが足は肩幅に開き、背筋は伸びていた。——子供たちに教えた型と同じだった。構えの基本。聖騎士の訓練で最初に叩き込まれる、あの型。
ヨルンの目が揺れた。半ば抜かれた剣がそこで止まった。
「エルト——おまえは何をわかって——」
「全部わかっている」
嘘だった。全部などわかっていない。だがヨルンに伝えるべきことは一つだけだった。
「おれはここを退かない」
膠着した。ヨルンの剣は半ばまで抜かれたまま、鞘に戻ることも、振り下ろされることもなかった。同僚を斬る訓練は受けていない。素手で立つ同僚に鋼の刃を向ける手順は、どの教本にも書かれていない。
夜明けの光がじりじりと強くなっていく。東の空が橙色に染まり始めていた。ヨルンとおれは道の上で向き合い、動かなかった。背後で人々の足音が聞こえていた。レンネの声が遠くで指示を出している。家族ごとに北へ。散開して。固まるな。
ヨルンの呼吸が荒い。おれの呼吸も荒かった。だが足は動かなかった。
足音が聞こえた。
今度は一人分。重く、安定した歩調。走っていない。歩いている。この足音を、おれは知っていた。野営で飯を作るとき、行軍で先頭を歩くとき、石塀に腰を下ろすとき——いつも同じ重さで地面を踏む男の足音。
ドルクが来た。
道の角を曲がって現れた。大柄な体が朝の光の中に立った。表情は——変わらなかった。走っている人々を見た。荷をまとめて北へ向かう家族を見た。道の真ん中で向き合うおれとヨルンを見た。表情は変わらなかった。
ドルクの視線がおれに止まった。
「選んだか」
短かった。いつもの、乾いた二語。
「ああ」
「——よし」
その一語が落ちたとき、ドルクの目の奥で何かが動いた。表情は変わらない。口元も変わらない。だが目だけが——おれには見えた。七年間。四百人。あの子供の目。ドルクが背負ってきた全てが、「よし」の一語の裏側に畳まれていた。
ドルクがヨルンに向き直った。
「下がれ、ヨルン」
ヨルンの目が見開かれた。
「班長——」
「班長命令だ。下がれ」
ドルクの声は低く、平坦で、動かなかった。静かになるほど本気だと、おれは知っている。そしてヨルンも知っているはずだった。処理班で何年も一緒に任務を遂行してきた部下なのだから。
ヨルンの手が、剣の柄から離れた。
ゆっくりと。指が一本ずつ、柄の革巻きから剥がれるように。命令に逆らう訓練は——ヨルンも受けていない。班長命令。それは処理班において絶対だった。少なくとも、今この瞬間においては。
ヨルンが一歩退いた。
だがその目は——おれを見ていた。怒りではなかった。裏切られた人間の困惑があった。昨夜、焚き火の前でおれに語った確信が崩れていく音を、ヨルンは自分の中で聞いているのだろう。百二十人と数千人、どちらが多い。大神官様はおれたちより遠くを見ておられる。——あの言葉の全てが、今、おれの背中によって踏みにじられている。ヨルンにとっては、そう見えたはずだ。
おれはヨルンの目を見返した。何も言えなかった。正しいのはヨルンのほうかもしれない。だが——おれの足は、この道の上から動かない。
ヨルンは背を向けた。丘のほうへ歩き始めた。その背中は強張っていた。拳が握られていた。だが剣は抜かなかった。
ドルクがおれの横に並んだ。
「行け。手伝え」
「ああ」
おれは走った。避難する人々のあいだを縫って。
集落の東端で、男たちが遺物の灯りを荷車に積んでいた。大きなものは運べない。小さな灯りだけ。暖房の石はさらに重い。二人がかりで持ち上げようとして、諦めて、布をかぶせた。隠すだけだ。見つかれば無駄になる。だが——置いていくことができなかった。
レンネが道の真ん中で指示を出していた。声は張っているが、落ち着いていた。「北の道を三つに分かれて。家族ごとに。バラバラに行くの。集まらないで」。この人は教室で何年も子供たちをまとめてきた。その手腕が、今、百二十人の命を動かしている。
人の流れが細くなっていく。家が空になっていく。窓の灯りが消えていく——いや、灯りはもう消えていた。持ち出されたか、隠されたか。昨夜までラステンの窓に点っていた蜂蜜色の光が、一つずつ失われていく。
そのとき——おれは胸に手を当てた。
荷袋の中に紋章がある。昨夜、右手に紋章、左手に遺物の欠片を持ったまま眠った。右手を先に開いた。左手はそのまま残った。あれが決断だったのかどうか、まだわからない。だが今、おれはその決断の上に立っている。
荷袋を開けた。
紋章を取り出した。
掌の上に乗せた。金属の冷たさ。剣と盾が交差した白い紋様。正騎士に昇格したあの日、鏡の前で留めた紋章。回廊を歩くたびに胸の上で揺れた紋章。十二年間のおれの全てが、この小さな金属の板に刻まれている。
裏側の留め具に触れた。ピンと留め金。おれの指がそれを知っている。毎朝留めて、毎晩外した。三千回以上。指が形を覚えている。
留め具を開いた。
紋章が掌の上で自由になった。もう何にも留められていない。上衣にも、おれの胸にも。ただの金属の板になった。
膝をついた。
道の真ん中で。ヨルンと対峙した場所から少しだけ南。朝の光が差し始めた土の上に。
紋章を置いた。
指を開いて、地面の上に。丁寧に。投げるのではなく、置いた。剣と盾の紋様が朝日を受けて、薄い金色に光った。
手を離した。
指先から紋章の冷たさが消えていく。代わりに、土の温度が残った。冷たい土。夜明けの、まだ陽が温めていない地面。
立ち上がった。
白い上衣の胸に、紋章の跡だけが残っていた。布が長く押さえつけられて、その部分だけわずかに色が薄い。四角い影。そこにあったものの不在が、形を残していた。
おれはその不在を見下ろした。
十二年間のおれが、地面の上に置かれている。そしておれの胸には、何もない。聖騎士でも旅人でもない。紋章を自分の手で外した男。それだけが、今のおれだった。
除名の儀式を待つ必要はなかった。あれは制度が与え、制度が奪う形式だ。おれの選択は制度の手順の中にはない。おれの手で外し、おれの意志で置く。それが——おれの答えだった。
去った薬師でもなく、耐えた騎士でもなく、嘘をついた男でもない。四番目の道。名前はまだない。だがおれの足が、この道の上に立っている。
足音が聞こえた。
規則正しく、硬い。ヨルンのものでもドルクのものでもない。もっと軽く、もっと精密な足取り。監察官の靴音だった。
ハルスが現れた。
集落の南の道から、まっすぐに歩いてきた。整った身なりは崩れていない。外套の前を留め、メモ帳を左手に持っている。いつもと同じだ。だがその目は——空になりつつある集落を、一軒ずつ確認するように走査していた。開け放たれた戸口。散乱した生活の痕跡。人の気配が急速に失われていく家々。
ハルスの視線が地面に落ちた。
紋章の上で止まった。
それから、おれの胸に上がった。紋章のあった場所。四角い不在。
ハルスの表情は変わらなかった。穏やかで、知的で、敵意のない顔。だがその目の奥で、何かが記録されていた。この男はいま、報告書の一行を頭の中に書いている。
「これは反逆です」
声は穏やかだった。事実を述べているだけだった。規定が定義する言葉を、正確に発音しただけだった。
「ああ」
おれの返事も短かった。
ハルスは剣に手をかけなかった。監察官は処刑人ではない。処理の執行命令は正規の手順で発令され、班長の指揮のもとで実施される。個別の反逆者を現場で処分する権限は、監察官にはない。
制度の官僚制が、皮肉にも猶予を生んでいた。反逆の記録、報告、審議、判決——その全ての過程が時間を要する。その時間が、ラステンの人々が北へ逃れるための隙間になっている。
ハルスはメモ帳を開いた。筆を取り、何かを書き始めた。几帳面な筆跡。行間の均等さ。書き損じのなさ。行軍のあいだ食事の席でメモを取っていたのと同じ手つきだ。あのとき、おれは監察官の習慣として眺めていた。今、その習慣がおれたちの反逆を正確に記録している。
人の流れが細くなっていく。北への道に、最後の家族が消えていく。振り返り、自分の家を見て、また前を向いて歩いていく。
そのとき、レンネが走ってきた。
顔に汗が浮いている。息が荒い。ここまで集落じゅうを駆け回っていたのだ。
「ゲルダさんが出てこない」
おれの胸が冷えた。
ゲルダの家。おれが泊まっていた宿。遺物の暖房がオレンジ色に光る部屋。毎朝粟の粥を作ってくれた老婆。——おれは走り出した。
ゲルダの家の戸は閉じていた。叩いた。返事がない。押した。鍵はかかっていない。戸が開くと、暖房のオレンジ色の光が出迎えた。まだ点いている。まだ温かい。
ゲルダは椅子に座っていた。
いつもの場所だ。暖房のそばの、木の椅子。背もたれに身体を預けて、両手を膝の上に置いている。関節の腫れた手。おれが何度も見た手だ。井戸の縄を引けなかった手。息子がやってくれた、と言った声。
「ゲルダさん。出ましょう。みんなもう出ています」
おれの声は震えなかった。だが急いでいた。時間がない。
ゲルダがゆっくりと顔を上げた。
皺の深い顔。小さな目がおれを見た。その目は——穏やかだった。恐怖がなかった。混乱もなかった。ただ、とても静かな目だった。
「わしはここで生まれた」
声は枯れていたが、確かだった。
「ここで死ぬよ」
おれの息が詰まった。
「ゲルダさん——」
「あんたは良い子だった。水を汲んでくれた。旅の人にしちゃ、よく働いた」
ゲルダが微かに笑った。皺が深くなった。
「でもわしは動けないよ。この足じゃ、樹海の道は歩けない。みんなの足手まといになる」
「足手まといなんかじゃない。おれが——」
「いいんだよ」
ゲルダの声は柔らかかった。子供をなだめるような声だった。この声で息子を育てたのだろう。この声で、水甕を運ぶ背中を押したのだろう。
レンネが戸口に立っていた。
「ゲルダさん。お願い。一緒に」
「レンネ。あんたはあの子たちを連れて行きな。わしのことはいいから」
レンネの目が潤んだ。だが涙は落ちなかった。教師の顔が保たれていた。まだ外に人が残っている。泣いている場合ではない。
おれはゲルダの前に膝をついた。
椅子に座った小さな老婆と、目の高さが同じになった。ゲルダの手が膝の上にある。暖房のオレンジ色の光に照らされて、腫れた関節が浮かび上がっている。あの手だ。おれがこの集落に来た最初の日から、遺物の暖房にかざされていた手。
その手を取った。
両手で包んだ。温かかった。遺物の暖房がずっと温め続けてきた手。骨ばって、節くれだって、皺だらけの手。だが温かかった。
「お願いします」
声が出た。掠れていた。
「あなたの手が——冷えないところへ」
ゲルダの目が、おれを見た。
長い沈黙があった。暖房のオレンジ色の光が二人の手を照らしていた。外から人々の足音が遠ざかっていく。時間がない。だがおれはゲルダの手を離せなかった。この手が冷える場所へ、この人を残していくことができなかった。
ゲルダの指が、おれの手の中で動いた。握り返してきた。弱い力だった。だが確かに、握り返した。
「……あんたに似た子がいたよ」
かすれた声だった。
「息子もそうだった。頑固で。言い出したら聞かなくて」
ゲルダが椅子の肘掛けに手をかけた。おれの手が支えた。ゆっくりと、ゲルダが立ち上がった。
立ったまま、ゲルダは暖房のほうを見た。
オレンジ色の石。ゲルダの祖母の祖母の代からここにあった暖房。毎冬、この部屋を温めてきた遺物。指の痛みを和らげてきた温もり。
ゲルダが暖房に手を伸ばした。石の表面に触れた。目を閉じた。
何を思っているのか、おれにはわからなかった。だがその横顔には——長い歳月が刻まれていた。この家で生まれ、この家で子を育て、この暖房のそばで冬を越してきた全ての年月が。
手を離した。
目を開けた。
「行くよ」
短い二文字だった。だがその二文字に、ゲルダが手放すもの全てが詰まっていた。
おれはゲルダの腕を支えた。レンネが反対側から手を添えた。三人でゲルダの家を出た。
外は明るくなっていた。
朝日が丘の稜線を越えて、ラステンに差し込んでいた。空が淡い金色に染まっている。暁の光だった。——だがその光が照らしているのは、空になった集落だった。戸が開いたまま。窓に灯りはない。道に人影はない。ラステンが、殻になっていく。
ハルスが道に立っていた。
ゲルダを支えるおれとレンネを見て、それからメモ帳に目を落とした。筆が紙の上を走った。
「これで集落が助かるわけではありません」
穏やかな声だった。淡々と、事実を述べている。
「別の班が来ます。あなたたちは裁かれます」
おれはハルスを見た。正しいことを言っている。聖騎士団の手は長い。別の班が来る。おれたちは裁かれる。何も解決していない。
ドルクが横に立った。
「そうだ」
短かった。事実への肯定。何一つ言い訳のない、乾いた一語。
おれはゲルダの腕を支えたまま、口を開いた。
「だが今夜と、明日と、その先がある」
声が出た。掠れていたが、出た。
「一時間前よりは」
一時間前、ラステンの百二十人は処理を待つだけだった。今は——走っている。北の樹海に向かって。子供たちの手を引いて。灯りを布で包んで。明日がある。明後日がある。少なくとも、今のこの瞬間には。
ハルスがおれを見た。
穏やかな目だった。敵意はない。軽蔑もない。ただ——理解できないものを見る目があった。規定の外にあるものを見る、監察官の目。
ハルスは何も言わなかった。メモ帳に視線を戻し、筆を走らせた。正確に。几帳面に。書き損じなく。
ゲルダをレンネに預けた。レンネがゲルダの腕を支え、北への道に向かう。最後の二人だった。ゲルダの歩みは遅い。だがレンネが支えている。レンネの足は速くはないが、確かだった。
おれは二人の背中を見送った。
ゲルダが一度だけ振り返った。自分の家を見た。戸が開いたまま。中に暖房のオレンジ色の光がまだ灯っている。ゲルダはそれを見て——もう振り返らなかった。
北の道に消えていった。
ラステンが空になった。
朝日が集落を照らしている。暁の光。金色の空。だが窓に灯りはなく、道に人はなく、犬すらいなかった。あの犬も、誰かが連れて行ったのだろう。吠えない犬。尾を振って、当然のようにおれを受け入れた犬。
風が吹いた。樹海から来る朝の風。秋の終わりの、湿った温もりを含んだ風だった。開け放たれた家の戸がきしんだ。それだけの音が、空の集落に響いていた。
おれはそこに立っていた。
紋章のない胸で。空っぽの集落の真ん中で。
ドルクが隣に来た。何も言わなかった。ただ立っていた。おれと並んで、空になったラステンを見ていた。
ハルスが少し離れた場所に立っていた。メモ帳を閉じ、懐にしまった。その目は——北の道を見ていた。避難する人々が最後に消えていった方角を。
暁の光がラステンを満たしていた。人のいない集落が、朝日に照らされて、ただ静かに在った。
おれは足元を見た。地面に紋章が置かれていた。剣と盾の紋様が、朝の光を受けて鈍く光っている。土の上に。おれが置いた場所に。
もう拾い上げることはない。
ポケットに手を入れた。遺物の欠片に触れた。滑らかな金属。角がなく、掌に馴染む感触。光らない。ただの古い金属の破片。だが——そこにあった。
おれの手の中に、紋章の代わりに、それがあった。
東の空が白く、金色に、燃えるように明るくなっていた。暁が終わり、朝が来る。ラステンの最初の朝——人のいない最初の朝。だが遠く、北の樹海の向こうで、百二十人が歩いている。灯りを布に包んで、抱えて、歩いている。
その足音がここまで届くはずはない。だがおれの耳の奥に——聞こえた気がした。生きている音。今日と、明日と、その先に向かう足音。
おれは空を見上げた。星はもう見えない。夜は終わった。
何も終わっていない。ハルスの言う通りだ。別の班が来る。おれたちは裁かれる。おれがやったことは、ただ一つの朝を作っただけだ。百二十人が目を覚まして、生きている朝を。
それで十分かどうかは、わからない。
だが——足りない信仰で、おれは選んだ。おれの手で。おれの足で。
それだけが確かだった。




