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白い剣は折れない  作者: 蒼月よる


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第1話 白い行列

 紋章を外した。


 指先が留め具を押し、白い紋様が胸から離れる。剣と盾の交差。朝も夜もおれの心臓の上にあったそれを、地面に置いた。丁寧に。投げるのではなく、置いた。

 冷たい土の上で、紋章は光を失った金属片になった。

 ——だが、それはまだ先のことだ。


 鐘が鳴った。


 低く、長く、白い石の回廊に染みこむような音だった。夜明けの鐘。おれたちの一日は、いつもこの音から始まる。

 寝台から足を下ろす。石の床が冷たい。冬が近い。息は白くならないが、素足の裏から這い上がってくる冷気が、眠気を剥がすように身体の芯まで届いた。

 白い上衣に袖を通し、胸の紋章を留める。剣と盾が交差した白い紋様。正騎士に昇格して半年、この紋章の重みにはまだ慣れない。慣れてはいけない、とも思う。


 回廊を歩く。

 白い石の壁が、左右に真っ直ぐ伸びている。天井は高く、等間隔に魔石灯が据えられていて、淡い光が回廊を満たしていた。夜明け前の薄暗さの中で、その光だけが確かなものとして足元を照らす。

 靴底が石を叩く音が規則正しく響く。前を歩く騎士の背中。後ろに続く騎士の足音。白い上衣が列をなして、回廊の奥へと流れていく。

 白い行列。

 毎朝、おれたちはこうして礼拝堂へ向かう。誰も口を利かない。鐘の余韻が消えるまでは言葉を発さない——それが聖騎士団の作法だった。


 礼拝堂の扉が開く。

 中は広く、天井が弓なりに高い。正面の祭壇の上に、大きな魔石灯が一つ据えられている。常石よりさらに大きな、拳二つ分ほどの魔石。その光は白く、清冽で、朝の空気をなお冷たくするような色をしていた。

 おれたちは列のまま進み、長椅子の前で立ち止まり、一斉に膝をつく。

 祈りの言葉が始まる。

 導師が唱え、おれたちが復唱する。声が重なり、石の天井に吸い込まれ、反響して降りてくる。幾層にも折り返される声の波が、礼拝堂の空間を満たしていく。

 ——おれはこの時間が好きだった。

 百を超える声が一つになる。剣を握る手を組み、額を伏せ、ただ祈る。自分がどこから来たかも、何を恐れているかも、朝の祈りの中では消えていく。残るのは声だけだ。声と、白い光と、冷えた石の匂い。それだけでよかった。それだけで、おれは騎士だった。

 目を開ける。

 祭壇の魔石灯が視界に入った。白い光。清らかで、揺るぎない。——だがふと、その光がかすかに脈打ったように見えた。

 一瞬だった。

 呼吸のように、あるいは心臓の鼓動のように、光の強さがわずかに揺れた。明滅ではない。もっと緩やかな、生き物の呼吸に似た律動。

 目を凝らす。光は変わらず白く、静かに灯っている。揺れの痕跡はない。

 ——気のせいか。

 そう思った。思うことにした。魔石灯は燃料が減れば揺れることもある。それだけのことだ。

 だが祈りの残響が胸の底に沈んでいくのと一緒に、あの脈動の感触だけが、妙に鮮明に残った。


 祈りが終われば、訓練だ。

 中庭に出る。石畳の広場。朝日がようやく壁の上から差し込んで、白い石に淡い金色を載せている。

 木剣を取る。素振り。百回。二百回。

 隣の訓練生が「うぇ」と声を漏らす。おれの同期はもう卒業したが、次の世代がまだ朝の素振りに苦しんでいる。気持ちはわかる。おれも五年前は同じ顔をしていた。

 素振りを終え、組み手に入る。相手はギルス。おれより一期上の正騎士で、体格が一回り大きい。

「おはよう、エルト。今日も真面目だな」

「おはようございます。真面目にやらないと、ギルスさんに潰されますから」

「潰しはしねぇよ。ちょっと転がすだけだ」

 ギルスが笑って木剣を構えた。

 三合目で転がされた。受けは悪くなかったが、ギルスの体重を木剣の背に乗せられると、膝が保たない。石畳に背をつけて空を見上げた。青い。雲がない。

「足だ、足。腕で受けるな。膝で受けろ」

「はい」

 立ち上がる。構え直す。六合目でまた転がされた。

「腕で受けてる」

「……はい」

 十合のうち八回転がされて、訓練が終わった。


 食堂に入ると、朝の喧噪がある。

 石造りの広い部屋に長机が並び、白い上衣の騎士たちが飯を食っている。匙が器を叩く音、低い話し声、椅子が引かれる音。大鍋から注がれるスープの湯気が、天窓から差す光の中を漂っていた。

 列に並び、木の器を受け取る。雑穀の粥と、干し肉の入ったスープ。パンが一切れ。毎朝同じだが、訓練の後では何でもうまい。

 席につく。スープを一口。温かい。塩気がちょうどいい。干し肉は硬いが、噛んでいると旨味が出る。

 ギルスが向かいに座った。

「エルト、聞いたか」

「何をですか」

「おまえ、処理班に配属だってよ」

 匙が止まった。

「……処理班」

「さっき教官が言ってた。午後に正式な通達があるらしい。おまえ、昇格試験の成績が良かっただろう。近接の評価も高い。それでだろうな」

 処理班。

 聖騎士団の任務の中で、最も重い任務を担う班。禁忌に触れた者を追い、裁きを執行する。処理——その名が示すものの意味を、おれは訓練の中で幾度も教わっていた。神罰を未然に防ぐための、神聖国家の正義。禁忌を放置すれば、やがて神の怒りが降り、数千の命が失われる。その前に、百を絶つ。百を絶つことで、千を救う。

 正しいことだ。

 正しいことだと、教わってきた。

「……誰の班ですか」

「ドルク班長だそうだ」

 ドルク。名前は知っている。

 寡黙で冷徹。任務完遂率がずば抜けて高い。処理班の中でも別格と聞く。十五年以上、処理の最前線にいるベテラン。食堂で見かけたことは何度かあるが、話したことはない。大柄な男で、表情というものがほとんどない顔をしていた。

「厳しいぞ、あの班は。ドルク班長は任務中に無駄口を叩かん。飯の時間以外はほとんど喋らないって話だ」

「知っています」

「あと——処理班の中でも、ドルク班の完遂率は抜きん出てる。十五年以上、一度も失敗がない。任務で仲間を失ったこともないと聞く」

 ギルスの声が少し低くなった。

「つまり、うまいんだよ。何もかも。だからこそ、あの班に回されるのは——まあ、認められたってことだ」

「……ありがとうございます」

「礼を言うところじゃねぇだろ。——まあ、おまえなら大丈夫だろ」

 ギルスが粥を掻き込みながら言った。気遣いなのか本心なのか、わからなかった。

 おれはスープの残りを飲み干した。器の底に干し肉のかけらが一つ残っていて、匙で掬い上げて口に入れた。温かさが喉を過ぎ、胸に落ちていった。

 食堂の喧噪の中に、おれは少しだけ耳を澄ませた。隣の卓で笑い声が上がっている。誰かがパンを千切って投げ、受け損ねた騎士が文句を言っている。この食堂の空気が好きだった。祈りの厳粛さとも訓練の緊張とも違う、ただの人間の時間。飯を食い、くだらないことを言い合い、明日の任務の話をする。

 ——明日から、おれの席はこの食堂ではなく、処理班の詰め所になるのだろうか。

 そんなことを考えながら、パンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。


 午後。

 教官室に呼ばれた。

 石の部屋。机の向こうに教官が座り、書類を広げている。おれは姿勢を正して立つ。

「エルト。本日付で処理第三班に配属を命ずる。班長はドルク。明日より第三班の詰め所に出頭し、班長の指示に従え」

「了解しました」

 声が震えなかったことに、少し安堵した。

「処理班への配属、謹んでお受けします」

 教官がおれを見た。年配の男だ。かつては自身も処理に携わっていたと聞く。その目に何が映っているのか、おれにはわからなかった。

「……エルト」

「はい」

「処理は、訓練とは違う」

 それだけ言って、教官は書類に視線を戻した。

 おれは敬礼し、部屋を出た。


 回廊を歩いた。

 朝と同じ、白い石の回廊。だが光は変わっていた。午後の日差しが窓から斜めに差し込み、壁に光の四角を描いている。魔石灯の白い光と、陽光の金色が混じり合って、回廊は朝よりもずっと明るかった。

 おれは歩きながら、自分の胸の内を確かめていた。

 誇り。

 それが最初に浮かんだ言葉だった。処理班への配属——それは聖騎士として、信仰を剣の形にする任務に就くということだ。訓練で学んだこと、祈りの中で誓ったこと、そのすべてを実行する場に立つということだ。

 ようやく、本当の騎士になれる。

 そう思った。おれは八つの年からこの白い石の中で育ち、剣を振り、祈り、教義を学んだ。十二年。十二年かけて、おれはここまで来た。この紋章にふさわしい騎士に。

 胸の紋章に指先が触れた。剣と盾の白い紋様。昇格の日、初めてこれを胸に留めたとき、手が震えた。指の腹にあの日の震えが残っている。だが今日は震えなかった。紋章の表面は滑らかで、冷たくて、午後の日差しに温められてもなお石の冷気を帯びていた。

 足取りが軽い。回廊の先に陽光が溜まっている。その明るさに向かって歩いていく自分の足音が、朝より少しだけ力強く聞こえた。


 角を曲がったところで、人とすれ違った。

 先輩の騎士だった。名前は知らない。おれより五つか六つ年上に見える男で、白い上衣を着て、紋章を胸につけている。おれと同じ——正騎士だ。

 おれは立ち止まって会釈した。

 男は歩き続けた。

 すれ違いざま、その顔がちらりと視界に入った。

 ——無表情だった。

 無表情というのは正確ではないかもしれない。表情がないのではなく、表情が抜け落ちている、と言うほうが近い。目は開いているが何も映していない。口元は閉じているが力が入っていない。白い回廊の光の中を歩いているのに、その顔だけが影の中にいるようだった。

 足音が遠ざかる。

 おれは振り返らなかった。振り返る理由がなかった。疲れているのだろう、と思った。長い任務の後なのかもしれない。処理班に配属されている騎士なら、疲弊することもあるだろう。

 ——おれもいずれ、ああなるのだろうか。

 その考えが浮かんで、すぐに打ち消した。馬鹿げている。あれはただの疲れだ。任務が終われば休めば戻る。おれは今日、処理班に配属された。誇りを抱いて、この回廊を歩いている。あの騎士の疲弊と、おれの誇りは、同じ場所にはない。

 そう思った。

 そう思って、歩き続けた。


 夕刻。

 おれは再び礼拝堂にいた。

 夕の祈りは朝ほど人が多くない。任務で不在の者も多く、長椅子にはまばらに騎士が座っているだけだ。おれは後方の席を選び、膝を折り、手を組んだ。

 祭壇の魔石灯が、白い光を灯している。

 朝と同じ光。揺るぎのない、清冽な白。

 おれは目を閉じた。

 ——神よ。おれは今日、処理班に配属されました。

 声には出さない。心の中で、祈りの言葉を紡ぐ。

 ——おれの剣が、あなたの正義に仕えることを許してください。禁忌に触れた者たちを——おれは裁きます。それが千の命を守ることだと信じます。おれの腕が、おれの信仰が、その重さに足りることを。

 祈りは長く続いた。

 言葉が尽きても、おれはしばらく目を閉じていた。胸の内に、朝から積もってきたものが静かに沈殿していくのを感じていた。誇り。緊張。わずかな不安。それらが混じり合い、一つの塊になって胸の底に落ちていく。

 目を開けた。

 魔石灯の光が、変わらずそこにあった。白く、静かに。

 ——おれは騎士だ。明日から、本当の騎士だ。

 立ち上がり、礼拝堂を出た。


 回廊は夕闇に沈みかけていた。

 窓の外が藍色に変わり、魔石灯の白い光だけが回廊を照らしている。朝とは逆だ。朝は闇から光へ向かって歩いた。今は光の中を歩いて、その先にある夜へ向かっている。

 白い石の壁。白い光。白い上衣。

 すべてが白い。この騎士団のすべてが。

 鐘が鳴った。夕の鐘。一日の終わりを告げる音だ。低く、長く、白い回廊に染みこんでいく。朝の鐘と同じ音なのに、夕闇を含んだ空気の中では、少しだけ重く聞こえた。

 おれは自室に向かって歩いた。明日はドルク班長のもとに出頭する。初めて顔を合わせる。初めての処理班。初めての——処理。

 足音が、回廊に響いた。

 白い行列はもうない。おれ一人の足音だけが、白い石の上を叩いて消えていく。


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