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スリーライティング・下 Three Lighting  作者: タイニ
第三十章 ふたりで

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87 私のかわいい天使



ある日のオフィス。


「尚香さ~ん。」

と、ちょっと色っぽい声で迫ってくるのは、ジノンシーの川田。

「わっ!川田さん!どうしたの?」


「ふふ、招待状です。」

「招待?」

椅子を回して川田の差し出してきた手紙を見た。そして、おお!となる。

「おめでとう!結婚するの?」

「ふふふ。披露宴とかはしないので食事会なんですけどね。」

嬉しそうだ。


「え?でも唐突だね。お付き合いしてた人いたんだ……」

と、言いながら手紙を出して……

「あれ?これって……」


興田……。珍しい漢字だがいなくもない。コウダではなく……

興田(おきた)さん?!」

「そうでっーす!」

「ええ??!!!」

意外過ぎて、この反応でいいのか。

「え?いつから??」


「最初はこそっとだったんですけど、あの、真理ちゃんちにみんな集まって旦那さんが来た時の後からかな………。その後数回会う機会があって、向こうから………」

「え!うそっ!!!」

「尚香さん、めちゃくちゃ赤いですよ。」

思わぬカップルで尚香が照れてしまう。

「だって!……あっ、だからか……」


あれだけ攻撃的だった興田が、尚香が二股と言われ、一番責めてよかったような時にいつも気まずそうにしていたのだ。以前の件の負い目だけかと思っていたが、ジノンシーの人間、しかも尚香の部下と縁ができてしまったからであった。


つまり、川田がジノンシーとイットシーの間で、仲を取り持ってくれていたのである。内部事情をあれこれ聴いて、お互いつなぎ役になってくれたのだ。

「………そういう事?」

「そういう事です。」


「………そっか、川田さんありがとうね……。」

だから尚香は、両方知る面々に擁護してもらえていたのだ。

「それに、婚活は一つ一つ待ってちゃダメだ、就活と同じだ!って勢い付けたのは私と柚ちゃんですしね。」

川田も責任を感じ、興田に諸処の事情を説明していた。久保木もイットシーで尚香の面目をつぶすような騒ぎが起こっていたと知り、自分のせいだと身内には噂を控えるようお願いしていた。

柚木も申し訳ない顔で横から見ているので、笑ってあげる。


「………」

そして、涙ぐんでしまう尚香。

「ちょっとっ、そんなにつらかったんですか?!」

「……違う……。川田さんありがとう……。それにおめでとうね。興田さんからはもう悪い印象を回復できないと思ってたから、興田さんにもありがとうって思って……」

「何言ってるんですか。それは興田が悪いので、尚香さんが気に病むことではありません!」

「……うん……でも、ありがとう。」


軽く川田に抱かれる尚香。

会社ではキレイ目地味川田だが、家ではロックテイストで少しファンキースイートなお姉さま系。興田は、功や伊那に紛れてまじめな系統に見えるが、音楽畑の人。あの魅力に勝てなかったのであろう。




***




「長かった……」

「何言ってんだ。お前まだ22だろ。」


そう言われながら、ボクシングジムのみんなと酌を交わすのは功と大和である。

そしてなぜか今や一緒にジムに通っている大地。相変わらず暗い。大地は大和か兄功のいる日なら一緒に参加するようになったのである。


披露宴には来なかったが、功の袴姿を見て荻は嬉しそうだ。

「まさか、あのちびっこが結婚なんてな~!」

少し涙目なので、功はギョッとしてしまう。

「荻さん、血も涙もない人だと思ってたのに……」

「なに言ってんだ。お前が曲がることなく成長して、どれだけ安心したと思うんだ!」


「荻さんはいつ足を洗ったんですか?」

大和は純粋に聞いてしまう。

「だからなんで俺が、闇の人間みたいになってるんだ?最初から昼間の太陽だよっ。」


「……てか本当にお姉さんと結婚したんだな……」

受付のお兄さんがスマホを見て落ち込んでいる。

「新婚生活楽しい?」

「楽しい。」

「どのくらい?」

「めっちゃ楽しい。」

「え?どんな風に?」

「……尚香さんって、もっとガミガミ怒るタイプだと思ってたけど、思ったよりも優しい……」

「そうなんか?」

「……それが物足りない………」

と、目を反らしてうれしそうに笑っている。


「…………」

こいつムカつくという顔で見てしまう、大和とお兄さんであった。




***






それはいつか。



ロンドンの片隅で、骨と皮の寝たきりになってしまったあの人。





彼女はかつて、大きなホールで歌を歌い、演じ、多くの喝さいを浴びる人であった。


けれどそれは彼女だけのものではなく、彼女はいつもその隅っこ。生まれた時から舞台袖を知っている彼女は、いつか自分はプリマドンナになれると信じてきた。



なぜって、その母が言っていたのだ。泣きそうな顔で、必死に。


「いい、リズ。あなたは父親の分からない子なんかじゃない!」

「…………」

「あなたの父親は間違いなくアーティーだから!!」


彼はこの劇場の花形俳優だった。


母親は思い出す。この世界にいて何度も男性に手を出されそうになってきた。自分には逆らえない、権威ある監督や支配人たちにも。でも、どうにか切り抜けてきたのだ。関係を持ったのはアーティーこそアーサーだけだ。


だけど子供も、こんな世界では何を信じていいのか分からない。


なぜって母親はあちこちで男に媚びて端役を掴んできたと、みんな言っていたからだ。そして、アーサーは母をキチガイ扱いしてその子を我が子と認めなかった。誰の子か分からないと。



でも、それでもリズは信じていた。

自分はアーサーの子だから、自分は才能があるから、プリマドンナになれると。いつか父と母、二人の間で素敵な家に住むことができるのだと。


大きな劇場から見れば、そこは上から数えるよりは下から数えた方が早いくらいの劇場とも知らず。




けれど最高のスポットはいつも誰かのもので。



そのかわり30になる前に彼女が最後に掴んだものは、少し裕福に思えた、黒い髪と目をした紳士の横だった。



顔は好みではないが頭は良さそうで、年上の生真面目な人。劇場も遊ぶためではなく教養と社交のためといった感じだ。


どうにか最高の居場所と愛を得たと思っていた彼女は、のちに結婚生活に落胆する。


そこは非常に狭い世界で、自分はプリマドンナにも貴婦人にもなれなかったのだ。義母たちには疎まれ、思った以上にその家の経済状況は厳しく、情熱的な舞台の男たちとは違って、彼はひどく硬くて厳格で不器用だった。あんなに舞台や演奏をを見に来てくれたのに、結婚したとたん家のピアノ以外は弾かなくていいと言ったのだ。



夫はいつも新聞や帳面ばかり見て。自由に育った彼女には退屈で窮屈な男に思えた。


それでもその場所で懸命に頑張ったのだ。どんな夢も捨てきれず。けれど理想と違った生活と、一度ずれた歯車はかみ合わないまま回り続け、得られないものを憎んだその人(わたし)はいつしか起き上がることも出来なくなっていた。



最初は怒りと抵抗だったのかのかもしれない。自分の教養だけでなく、子供の教育にもあれこれ口を出す人々。自分とは合わない世界の人たちのために、見当違いの方に子供を育てているようで。ひどい苛立ちと、愛せなくなっていく自分の子供。それが、いつしか病に変わり、何も食べられなくなり、あれはそう、もう手遅れになってからだ。





「リズ………」



もう応えない私の横で、頭を垂れる彼がいるのが分かる。



「起きてくれ………」



「どうしたらいいのか分からないんだ…………」


「洋子は計算もできないし……たった26文字のアルファベットも書けないんだ………」



そんな子もいるだろうと、言いたくても言えない。あなたの妹のキョウコに相談すればいい、彼女の方がうまくやるだろう。と言いたくても、唇しか動かない。



「………ご飯も半分も食べないんだよ………。リズ、君もスープを飲んでくれ………」


なんて勝手な男だろうと思う。私を愛しているからではない。自分と家名が困るからだ。大した家門でもないのに。



けれどそれは、彼のはじめての弱音だったのかもしれない。



「………リズ、ごめんよ………。起きてくれ。」


「………分からないんだ………、君をどう、愛したらいいか…………」



「誰も私に触ってくれなかったから……。本当はもっと、君に触れてもよかったのかもしれない…………」




「本当は君の明るさに、もっと触れていたかったんだ…………」




彼が病室を去って、自分の頬に伝う涙。




なんてバカなことをしたんだろうとやっと気が付いた。



誰かに言われたのだろうか。


彼も、何も分からなかったのだ。


私は自分に足りない何かを補おうと必死に彼を求め、彼が何かに飢え乾いていることに気が付きもしなかった。


大人な彼も、全部持っているわけではないということを。私だけが、愛に不足している人間ではなかったのだ。誰も彼もが完璧ではなくて、でも誰も彼もが見栄とプライドの厚い皮を被って、まるで紳士淑女の様に生きて。なのに野犬のように尖って。


小さな世界の小さな矜持(キョウジ)に人生を捧げて。




そこが小さな場所だよと、教えてあげられるのは自分だったのに。


いや、自分も共に、小さな世界を抜けて行かなければならない幼子だったのだろう。






「マム………」



来るたびにいつも祈りを捧げていた小さなあなた。




かわいいあの子が、私を呼ぶ。


「マム………。洋子はピアノの才能がすごいんだよ。先生の説明も難しい曲も一回で全部覚えちゃうの。ピアノの先生もギターの先生も、今までで一番すごい子だって。」



ばかね、リズ。今ならこの子に全部教えてあげられたのに。



「マム、さみしいの………。ダッドは洋子のことが嫌いみたい………」



いや、あの頃の自分だったら、何も得られなかった自分を埋めるために、この子たちをあの荒波の中に押し込んでいたかもしれない。自分をプリマドンナに選ばず、母を遊び人と呼んだ、あの世界に思い知らせたくて。



それに、あの頃のままでは、あの人の冷たさや傲慢さは、人生の言い訳にしか思えなかったことだろう。


母も、自分もそうであったように。




なんてバカな自分。




『マイ・スチューピット!』




今ならそう言って、たくさんキスをしてあげるのに。







スチューピット……おばかさん。かわいさを込めても使われる。



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