80 大好きだよ。
暖かくなった春の風が舞う東京。
高架通路の上、章が尚香を抱き寄せる。
「尚香さん!」
「!」
グッと持ち上げられる体。胸元に引き寄せられ、高い位置から触れる章の頬と自分。
「っぃ?!」
腕を回されポンポンとされるくらいだと思っていた尚香は驚いてしまう。
尚香の後ろの方から見ながら、同じく思わず驚いてしまう里愛と太郎。じーと見つめている太郎が子供だと思い出し、はっ!と里愛は太郎の目を覆ってしまう。
「章君?待ってっ……」
人が来たらどうするのだ。少し離れたところにはぽつぽつ人がいる。
「尚香さん……」
「!」
けれど、少し胸を押しやり章の顔を見て尚香は、何も言えなくなった。
章の目に、涙が溜まっていた。
「………尚香さん…」
「章君…」
「尚香さん、好きだよ。」
「大好きだよ。」
「章君…………」
「ずっと、愛してた。」
そしてまた、ぐっと抱きしめた。
「!」
尚香は目から零れ落ちるその涙を、どうにか出した腕を上げてそっと拭き取る。
「ごめんね、章君。」
「……ん?」
「ごめんね。
ずっと分かってあげられなくて……」
はじめての、章の胸の中。
熱くて、鼓動が聴こえるようだ。
「いいよ。尚香さん……」
大きな手に、そっと、優しく頬を覆われる。
「うん………ごめんね。」
尚香は、また抱き寄せる章の背をそっと叩いてあげる。背中が遠くて変な感じだ。
「…………」
太郎は、自分の目を覆う里愛の指の隙間から、しかと見てしまう。バイオリンペア二人して顔が真っ赤だ。
しばらく抱き合っている二人。
「………章君、足がちょっと浮いてて怖いよ……」
それを聴いてゆっくり降ろすも、風で舞った尚香の顔に掛かる髪を章はやさしくサイドによけ、またそっと抱きしめた。
「章君………」
「……功………」
太郎も涙目になってしまう。子供の頭でも分かる。二人はちゃんと結ばれたのだ。
「それにしても功はいいんか?あれ、キスしいひん?」
「ダメでしょ!」
海外のカップルに慣れた里愛なのに、なぜが赤くなってしまう。
「………章君……」
本当にキスしそうな勢いなので、もう一度章の顔の涙を拭き、恥ずかしそうに、そして少し青くなってお願いする。
「章君……私ダメだ……。ちょっとくらくらする………」
「え?尚香さん、大丈夫??」
少し離して顔を見ると、本当に血の気の引いた顔をしていた。誰かに見られていたら、それにこんな歩道でと怖いし、こんなふうに男性に抱かれたのでびっくりしすぎて尚香は身がすくんでしまった。
「こめんね、章君。急には無理みたい………」
「こっちこそごめん……」
「章君、マスクして。」
「うん。」
そうして眼鏡をしてマスクをするので、尚香もおぼつかない手でマスクをする。ポケットに押し込んでいたので形がぐちゃぐちゃだ。不器用にマスクをして髪を整える尚香がおもしろい。
「手伝おうか?」
「……いい。」
「大丈夫?抱えて行く?」
「やめて……」
「尚香さん、髪の毛変えたんだね………」
「……まあね。」
「中学生みたい。」
「今日はちゃんとパーマ、ふわっとしてるからそんなことないんだけど。」
「そうだね。大人だよ。かわいいらしいよ。」
「………ばかにしてる?」
前髪が落ちて子供っぽくなっている。先、言えなかったことが言えるので章はうれしい。
「行こ、おじいちゃん迎えに行くんでしょ?」
「………うん。」
また手を握ろうとするので、尚香がやめてと避けるも「いいじゃん」と軽く握られた。
ちょっと困惑するも、あんなに否定してきたのだ。もっと人のいる所まではもう少しいいかなと受け入れた。
章はいたずらな笑顔で、後ろの方にいる里愛と太郎にそっと手を振り、公民館の方に歩き出す。
「功!」
と太郎が言うも、里愛が止めた。
「ふたりにしてあげよ。」
「尚香ちゃ~ん……」
太郎は仕方なく見送りながらぐずっていた。
尚香と章。
歩きながら、二人はお喋りをする。
「章君はいつから私のことが好きだったの?」
「え?最初から。」
「…それは違う。最初は私なんて視界にもなかった。」
「あったよ。素朴なOLさんだな~って。」
「……ああそう。視界に入っても気にも留めない存在だったんだね。いいけど。私もそうだったから。」
「一目惚れだよ。」
「………絶対嘘だ。」
「いいじゃん。ロマンチックだから、そういう事にしておこうよ!」
「ロマンチックとかいらないんだけど。」
「尚香さんは俺のこといつから好きだったの?」
「………分からない……。今も分からない………。」
ちょっと流し目でかっこよく決めて言ったつもりなのに、目の前の人はまじめに思い出そうとし、混沌に飲み込まれていた。
「……今になって不安になってくる………。みんなに何て言おう……。」
何を言おうが、今、尚香の手は章の中にある。
「ふふふ。俺はめちゃくちゃ楽しい……」
そんな章の横で、また青くなっている尚香。
「やっぱりやめない?……私、イットシーの人たちに何て言ったらいいの?」
「え?何をやめるの?何にもやめないよ。」
「あれだけ大変なことして、また何がしたいんだととか、すっごく空気悪くしそう………」
「いいよ。尚香さんなんて大変な人のたの字にも入らないから。」
「……え?……でも……」
「音楽業界、もっとヤバい面倒な人や変な人いっぱいいるから。大丈夫、誰も気にしない。」
それでも心配そうな顔をしている。
「与根も超普通人な顔して、社長や戸羽さんの決定に逆らうくらい強いからね。こんな些細なこと、今更ほんと、誰も気にしない。ホントに。」
「………そう……。でもすぐにはみんなに言わないでね。私からは、何も言わないから。」
「いいよいいよ。そこんとこはほっといて。」
テキトウな男なのである。
章が、ここ一番の満面の笑みで言う。
「行こう。尚香さん。おじいちゃん待ってるよ。」
「うん。」
公民館の敷地の2階入り口付近まで来て、章は名残惜しそうに手を離した。
けれど、一緒に帰って来た2人を見れば、きっとお父さんは直ぐに分かるだろう。
章がつぶやく。
「あ、もうおじいちゃんじゃなくて、お義父さんになるのかな?」
「はは、気が早いよ。」
ふたりは向かう。
次の扉の向こう側に。
***
それからはあっという間だ。
尚香の仕事が落ち着くのは6月末頃。
それまではこの騒がしい男との結婚生活は負担が掛かるだろうと、結婚はしないことに。けれど今度は章が不安がるので、入籍はその月に済ませてしまった。
あれだけいろんなことがあって、あんな久保木さんもいる会社で働いているし、さすがに章がかわいそうだと、周りが尚香に頼み込んで入籍だけしてもらったのだ。なお、金本家に通っていた頃と同じような生活しかまだしていない。
いや、功も尚香も忙しく、あまり会えないことの方が多い。
「なんで俺、成人なのに周りに人生決められるの?おかしくない?すぐ同居したいんだけど!」
と不満を言いまくっていたが、尚香の仕事もあるのでどうしようもない。
住まいは、章が叔父さんに借りていたマンションをそのまま買い取ることになった。
これまでイットシーや教会のバンドメンバーも出入りしていたが、ナンバーも変え、これで完全に二人の家になる。
公表するのはもう少し後。
身近な人に知らせ、ふたりが落ち着き、きちんと同居の日を決めてからだ。
壊れそうなものを、懸命に綴って、やっとここまで来たのだから、大切に大切にして、最後まできちんと次に繋げたい。
あまりにもいろんなことがあったから、過去を優しく包めるその時まで、みんなが全てを守りたいと思ったから。




