79 あなたの手と
尚香は歩きながら時々立ち止まり、目を押さえてぐっと我慢をする。
施設にはまだ大勢人がいる。泣いている場合ではない。
大丈夫、ちゃんとできる。
そう言い聞かせて自分を落ち着かせニコッと笑う。よし。
そんな時、手前横から尚香を呼ぶ声がした。
「尚香さーん!!」
「?」
「尚香さん!」
「!」
すごい勢いで階段を上って戻って来た章であった。
「………章君?」
「尚香さん!」
と、近くまで来る。
「どうしたの?」
「………」
「……忘れ物?」
「違う。さっき……」
「さっき?」
「なんて言った?」
「………?」
どの話だと考える。
「……元気でね……だっけ?」
「違う、もっと前!」
「…え?………頑張って大人に……なる?」
「それ言ったの俺!」
尚香、章が何を言いたいのか分からない。
「……章君、大丈夫だよ。疑ってないから。大人になったと思うし。」
「違う!」
「……?」
「『私が一緒にいたらダメかな』って!」
「……?……言ったかも。」
なんなのだ。今になって頭に来たのか。恥ずかしいので、思い出させないでほしい。
「………ごめん。章君みたいな子がこんな30歳に言われたら、いやだよね……」
モデルやアイドルにさえ好かれる男である。低評価されたと思ったのか。
「会う女性がいたのに申し訳なかったです。ごめんね。」
けれど章は尚香を見た。
「嫌じゃない……」
「……そう……。ならいいけど。…怒らないでね。」
最後くらい怒らせなくてよかったと安堵する。
「じゃあね。」
尚香はこのまま笑顔で別れたいと思い、手を振って去ろうとした。
「……いやじゃないよ。」
「………?」
「尚香さんと、一緒にいたいよ。」
一緒にいてもいいくらい嫌われていなかった、よかった。
「尚香さんとずっと一緒にいたい。」
そこで少し考えて……初めて尚香は驚き、章に向く。
「っ?!」
え?まさか。一緒にいたい?
それって私がいいっていうこと?
少し離れて向き合う二人。
尚香、これまであまりにもいろいろあって、いろんな距離があって、いろんな状況や事情があって、もう章との関係や距離感が分からない。一緒にいてても、自然な空気みたいで。
だから、一緒にいるか、離れるかだ。
「?……それは……私の事きらいじゃないってこと?」
「尚香さんのこと嫌ってなんかないよ。」
「………」
付き合いたいということ?
でも、今更そんなこと聞けない。
先、あんな風に惨敗して、それでもあんな風に自然に終われたのに。今更だ。もしまた、ただ嫌っていないとそれだけ言いに来ただけだったら………
何も返せなくなって、ただ章を見てしまう尚香。
「尚香さん。尚香さんがいいなら……ずっと一緒にいようよ。」
「…………」
「……今度会う人は?」
「尚香さんといられるなら、他は誰も選ばないよ……」
「!」
「尚香さん、なんでそう思ったの?兄ちゃんは?いいの?」
「正二君は………」
尚香はハッとし、口ごもる。
「………尚香さん、俺のこと好き?」
好き?
好きなのだろうか。分からない。
「まだ兄ちゃんのことが好きなの?」
なんてことだろう。こんな状況になって、先、自分からあんなことを言って、正二と比べて好きの一言が直ぐに出てこない。
だって、あの、正二君に感じた、ひどく高鳴って、ひどく焦って、ひどく熱くて高揚したあんな気持ちは、きっともう起こらない。
「正直に言うと、正二君をみて幸せでドキドキしたあの感じは……、もう多分誰にも感じないと思う……」
胸がいっぱいで、それだけで幸せで。
でもあれは、全てのシチュエーションが整って、通り過ぎて行った束の間の、青春のような思い出。尚香も若く、全部が新しくて。
「分からない……。あれは、自分にとって、思い出みたいなもので。」
なら章は?
「章君は……章君は………」
何だろう。
「章君を見ていると、心が揺らぐんだ……。章君は私の中で、よく分からない人………」
「……………」
「いつも私の中にいて……何て言ったらいいのか分からない人。」
「………。」
「章君とは、同じ位置で、同じ世界を見て、同じ生活を感じて…………それが何だか、安心したから………。私の生活や未来を、一緒に埋めていけるのは章君だと思ったの……」
章はただ聴いていた。
「不安になった?だって、そればっかりはどうしようもなくて……。その上でよければ………」
と言って、尚香も口ごもってしまう。取り敢えずだろうけれど、自分に戻ってきてくれた人に何を言っているのだろう。最低だ。
尚香の中の章は、ただ好きなだけじゃなくて、いろんな好きがあって、たくさんの全部が詰まっている人だ。楽しさもうれしさも、ばかばかしさも、苛立ちも。めんどくささも、安心も、切なさも。
「章君?」
章の顔が揺らいでいる。
「…………あっ、あの。ごめんね………。自分なんで………。こんなんでいい?みたいな言い方、ひどいよね。でもね、うまく言えないんだけど………いろんなことがうまく言えなくて………。これが、あの時よりずっと…あの……愛おしい気持ちもあるんだって………」
本当に何を言っているのか分からないが、一応いい言葉を探してみる。
「正直、自分の中の章君がなんなのか分からないんだ……。
ひどくてチャラくて、子供みたいで弟にも思えるし、家族のようで、人見知りで暗くてマイナス思考で、ばかみたいに能天気で明るくて……最悪で最低で……」
「俺、最悪だった?」
「一番最初!最悪でしょ!」
最初も二回目も最悪である。絶対近付きたくない部類であった。
「全く違う世界の誰かのようで、そう思ったらいつも隣りにいて。いなかったら全部がさみしくて………」
「さみしかったの?」
「………さみしかったよ…………」
章が、尚香の目を見る。
「時々章君を探してた……」
「尚香さん、顔を見せて。」
章がマスクと眼鏡を取るので慌ててしまうも、近くには人はいない。尚香も顎に掛けていたマスクを外した。
「俺の引いてみる作戦の粘り勝ち?」
そう言って章は笑う。
「……!」
もう、何か月ぶりの笑顔だろう。ほっとして、目尻が緩むも尚香はぐっと耐えた。
消えるつもりだっただろうにと思う。自分もそうであったが。
しかし章が風景をよく見てみると、何か必死で考えている尚香のずっと向こう側に、なぜかまだ里愛と太郎がいる。
「?」
あのバイオリンペア。何をしているのかというと、本当に地下鉄に乗ったのか、改札に入ることもできず泣いていないか確認しようとこっそり戻って来たのである。
けれど、女性と話している功に気が付いて、近付かずに見ていたのだ。里愛たちは知りたい。
「誰だろ?」
「ファンの子かな?」
一瞬尚香に見えたが、髪色やファッションが違う。
「…でも……尚香ちゃんやない?」
「尚香ちゃん、ああいう服着る?」
「んー。あー!でも尚香ちゃんだ!尚香ちゃんやお!」
「ほんとに?」
「ちょっと横向いた時、それっぽかった。」
「何?あの距離感。」
「分からん。近いのか遠いのかも分からん!」
近付こうとする里愛と太郎に、章は人差し指でしっーと合図するので、30メートルほど先で二人は慌てて止まった。
「っ?」
功はニコッと笑う。
あの、いたずらっ子な笑顔で。
一生懸命言葉を出力しようとする尚香に向き直し、章は聞いてみた。
「尚香さん、それ、俺のこと好きなんじゃない?」
「そうかな?」
「そうだよ。」
「……好きなんだろうけど、いろんな好きがあるから、どんな好きか分からない………」
まじめに考えている。これはお付き合いできる好きなのかと。
尚香は一旦結論を出す。
「きっと章君のこと大好きだよ。」
「……」
「でも、高揚した気持ちも、胸がはじけそうになった気持ちも他に向けてしまったから、申し訳なくてどうしていいか分からない………」
かなり身近な人に。
「もうそれでいいんじゃない?お見合い婚ってそんなもんのところもあるし。」
それで、そんな過去が戻ってくるわけでもないのだ。
「俺が全部の好きになるよ。」
「………?」
その言葉を聞いて、尚香は自分の考えが確かな結論に至ったのか、至らなかったのか間抜けな顔で章を見ている。
「……私、章君のことが好きなのかな?」
「好きじゃなくてもいいよ。もう、一緒にいようよ。」
「………」
「尚香さんとなら、ずっと一緒にいられるよ。」
「………章君………」
少し離れた所で、里愛は言ってしまう。
「なんだろ。何、ぐずついてんだろ。」
「なんか一歩近づいた?仲直りするんかな?」
「あー!功が言うんだよ!あれだけ距離ができて、30になった尚香ちゃんが、自分から何か言う訳ないのに!」
勝手にあれこれ推測して文句を言う里愛。一般的な30代なら女性から20前後の男性にあまり迫ったりしない。将来を考えて身を引くだろう。
何か、ジェスチャーをしている里愛と太郎に、章はあっちに行けと手で追い払う。
そうして改めて、その名を呼ぶ。
「尚香さん。」
「…………」
「尚香さん、俺。」
「待って、章君!」
「!」
否定の言葉が来たら怖い。だから、これが最後としても、きちんと言おうと尚香も思う。どんな好きでも、章のことが好きだ。
「章君。章君が……
好きだよ。」
「……………」
章は思う。好きの全部を、全部の好きを、自分のものにしていこうと。
そこにいつも、自分が浮かぶように。
「尚香さん、ずっと俺といてくれる?」
確認し合う。簡単なことが、難しい二人だったから。
「うん。章君といたいよ。」
尚香も答える。何度も言い合ったことだけれど、やっとそこに辿り着いて。
そして、現実も。
少しだけ怖いけれど、それが言い合える二人だから。
「尚香さん、結婚までしてくれる?」
「………ずっと一緒なら、そういう意味でしょ?」
「!」
はじめて、章の顔が緩んだ。
「ウチ、複雑だよ?山名瀬家、嫁、二人も追い出しているし。兄弟多いし。千奈ちゃん怒ってるし。」
「今更それを言うの?知ってるし。うちも複雑だし。」
「おじいちゃんたち?いいよ。」
「武田家は多分ひどい。」
道は武田家の事情を少しお母さんから聴いているが、章にまで話したかは分からない。縁は切れていても、実の両親のことでまた関わる可能性はある。
「いいよ。全部それでいいよ。ずっと一緒にいようよ。」
「………」
揺れる尚香に、もう言ってしまう。
「尚香さん、結婚してください。」
章にとっても、今一番、精一杯の言葉。
「尚香さんも、おじいちゃんやおばあちゃんたちも、大切にするから。」
「章君…」
章にとって、これが初めての明確な尚香からの答え。
「うん、章君。ずっと一緒にいてください。」
「!」
尚香は一歩進み、章の方に掲げるようにそっと右手を差し出す。
恐る恐る、章もその手に自分の手を近づけた。
尚香が絶対に、触れようとしないものだったから。
指の先がそっと触れ、そして合わさる指と指。
章がそのまま尚香の手をぎゅっと握る。
「!」
「………尚香さん……」
乾燥しているといつも言っていたのに、思った以上に温かく柔らかい手。
尚香も、長い指に少しだけ驚く。多分力が入らないようにしてくれているけれど、明らかに男性の角張った手。
「尚香さん、少しだけ抱いてもいい?」
「え?……え?少し……少しなら……」
そうして章は、そのまま尚香をぐっと抱き寄せた。




