70 私の歌と
領布市の小さな庭があったあの家。
都心から離れて少し不便もあるけれど、電車一本で都心まで行けるし住むにはこれくらいがちょうどいい。
あれ?あの庭は、こんなにまぶしかったっけ?
光の手前でカーテンが揺れる。
「母さん。」
誰?
「母さん、暖かい季節だけど、お腹には布団掛けておいてよ。」
そんなやさしい声がする。
お昼?あれ?昼過ぎ?いつから寝てたっけ?
「あ、そうだね。ご飯作らないと。」
「窓閉める?」
「待って、そのままにしておいて!」
パパが好きな庭だったから。
息子にそう言うも、あれ?うちの子はこんなに大きかったっけ?と思う。
でも、そう言えばそうだなと受け入れて、窓の方を見た。
………。
もっと息子の顔が見たくて、窓の方を見るのによく見えない。
逆光で?
「ねえ……」
ねえ、
そう言った瞬間、全てが見えなくなるほど目映く光り……
アパートの電気が目にまぶしく映った。
「!!」
はっ!と辺りを見回し、ここはどこかと美香は確認する。あれ?
「…………」
アパート。一人暮らしのアパートだ。その、こたつの中。しばらく現実と夢の続きが分からず、心が落ちつかない。
少し経って上半身だけ起き上がり、スマホを探す。時間を見ると夜の11時過ぎ。
「…………」
気が抜けて、もう一度寝転がった。
「…………」
なんてバカなんだろう。子供が生きていても、まだ小さな子供だ。
でも、まだ、領布にいた頃の感触が残る。夢と全てが混在して、ホッとした気分と寂しさが入り混じって、どうすればいいのか分からない。
最近は章や真理のような若い子たちと会っていたから、自分の子が生きていたらあんな風に話せる時が来るとでも思ってしまったのだろうか。
美香は、夫の淳とは大学同士の会合で夫と出会った。
少しハーフのように見えたので、聞いてみたら半分フィリピン人で最近まで国籍もフィリピンであった。
幼い頃、母親と一緒に日本に来て、突然夫の祖父母の元に預けられたのだ。実はその頃既に、淳の父親は日本の職場で事故死。一人息子に死なれた義祖父母はさみしく日々を過ごしてきた。
そこに現れた突然の孫。
当たり前だが、最初は戸惑いと知らぬ場所で子供を作っていた息子へ失望、その女性に対する不信しかなかった。
けれど女性は息子の存在を確認できる物や、二人で写った写真をたくさん持って来ていた。ただ聞くと、息子も子供ができたことは知らなかったらしい。別れた後だ。
大手の役職持ちだった父と、良妻賢母のようで夫に従順な母。一時期息子は、この家の厳しい教育に反発し家出をしていたのだ。その頃だろう。そこで遊んでいたのだろうか。そんな世の中どこかで起こっているような遠い話が、自分の家族で起こるとは思わず、常識が性格のような両親にはあまりにも受け入れ難い出来事であった。
彼女が連れて来た通訳によると、お金を貰いに来たのではない、再婚した現夫が自分の子ができたらこの子をひどく扱うようになったので、日本で育ててほしいという事であった。自分には母も叔母も姉妹もいないから実家にも預けない方がいいし、今の夫に日本人の子だと知らせたくないと言った。
子供が日本に慣れる時間と、様々な手続きがいるので日本で働くと言い最初は農家を周り、それからしばらく工場で働いていた。夫には子供を日本に住む同胞の知人に預けたことにしている。
何もかも疑った両親だが、最終的に遺伝子検査をし、受け入れるしかなかったのだ。死後認知は既にできなかったが、様々な約束を取り交わし子供を受け入れた時、帰国する母親は泣いていた。
親代わりの祖父母が淳を心から受け入れたのは、しばらくしてからだ。
母がいなくて泣いていた時期、子供はやはりかわいかったのだ。祖母は今までで一番子供をやさしく強く抱きしめた。
息子を失った祖母は、我が子との確執の分もこの子で取り戻してあげたいとも思った。学生の頃、なぜ、あの子の声を聴いてあげられなかったのだろうと。
一度子育てを挫折して二度目の子育て人生を送る祖父は、学校行事にも参加し、できる限りたくさんのお祝いをしてあげ、仲間にすごくいいぞと聞いたので一緒に富士山にも登った。3人で海外旅行にも行った。
母親も仕事先を日本にして、時々様子を見に来た。
大切に育てられたその子は、祖父母と母の愛情を受けて誰よりも優しく育った。
そうして大学生意見大会の打ち上げで、二人は出会ったのだ。
尚香と彩香の付き添いで来ていた美香と。
美香は戸惑う。
何度も見回しても、ここはこたつを出ると寒い小さなリビング。
淳の実のお母さんに、まだ孫を見せてあげる前だったのに……
『加藤を離れて、新しい人生を歩んでほしいんだ』
ご両親の気持ちも分かる。義実家も重荷であろう。家族の死だけでなく、立場の難しい嫁まで抱えて。
でもどうしたらいいのか分からない。
夫が生きていた時代の写真を見れば、この中に入れば夫に会えるのにと思う。
その時代の映像が流れると、彼が生きている世界だと切なくなる。
美香はまだ答えを出せない。
ずっとずっと、加藤でいたかった。
やっと冬の自室に戻ってきた感覚に、涙が枯れる。もう少しあの夢を見ていたかった。
***
デコボコ演奏隊が、LUSH+の功、そしてピアノとバイオリンのプロ集団とバレた日から、どれだけ経っただろうか。
『でも太郎、嘘で人の気を引くな』
『アホ』
『弾けんじゃん』
『そんなサプライズいらん』
『アートパークは別人』
などアンチにもファンにもあれこれ言われたが、『緊張しいで、人前で弾けなかったので、厳しい訓練とご指導いただきトラウマとざまぁ心を乗り越えました!』とメッセージをして、どうにか分かってもらう。
そして、太郎と朝ちゃんは演奏ができなくても、しばらくアートパークに通い、ある人々に招待状を渡し、何とデコボコ演奏隊のきちんとした演奏会が開催されるのであった。
アートパークには最大1700席あるオペラホールがあるが、その三番手の最大350人収容ホール。
実は彼ら、身内でデコボコ演奏隊と名乗っていただけで、外向きや普段使っていた名前は「楽しい演奏隊」。これまでアートパークの登録もそれで、事務手続き代表者は原ママ。
今回はイットシーが入ったが、どこまで広報をするか悩んで、オーソドックスな会館からの告知と身内だけの連絡にとどめた。しかし、予想を超えて『デコボコ演奏隊の仮装パーティー』はあっという間の完売。題名も子供たちで付けている。
「おじいちゃん!!」
「おー!お前ら出世したな!!」
そう、今回の公演のVIP席は、これまで演奏を見に来てくれていたアートパークの常連や、話しかけてくれた他の演奏隊の人々であった。急に無料公演ができなくなったので、太郎と朝ちゃんの記憶力で彼らを探して手渡しで招待状を配り、初のきちんとした公演にお招きしたのである。
次回あれば考えるとしても、今回はみな無料出演。残った経費は好評なら次回の運営に回す。100%成功する演奏会かは分からないので、料金もホールの立地や質に比べて安く設定されている。このアートパークは、日本や世界の名だたる人々も演奏に来るオペラホールでもあるのだ。
本当はどこかの公民館などの方がいいのではと話し合ったが、お客さんたちのためにも最初はこのアートホールでしたかったのだ。
けれど演奏は一流メンバーだ。
高坂里愛、
お馴染みバイオリン太郎。
ピアニストの弓奈・メイシー、
バイオリニストのニキ・ディアーヌ・ローレン。
鉄琴に加え、木琴、シンバルまでできる、園児朝ちゃん。
彼らの衣装を総合プロデュースしたユミナの友人、未菜さん。彼女、実はオカリナが吹けたのだ。チューブユーでチャンネル登録者が2万人いるほどではある。加えて、LUSH+のツアーに参加していたうちの4人、同じく参加メンバーのコーラス2人。
そして、LUSH+の功である。
大きな枠組みは台本があるが、この演奏隊のレギュラーはみんな好き勝手したいメンバー。実質、新メンバーはそんな人たちに振り回されることになる。
園児朝ちゃんも、通路でもあったフロアで子供用鉄筋でこじんまり席を陣取っていた時と違い、見せ方にみな苦心。最終的に上手側だが伊那や泰並みのスペースを陣取ってしまった。実は朝ちゃん、専用の台が必要だが大人サイズの鉄琴も扱える。そしてなんと、バチも少しなら3つまで扱える。プロだ。
全員が揃えるリハーサルは開演の前時間のみ。
今までと一番違うのは、歌が加わったことだ。
公演が始まって歓声が沸く。
3曲目の終わりに全員マスクや顔の覆いを取り、さらに大歓声。
有名人なので、今となっては顔が割れていたが、それでも新鮮だ。
いや、朝ちゃんだけは初顔見せである。何せ園児、園とフロア以外の発表会は初めてだ。
楽器だけの演奏が数曲終わって、
このホールに、青くも、深くもある声が響く、功の歌声。
「………わぁ」
思わず太郎も見惚れてしまう、清涼さ。
スタジアムとは全く違う、ホールでの響き。
しかしここで、このボーカルだけに衝撃のもう一つの歌声が響く。
はぁ?と、心で毒づく功。
一台用意してあった電子ピアノに着くのいたのは洋子であった。オペラ座の怪人ピアノである。この電子ピアノはピアノよりは軽いが、押さえる時鍵盤にフェルトを挟んだような独特な重みがある。里愛が弾くと思っていたのに、不意打ちを食らった幽霊盗賊。
彼女は歌う。
最初に『スワニー川』そして、様々な歌の調べを。
??
なんだこれ?気持ち悪い。
功と洋子。
どの歌も、ぴったり合う。
恐ろしいくらいにハモる。
洋子の歌う先が見える。
洋子が演奏を変えた時点で、しばらくふたりのアンサンブルに。
バイオリン、ピアノ、歌。
全てが合う。どんなに複雑に展開しても。
ふと功が、あ、次の流れ?と、思った時、思わず少し離れた位置の怪人ピアノの方を見てしまう。
だから分かった。
この人は完全な歌手だ。そしてピアニスト。
舞台に出れば、音の世界と、
共に演奏する対象と、
観客しか見えていなかった。




