6 さみしい
入ってきた車の1台はおばあさんの庭に、もう1台は外の道路わきに。
「ショウー!!」
他の親戚たちだ。おばあちゃんが章が来ると話したので近隣の親戚が集まって来たのだ。釜山からも来ている。
「わー!ショウ兄だー!!」
子供たちが章にくっ付く。
「久々だね!私のこと覚えてる?」
「ぼくはー?」
「お前こそ、前に会った時は園児だったのに、覚えてるんか?」
「覚えてるー!」
「覚えてないー!!」
騒がしい小学生の横から、少し大きなお姉ちゃんが差し入れを持って来た。
「オッパ、これ。街で買って来たの!」
と、ちょっと洒落込んだ中学生が、氷の少し溶けたアイスコーヒーとジャガイモパンを出してくれる。
「私からは有名なお店のソボロパンです!」
「ありがと。」
「わー!握手いいですか!」
親戚にあたる子が、友達を3人も連れて来ていた。元々この家に住んでいた子で、友人は小さいころ遊びに来てた近所の子である。もうこんなに大きくなったのかと驚いてしまう。
あれこれ騒ぎながら庭で焼き肉が始まり、男性たちが火を起こしていた。
「…………」
7時になってもまだまだ明るい空を眺める。
章は日本に田舎がないので、この家が好きだった。
自分の実家もこんなところだったらいいのにと思う。正直、田舎には田舎のしがらみがある。けれどたまにここに来る章には、とても良い息継ぎの場所だった。
初対面だとだいたい田舎出身だと思われる尚香を思い出し、少し笑えてしまう。
3歳から9歳ごろまで地方にはいたが、尚香は都会人だ。そして、大人になるまでほとんどの期間を老夫婦と時々来るだけの親戚とで静かに暮らしてきた人生。
でも尚香は、道の人生も、洋子の人生も、あの騒がしい山名瀬家も………
嫌わないでいてくれた。
好きになってくれないくてもいい。
でも、嫌わないでほしい。そう思う。
歩んできた人生の、どこもかしこもいつも誰かに文句を言われて、どこに足を付いたらいいのか分からなかった自分。
ただ、知り合いとして距離を置いて付き合うのと、実際に家族になってしまうのではまた重みも違うだろう。あれこれと法的責任も付いてくる。他人だから尚香も優しいのかもしれない。
けれど………
そこに、曽おばあさんが冷えた飲み物とコップを持って来た。
「ショウ。スジョンガ。」
「それきらい。」
スジョンガは、ショウガやシナモンなどの香辛料などを入れた甘いドリンクだ。
「…お前、老体にムチ打って夜なべした愛情を一蹴するのか?鬼か?」
「夜なべしたの?」
「してないが。」
「でしょ?」
「そうじゃない。大きくなったんだから、何でも好き嫌いせずに食べれるようになれ。」
「………」
「こう思うのはどうだ?」
「…?」
「章はアーチストとか言うのだろ?ソウルのお店も手掛けたって、道が自慢してたぞ。」
「……うん。本当は建築家になりたかったんだけど。」
デザイナーでなく、建築家になりたかったのだ。父も天職を全うできず、その息子は数式どころか算数もやっと。神様は無慈悲だ。
「……ほら、もうそこがダメだ!」
「何でもいろんな味を知って、絶妙なものが生まれるだろ。」
「………」
「なんだその顔は!」
「ばあちゃんからそんなアーティストな見解が出てくるとは思わなくてビックリしてる……。東方義侍録も知らなそうなのに。」
大大々先輩アイドルである。
「舐めるな。……こんな田舎に嫁いで来なければ、ミシン工場でずっと働けたんだ。」
「…え?ばあちゃんの田舎じゃないの?ここ。」
「釜山から嫁いできたんだ。普通嫁ぐだろ。」
「そうだっけ?」
曽孫が持って来た果物を突きながら、今度は三人で考える。
「ふーん。ばあちゃんもアーティストなんだ……」
「まあな。」
「え?曽おばあちゃん、アーティストなの?」
横に座った曽孫も驚いている。
といっても、普通の縫製工場で言われるがままにミシンを踏んでいただけだ。しかも、延々と同じ作業でスピード重視。
それでも、様々な布地や糸、そして時にレースやビーズがきらめく世界は、おばあさんの両手にたくさんの物語を描いた。
「座布団を作っていたこともあるぞ。」
「……ふーん。あのひらひらのセンスの?」
日本人には理解しがたい、不思議な折り返しやフリルが付いているクッションカバーがおばあさんの家にはある。原色のような鮮やかさの上に、組み紐や花模様が付いていたり。
「持って帰るか?」
「いらない。」
そう言いながらも、スジョンガを一口だけ飲む。
自分もたくさんの人に自分を受け入れてもらっている。少しくらいキライを克服したいと思ったのだ。
冷たい飲み物が喉を通る。
「………」
あれ?と思う。子供の時ほどまずくは感じない。
「あれ?飲めるよ?」
「うまいだろ?」
「………うん。変な味。」
「うまいと言え。」
「……………」
尚香はクセのある味が好きだ。
少し強いお酒や香辛料。
中華料理に使われる八角も食べられる。ここで一緒にスジョンガを飲めたらいいのにと思う。多分、東京のおじいちゃんやおばあちゃんにお土産にしたいと言うだろう。
そんな気がする。
「ばあちゃん。俺なんか………また、人生失敗した…………」
「いっつも失敗してんな。」
「曽おばあちゃん、ショウにそれ、言わないであげてよ。」
曽孫が戸惑っているも、章は優しくフォローする。
「いいよ、本当のことだから。悲しいことにいっっつも失敗してる……。今度こそ上手くいくと思ったのに、今度は思わずサイドからストレート食らった。」
「ストレート?ショウ、またなんかあったの?」
「…………」
子供たちの言う単語が分からないが黙って聞くおばあさん。
そして、じっくり考えて口を開いた。
「ショウ、人生なんて思い通りにいかないぞ。」
「そう?」
「何一つ。」
「え?一つも?」
「お前だけじゃない。私だって、なんも思い通りにならなかった。」
「…………ばあちゃんも?」
「まあでも………。振り返ってみると一つくらい……自分がつかんでいる物もあるんだよ。懸命に生きて、振り返ってみれば。」
「………」
「思っていたのと違っていたりするんだがな。」
目の前の人生に追われて、狭い世界で何も考えずに生きてきたと思っていた田舎の曽祖母が、思いがけずそんな話をするので、章は驚いてしまう。
しばらく3人で風景を見ていると、追加で肉を買って来たという声が聴こえたのでまたみんなの方に向かった。
***
翌朝、章はいつものように4時頃に起きてストレッチをして、ビニールハウスの並ぶ区画などを走ってくる。この辺りはサンチュ畑が多いらしい。
今日も平日なので、みんなお酒もほどほどにして昨晩帰って行った。今日が休日なら、みんな倒れるまで酒を飲んで、今も雑魚寝で過ごしていただろう。運転手で飲めない人は、休日にまた来るよう章に釘を刺していた。
章はジョギングをしながら、時々写真を撮る。農家仕事に出ている人に挨拶をし、既に数キロ走っていた。
日本と似ているようで、どこか違う不思議な風景。
異国っぽい珍しい所を撮りながらも、外国とは思えないほど草木が日本と似ているので、そんな風景も面白くて撮っていく。
でも、さみしい。
尚香にこの写真を送ったら、「日本と変わりないね」「それどこ?また愛知県でも行ったの?」とか返ってきそうなのに。左右が違うだけで、同じような交通インフラ。同じようなヨモギの群生。全部が細くて長くて節で分解できるのは、つくしのスギナだ。似てるねっと返ってくるのは、日本の街並みや道際を知っている人たち。今、写真を送りたい。
おじいちゃんにも見せたいし、今までだって来るなと言われても、好き勝手してきた。
でも、急に現れた兄が、尚香を大きく揺すったのは確かだ。
そして、自分もまだ動揺している。
***
田舎のおばあさんに、道から預かったお金と章からのお小遣いを無理に渡してソウルに向かうも、最後におばあさんから渡されたくちゃくちゃの包みには、同じくらいくちゃくちゃの紙幣で章が渡した分ほどのお小遣いが入っていた。
そしてソウルから何度も電話が来るので、仕方なくその夕方、道の2番目の兄ジョンホに会いに行く。
昨日とは打って変わって騒がしい喧騒。
その中に紛れるソウルの刺身屋。
とりあえず少し食べて、本題に入る。ただの食事のわけがない。
「章。で、お前はどう思うんだ。」
道のことだ。
「お前も20歳を超えて、もう自立できる歳だろ。」
「……だから、一人暮らししています。」
「道を小さな1Kに押し込めてか?」
道が望んでそうしているのは知っているが、それでもジョンホは章に問う。
それはそうだ。
自分の人生の一番いい時期を、全部他人の子に投入してしまった母。
本人が望んでも、お互い生活に余裕が出来たなら、せめてもう少しいいアパートに移すべきだ。いや、本来なら洋子が住んでいるあの家こそ道のものなのだ。
それに―――
20代の前半で夫に先立たれ、義家族問題を抱えたまま前妻の問題児を育てて来たのだ。必要な遺産だけもらって、離縁してもよかったのに。
章だって少し前までは、「それでも夫婦なのは二人で、二人は愛し合っている」と相手に言えた。
道も、自分は章のお母さんをやめないと言っていた。
でも……、「章が結婚するまでは同居したい」と言っていた道も、17歳辺りから背が伸びてきた章を見てそうも言わなくなる。章が道の身長を一気に追い越すと、兄弟どころか恋人と間違えられるようになってきたのだ。
道と章の年齢差は、父と道の年齢差より狭い。
1年と数か月の短い結婚期間。支えになるはずの、正一と道の子もいない。
それに章は聞いていた。日本の在日の伯父たちから。
二人の結婚は、章を見るためにした契約結婚のようなものだと。
その言葉は章にとって、父が死んだ時くらいのショックであった。
周りの大人たちの様子を見て、そういうこともあるかもしれないと思ってはいたが、伯父たちに面と向かって言われ、気持ちの行き所をなくす。
でも、永遠を教えてくれたのは道だ。
そうであってほしくなかったし、章には父と道がどんな夫婦よりも幸せで、理想の夫婦に思えたのだ。
いや、きっとそうだろう。
正一が死なないか、二人の間に子供さえいたら。
道の気持ちはどうなのかは分からないが、周りから見れば章は道にくっ付いているお荷物だ。
「……………」
章は何も答えない。何も答えられない。
「あ、いい。別に章から何か答えを聞き出したいわけじゃない……」
ジョンホは頭を抱える。
「………ただ、道に幸せになってほしいんだ………」
そう言って項垂れるジョンホのグラスにまた焼酎を注ぎながら、ソウルの夜は過ぎて行った。