5 大きいおばあちゃん
夕方から章は三浦とも別れソウルのマンションに向かった。
そのマンションの一室。リビングにはもう片付けてしまった祭壇の代わりに、小さい丸テーブルにお餅と果物だけ添えてある。お酒を出し香を焚いて敬拝をしてから、章はテーブルを囲んでいる数人の年配の方に行ってまた頭を下げた。
「章、もういいから頭を上げなさい。」
章はボソッと謝る。
「チュンゾモ、道子さんの代わりも兼ねて来ました……」
謝った相手は、真っ白な白髪なのに朗々とし威勢がよさそうな、道の父方の祖母であった。章には継母側の曽祖母にあたる。周りにいるのは道の母や大叔父、叔父たちだ。
「ずっと顔を出さなくてすみません……」
「もういいから。ウチのドラ息子に挨拶には来ただろ。」
道の父親の法事。6月が命日である。
普段は飾っていない、ドラ息子の楽しそうなスナップ写真がリビングに飾ってある。章が祖父の祭祀に来るというので、顔の分からないじじいの祭祀に来るのもかわいそうだと仕方なく写真を出したのだ。
日本の法事である祭祀なのに、写真の中の彼は楽しそうにピースをしている。
若くして病に倒れたのに、全く悲壮感のない写真しか残っていなかったのだ。自分の上の子の結婚式に撮った家族写真があるが、それも決め顔でピースをしているし、この父のためにそれを切り抜いて加工してまで遺影を作る必要もないということで、こんなスナップ写真が飾ってある。
青年時代までほぼ日本で育ち、東京では雀荘で章の祖父と仲が良かった道の親父だ。
「このバカが、山名瀬家のじいさんに120万もツケを押し付けて、道を日本に送ったんだ……」
「……?」
は?となる章。
「このバカ息子が、スナックや雀荘のツケを支払わずに韓国に帰って来て、山名瀬のじいさんが代わりに返していたんだ!!それを返さずに冥途に行ったんだ!円だぞ!ウォンじゃない!120万円だ!!」
息子の写真を見てため息を吐く曽祖母。
それは初耳である。
「道さん売られたの?山名瀬家に?」
功が聞くと、みんな口々に怒る。
「そんなことをしたら、漢川に沈める!!」
「あいつは、全部真に受けてツケを肩代わりしてもらったと思っていたんだよ!」
「借金とも思っていなかった……」
……ふうん……と思う章。章の祖父が払ってやると言って払ったならそれでいいのにと思うが、世の中そうはいかないらしい。
「まあ、大人はみんな知っている話だ。道はしないだろ、お前にそんな話。」
「……はい。」
ただ曽祖たちが言うには、山名瀬の祖父さん正次郎は、道の父だけでなく一緒に飲んだ他の仲間たちのツケも払っていたらしい。金より友情……飲み仲間。高度成長期らしいの気前の良さである。
韓国の家族たちは、道が日本に行った経緯を整理したかったのと、ドラ息子の行動を信用できなかったため、日本のお店に様子を聞きに行ってそんな事実を知る。
正次郎の詳細を知り、残っていたお店の古い帳簿でだいたいの金額を割り出し、手数料代わりの手間賃と共にお金を返しに行った。まだ章の祖父、正次郎が夫婦で生きていた頃だ。
最初は過去の道楽だからと、正二郎はお金を受け取らない。中国人の金さんという人しかお金を返しに来なかったし、もう時効だと言っていたが、押し付ける形で渡して帰ったのだ。それでも、手間賃までは要らないと正二郎は叫んでいた。
後で知るのだが、山名瀬家に返したお金は、利子は受け取らないという意味で手間賃はそっくりそのまま道の元に行き、120万は正次郎の元に戻した。叔父の一人もその場にいたため、後で遺産分配で揉めないように、特別扱いをされたと思われないような配慮だ。崔氏側も山名瀬家も、自分たちのためにもお互いに貸しや負担を作りたくないという意味もあった。
でも、正一の叔父たちは、父から個人でもっとお金をもらっていたし、会社の経費であれこれ落としていたので、これくらいのお金を受け取ったところでプラスマイナスすれば章側には何の負債もないわけだが。
道側の親類たちが正一と道の結婚に関して引き下がったのは、自分たちの家族、道の父にそのような山名瀬家への負債感があったのもある。もちろんだからといって大切な娘を渡すわけでもなく、最終的に結婚を許したのは、正一自身の人柄や誠実さゆえではあった。
そして、そんないい加減な生き方をしていた道の父なのに、崔家は山名瀬家のようになぜか親族分裂はしていなかった。ドラ息子と言いながらきちんと法事までしている。
その違いは何なのだろうか。
「お肉食べなさい。」
昨夜祭祀に出した食事が並べられ、章は祈ってから黙々と食べ始める。道の家はキリスト教家庭だが、道の祖父の願いで年に一度の祭祀だけは残していた。以前は道の祖父の命日だったが、今は道の母中心に家を見ているのでの祭祀も父にまとめている。
祖母も、自分は十分生きたので死んだ人間だと思ってくれと言っているらしい。生き仏か。存在感のデカすぎるご隠居である。
「そんな湿気た顔で食べるな。」
叔父たちの一人が章の顔を覗き込む。今日は平日だが、もう定年した大叔父たちがまだ家に残っていた。
「道は元気なのか?」
「父親の祭祀も来ないとはな。」
「そう言うな。だから章が来ただろ。来たくなかっただろうに。」
「……そんなことありません………」
と大男が暗く呟く。
「お前、本当に暗いな。」
と、おじさんたちが呆れている。
「章、エビフライ食べなさい。章が好きだと思って大きい海老でいっぱい揚げたから。イカフライもあるよ。」
道の母が章にエビフライを出してくるので、黙々と食べる。子供はみんなエビフライが好きだと思っているのか。
「もっとおいしそうな顔をしろ。お前のために多めにおばあちゃんが揚げてくれたんだぞ。」
「……おいしいです……。」
「しょうもない男だな。」
アイドルをしていた頃はこちらに住んでいたので、章もこの家にも何度か行き来ているし、出来る限り家族行事に参加した。韓国は不思議で、あれだけケンカをして嫌われても、行くと料理なりお菓子など出して歓迎はしてくれる。
章が子供だったというものあるかもしれないが、一度だけ正一が結婚の挨拶のために韓国に挨拶に行った時、なぜか親族の息子娘、孫まで総出で食事会をしてくれたのだ。まだとっても小さかった章も、その雰囲気を覚えている。
酔って食ってかかってくる者もいてケンカにもなるし、嫌味もそれなりに言われたのに、別れるときは握手を求められ、あっちこっちの親戚に章や道はお小遣いやお菓子も貰い訳が解らない。しかも、ケンカをしたのは正一とではなく、なぜか韓国の親戚同士だ。
言葉が分からない正一は、道に宥められたり、別の親戚に勧められたお酒を飲むしかない状態。かと言って、好かれているのかも分からず、正一は戸惑っていた。
ただ、従業員を抱える会社が経営でき、年配や大家族の中にいたからか、正一は非常にうまく切り替えその場に対応していた。最後は日本語ができる叔父に、あんな親戚と事業をするくらいなら俺らとしようと持ち掛けられていたので、好かれてはいたのだろう。
「章、今日の夜は空いてるだろ?ジョンホがお前に飯奢りたいって。あいつも昨夜来れなかったから後で挨拶に来るらしい。」
ジョンホとは道の二番目の兄、道と正一の結婚に最も反対した兄だ。今でも章の一家に当たりが強い。
「今夜からは、向こうの曽おばあちゃんの家にも行くので……」
道の母方の実家にも顔を出しに行く予定だ。
「明後日、日本に帰るって言ってただろ?」
「明日ソウルに戻って来て次の日の朝帰ります。」
「またここに戻って来い。学校で今来れない子供たちも会いたがってたぞ。」
何せ元アイドルの上に、ネットで有名なバンドマン。子供たちだって会いたい。
「はい……。でも、いろんな人から飲みのお誘いメールが入っていて……。」
功は付き合いが悪いが、功と飲みたい人は多いので、久々に韓国に来たと知った人々からたくさんのお誘いが届いている。今夜田舎に行くなら、後は明日の夜だけだ。
「可能な限り……」
「酒も飲まないくせに何が飲みのお誘いだっ。可能にしろ!」
そう肩を叩かれた日の夕方。
章は国際免許を持っているので、レンタカーを借りてソウルを南下し慶北まで向かう。
付き添いがいないと公共機関の交通網に乗れないため、会社からもどうにか海外での運連を許してもらっていた。道の甥っ子に当たる子にナビも設定してもらっている。
メッセージアプリのココアには大量に連絡が入っているものも、レインには尚香からは何の音沙汰もない。
「………はぁ……」
そして一気に田舎に抜け、3時間ほど走った夕方、たくさんのビニールハウスを抜け、戸建ての敷地に入る。
あれ?
道の母方のお祖母ちゃんの家なのだが、見慣れた木と土と、増築したトタン屋根の家がない。
「ショウ!」
そこに一人の腰の反ったおばあさんが現れた。
「ひいばーちゃん!!」
「ショウ!!」
ソウルの叔母さんおばあちゃんたちと違って、いかにも田舎なおばあちゃんが章を抱きしめた。2年ぶりだ。
「ばーちゃんの好きなパイ饅頭買って来た。新作の抹茶味も出たし。」
「早く家中入れ!暑いだろ!」
「てか、ばーちゃん。あの韓屋はどうしたの?なんでリフレッシュしてんの?」
古い韓屋がなくなって、今時の普通な平屋の家が建っている。
「どーだ。立派だろ。」
「……あの窓や壁に紙を貼って補強してある古い家がよかったのに……。なんでその歳で贅沢しようとするの?質素に生きたら?」
カレンダーや包み紙で崩れた土壁や破れた障子を補強していたのだ。
「お前は田舎を美化するしょうもない都会人か!嬉々として撮影に来やがって。」
田舎には時々、地方巡りや芸能人の田舎生活の撮影があり、古い家が使われる。きちんと作ってある立派な韓屋は別として、大半は貧しい時代を乗り越えて貧しく建ててボロボロ。そこに年代ごとにコンクリートを敷いたり増築やリフォームが加わって、古いのか新しいのか、家なのか何なのか分からない作りになっている家屋も多い。
「あんな、厨房が外にある家に老人を住ませる気か。」
「似合うのに。」
「黙れ。」
「向かいのばあちゃんちみたいに、家の中リフォームすればよかったのにさ。」
「無理言うな。」
前の家はトイレやシャワーは新しい増築部分にきれいなものがあったし、キッチンも新しく設置したが、家の構造上一度外に出なくてはいけなかった。それに足腰が悪い人が歳を取ると、しゃがみ込むより椅子やベッドの方が楽だ。親戚一同でお金を出し合って、おばあさんに小さな家と立派なベッドを送ったのだ。
この暑さ、昔の家だと隙間だらけでエアコン代ももったいない。
「牛舎もなくなっちゃったの?」
牛はもう10年以上前からいないが、離れの小さな韓屋だけ残してあった。
この敷地に、昔、親戚四家族も住んでいたのだ。
狭く、小さな場所で。うるさくも、それでも肩を寄せ合って。
「暑いから家に入れ。サイダーでも飲むか?」
というところに、車が2台入って来た。