52 いつまでも埋まらない旋律
「え?!」
功がステージから指を向けるので、蒼白になる尚香。思わず洋子さんに少し伏せるように言ってしまう。
「洋子さん!伏せて!」
「へ?」
ケースの席を跨いで、洋子の頭を押さえをそっと隠す。
けれど、功が指した方は、もう少し上の完全ボックス席。
『あっちにも兄貴たちがいます!』
と功が言うと、わあああーーー!!!!と注目され盛り上がる。
そのボックス席から手を振るのは、今回出番がなかったユミナにバイオリン太郎と原ママたちであった。
左の前方一帯がみんな手を振るため、ボックス席辺りという事しか分からず、事前に話を聞いていない照明さんはNGとされる以外の近辺を照らすしかない。
そう、里愛の友人の音楽関係者という事で、ユミナたちも功に招待されたのだ。楽団員が他にも数人いる。
「功ーーー!!!」
向こうに声は聞こえないが、嬉しそうな太郎。
ユミナも手を振る。野外で猛暑が予想される季節のため、かわいそうなことに今回のライブは、9歳もしくは3年生以上。朝ちゃんはパパとお留守番だ。
実は先の『演奏隊の朝のエチュード、瞬間の始まり』は、功の作った各種フレーズを、名のごとく朝ちゃんの好みで組み合わせた楽曲である。寡黙な園児、朝の編集とは思えないほどぶっ飛ぶ曲である。
柔らかい笑顔で彼らに手を振るも功は、ハッとする。
「?!」
気が付いてしまった。こんな夜のスタジアムでさえ。
野生動物かと思うほど勘で生きる男、山名瀬章は。
え?………
その下方、だいぶ下だがいる。洋子と……
目立たない………いや、目立たせないとするがゆえに、こんな暑さの中でもストールを掛け帽子を被りマスクまでしている、どう見てもいつもの変装をしている……あの人。
押さえてしまった洋子の髪を整えながら、向かい合っておそらく笑っているその人。
??
なぜ?
けれど、本能で気持ちが律する。そこには触れてはいけない。
功は、サッと舞台に向く。
一方、この二人といえば全く気が付いていなかった。尚香は注目されたのは自分ではないと安心し、洋子は何食わぬ顔でまたドデンと座っていた。
功はトークをして、注目をステージに戻し、何もなかったように舞台続ける。
そして次の曲。
この曲のためにバイオリンが弾きたかったのだ。
『この曲は最初にピアノとバイオリンがあって………』
少し間を置いて広いステージの空いたどこかを見る。
『今日はピアノはないけれど………』
…………功だって分からない。
ずっとあった焦燥感。
東京のマンションで、叩かれて怒鳴られて逃げ回り、行きつくのはいつも狭い洞穴のような棚やソファーの一角。
そこに閉じこもって何千回も聴いた、パーテーションが開け放たれた時か、壁に耳を近づけた時だけ聴こえる洗練されたピアノ。それは、たくさんの音楽家たちの既存楽曲が、指とピアノを通して出力された音。
その奥にまだ何かある。
けれど気まぐれな誰かさんは、こちらも気にせずどこかに行ってしまう。
求めても求めても聞こえない、チェシャ猫のように消えてしまった笑い合う声。
何千回聴いても足りない何か。埋まらない片腕。
あの人の音はいつも完璧で、いつも正確。
なのに、足りない。
いや、あの人に足りないのか、自分に足りないのか。
いつまでも………
そして、功のメンバーへの手サインと合図で始まる。
そのサインは『あの歌』と言われていた曲の、
ロングバージョン。
***
世田谷の小さな家。
昼に突然外出した娘。金本のお父さんは、心配気に尚香の両親の仏壇と向かい合っていた。
「信君……」
写真の中の、両親と一緒の小さな小さな尚香。どこなのかも分からない、古い不思議な写真。尚香は昭和生まれではないのに、少しレトロなのかモダンなのか、まるで昭和のような懐かしい古さ。
9歳の時にこの家に来て、
あっという間に十年が過ぎ、次の十年も来て。
結婚はしていないけれど、エリちゃんの訪問着を着ることもでき、もう十分自立できる程立派になった。
なんて数奇な運命だろう。
先祖の故郷の叔父たちのように子供たちを助けてあげたいと思い、気が付いたら尚香と共に、ここまで人生を歩むことができていた。ずっと一緒に住みたい気持ちと、早く巣立たせてあげたい両方の気持ち。せっかく決意した将来が振出しに戻ってしまったけれど、今はもう少しこのままでもいいと思う。
正直お父さんは、尚香が何を決意して章のツアーに行ったのかは分からない。けれど、ただ無事に帰って来てくれれば、それでいい。
久々に信之の多機能時計に触れ、滑らかに形を変えるベルトに金属の少しの重みを感じる。研究気質なのに外のどんな世界にも積極的で寛容だった彼を思っていると、あることに気が付く。
「……ん?」
お父さんは思わず時計を数回確認した。
「あれ、母さん。信君の時計、触ったか?」
「時計?私は触らないけど?」
普段は箱に入っているし、ほこりなど手入れしている尚香も特に触っていないはず。
この時計は液漏れを防ぐため、店で空の電池だけは外してもらった。でも時刻は電池が切れた時のままのはず。午前7時45分ほどで止まっていたのに、午後になっている。拭くときに触ってしまったのだろうか。けれど普通に掃除する分には12時間も回すことはないであろう。
ふとお父さんが壁の掛け時計を見ると、今まさにそんな時間だった。
***
夏の熱気が残るスタジアム。
『あの歌』が、ただあの歌なのか。
それとも、それももう曲名なのか。
それはダムディーが作詞作曲をした、
『いつかの君へ』だった。
今はただ、尚香と洋子だけが知る、その事実。
功は折りたたみ椅子を持って来て、バイオリンを立て掛けた。
LUSH+と里愛のバイオリンから始まる前奏。
手で囲ったスタンドマイクから流れる、あの歌。
洋子さんは、何を思うのだろう。全く顔色も変えず、ただ座っているその人。
―――はじめてじゃないよね
君の名を呼ぶと―――
尚香には分かる。
洋子が見ている、
遠いステージの、遠い誰か。
―――聴こえてくるのは あの懐かしい
あの日のあなたの声―――
数万のペンライトが左右に揺れる。
そしてその間奏で、功はもう一度バイオリンを取った。
緩やかに、でも明瞭な響き。
美しいアップボウとダウンボウ。
「………あ………」
先まで静かに聴いていた洋子が、真ん中の席にあったバイオリンケースを自分の下に引き寄せた。
「尚香ちゃん…………」
そして求める。誰かに縋っていたくて。
洋子が空いた真ん中の席に静かに手を出すと、尚香はそっとその手を取る。
功はバイオリンを手に持ったまま、Bメロに入る。そして、次のサビでまたソロ演奏。
圧倒的だった。
功はバイオリニストであり、そしてバイオリニストというだけではない。歌手でありエンターティナーだ。
手振り身振りがそれだけで人の目を引く。
激しい音にも、柔らかい音にも揺れる、フワッとした茶色い髪。長い首と腕でもバイオリンが安定している、きれいなシルエット。
大サビの前でバイオリンを置いて、歌に戻る。
尚香が横の席を見てみると、洋子は信じられないようにステージを見ていた。
洋子の口が動いている。
歌いたいのか、指摘したいのか。
功が今歌っている歌は、尚香が先日、データで聴いたものとは構成や雰囲気は少し違う。尚香でもそう思うなら、洋子にはもっと違う部分があるだろう。
でも、同じ歌。
どんなに違っても洋子の歌だ。
尚香は動画を見ていないから、あのフリーペーパーと、9歳の自分の記憶が作った雰囲気しか分からない。けれど感じる。同じ喉に、同じシルエット。そして同じような、日本人にしては茶色い髪。
歌は佳境に入る。
アウトロ前のリフレイン。
歌は主人を見つけて、顔を出す。
ずっとぴょんぴょんと逃げていたけれど、そこはなんだか楽しそうで、幸せそうで、少し見てみたいと思ってしまったのだ。
自分があげたかった何かは出口の向こうだけじゃなくて、迷路だと思っていたこの場所にもある気がして。
※アップボウ、ダウンボウ……演奏で弓の下から、弓の先から奏でること。
※アウトロ……楽曲の歌が終わった後の最後の演奏。エンディング。




