38 また廻り始める、全てが
結局その後、しばらく三人で店で話し、兄とマンションに帰る。
人生初、あんな話を暴露した兄を置いていけるわけがない。
しかもなんだ。
初心な尚香さんは、あたふたしているだけだと思ったら、思った以上に正二と親密であった。いや、大学時代はみんなで集まる以外は講堂や図書館で話していたくらいらしいが、どうなのだ。
「それもう、尚香さん。当時は正二のことが好きだったんじゃないか?」
と、頭が回らない章の代わりに久保木が決定的な言ってくれるが、
「あー、尚香さん。誰にでもそういう人だったから!」
と笑っているので、その話は流れてしまった。
「…………」
笑えないのは章だ。
尚香と正二、似た者同士ではないか。尚香も、美香や同じ施設だった陽にそうしたように、周りの人たちを助けていたのでのであろう。
あれこれ気が回るのに変な所で鈍感な兄は、尚香と洋子と結びついてから、章と尚香の関係にも章と久保木の関係にもあまり繋がらないらしく、そこにはとりあえず何も聞かれなかった。
先、暴露してしまったので、章と道への申し訳なさもあるのだろう。道が傷付くかもしれない話だ。
そして、もう一つものすごいことに気が付く。
あ………
数年前の、兄と義姉の結婚式と披露宴代わりの食事会。あの時尚香が断らなかったら、その時点で尚香に会っていたのではないか………
「っ!」
そう、美香にも。彩香が結婚式に唯一誘った二人の親友。義姉が「大学の友人も呼んだのに難しくて」と寂しそう話していた。正にあの二人ではないか。
「…………」
しかしこうも思う。
章が尚香に最初に会った日、イキられた上に水を掛けられたからインパクトに残っていたのだ。その後とんでもないお見合いまでして。
食事会でマナー良く挨拶をしていたら、尚香さんなど存在すら忘れてお仕舞いだったかもしれない。むしろかっこいい系の美香の方が印象に残ったであろう。
風呂から出てきた兄は、面倒なのでドライヤーもかけずドンとソファーに座った。
「章。章にはなるべく迷惑を掛けないでおこうとは思うけれど、母さんの生活もどうにかしないとな。」
「…………」
「母さん、今更一人で海外生活はできないだろうし……」
そして正二は思う。
あの楽器たちを。たくさんのバイオリンと………何よりもピアノ。
飴色の木目のグランドピアノ。
兄弟でお互い同じ物を思い描くが、章はほしい場所があれば寄付をするか、売ってしまえばいいと思う。誰が管理をするのだ。アップライトピアノも電子ピアノもあるのでそれで十分だ。どうせまともに弾かないのに。
あのピアノのゆえに、あの家が洋子の物になっているようなものだ。本当のことを言えば、あのマンションの今の所有者は息子正二だ。正一は道に残したかったが、道の立場があまりに悪かったため道から辞退した。
正一も始めは道名義にするつもりで準備していたが、植物状態になる前の頭が働いていた頃に、道の兄に後で金にするのが難しい財産を道にやるなと言われたのだ。あのマンションに住んでも売っても道は親戚からあれこれ言われるであろう。2年も夫婦でいられなかった後妻の外国人。
正二と章がいるのにと。
道の兄はさらに言った。道がいつでも出ていけるように、養子を解消して円滑に離婚できる環境にしておいてくれと。正一が死ねば、道は居所がなくなりおそらく出ていく。
まだ話せた最後の頃、正一はそんな話をしたことを叔母の富子に明かしていた。富子もそんな話は、正二が大人になって結婚し、環境が安定するまでは伝えることができなかった。
どのみち、道は幼い章の手綱を絶対に離さなかったが。
章は、ソファーで寛ぐ兄の話には答えない。
「俺、これからツアー始まるから、仕事でしばらくいないことがあるけどいつでも家、勝手に使って。教会の人にも週末は出入りしないでって言っておくから。」
「…………」
「…………章。」
そんな章に正二が口調を変えて言う。
「章!」
「……あ……何?」
「…母さん、いいバイオリンいくつか持ってるだろ。」
「………」
「…どれか欲しいのはないのか?」
「……」
正二は音楽のことはよく分からないが、章が安いバイオリンしか持っていないことを知っている。一番高い物で10万円台。
初期は貰い物。楽団に入る時少しいい物が必要で、その時は聖歌隊の叔父さんが中古を用意してくれた。
その後、アメリカの小さな楽器屋で買った中古が初めて奮発したものだ。
雪の中、店頭で毎日バイオリンを見つめていたら店のおじさんたちに案内されて。一曲弾くと、買える中で一番良い物を特別価格で売ってくれたのだ。それでも当時は道が唸ってしまうような値段だったが。
ケースはいいものを持っているが後は中身は5万もいかないし、本体より弓の方がお金をかけている。それでも、バイオリンのプロではないから仕方ないとも思っていた。
洋子と言えば、章には何も譲らなかった。幼少期の章の楽器の扱いがあまりに雑なので、向いてないと教室をやめる時に教材を置いて行った子のバイオリンを1つあげただけだ。
正二は、洋子を見てきたみんなの苦労を思う。
弾きもしない楽器を、季節変動の激しいこの時代に管理し続けるのも大変ではないか。使える誰かに譲った方がいいのではないか。ピアノはともかく、章はバイオリン弾きだ。
けれど弟はきっぱりと言う。
「洋子さんのものはいらない。」
「…………」
正二もそれ以上は何も言わなかった。
***
「え?チケット?」
電話の向こう側の人が、驚いている。
『そうです。コンサートでそういうことができるのか分かりませんが、3席お願いしてほしいんです。』
「関係者ブースとかでなくて、一般席側で?」
『はい。』
「尚香ちゃんが直接頼めばいいのに。」
『私は無理です…。』
電話の相手は章の父の従弟、広大だ。
『洋子さんと………あと2席だそうです。』
「誰が付き添うの?尚香ちゃん行かないんでしょ?」
『……良子ちゃん………』
は、心配だ。
『んん………、広大さんの知ってる方で洋子さんに付き添える方いませんか?広大さんでもいいし。あ、もう1席お願いして、奥様も一緒に行かれたら!』
「妻、週末仕事なんだよね………」
「あと1席は誰の?」
『知りません。横1席は空席にしてほしいらしくて。』
「………」
広大は少し考えていた。
『この時代……名前がなくても席、取れるでしょうか…』
「さあ……。まあ、洋子さん自身が一親等の身内だし……。でも章が嫌がってると、事務所がだめって言うかもな………」
章は道の普通養子縁組だったので実母との関係も切れていない。サプライズとか理由をつけるとか……
『でも、コンサートに行けないなら事務所に乗り込むって言うんですよ?』
「……洋子ちゃんにそんな度胸あると思う?むしろ見てみたい。」
『…………それは言えてます……。でも、もし本当にそれをしたら、広大さんが責任取ってくださいね。』
「え?尚香ちゃんでしょ。」
笑い事のように話すも、あんな人が会社近辺で挙動不審になったり騒ぎを起こしても困る。
尚香は、もうスタッフの誰にも顔を出せない。飲み会だけでなく、人間関係をあんな風にしてしまった。
そして、考えてみれば広大は章のデザイン上のパートナー。実は政木社長や戸羽とは面識があるし、デザインに関わった店にも政木たちは行っている。功の仕事を把握するのは会社の役目でもある。尚香の仲介がなくとも何とかなるかもしれないと思い、広大に頼んだのだ。
「章に黙って言うと、どうかな………」
『洋子さんは歌を聴きに行きたいみたいなので、普通に去っていくだけかもしれませんよ。』
「……好きな時に来て、疲れたら帰りそうだね。」
『あ、席は目立たないけど見やすい、前の人が立たない前列側座席でとのことです。』
「え、贅沢。まあ、洋子ちゃんが立って長いこと観てるのなんて想像できないけど。」
『あと、部屋みたいな席は嫌で、ちゃんと外がいいそうです。』
「……スイートボックス席のこと?贅沢なのか、質素なのか……」
『臨場感がほしんですかね。』
直接見える場所がいいらしい。確かに、ボックス席や招待席ではスタッフ側に存在を隠しきれない。客に紛れていた方がいいであろう。
連れまで探していると、最初の関東公演はもう間に合わない。
だとすると、全国ツアーから戻って来た最終2日のどちらかだ。チケットが全部売れても、関係者用に観客席側にも一部キープ席があるらしいのだ。この日は大型アリーナ規模のドームなので、前もって知っておかなければ個々人の動きなど把握できないだろうし、観客席からは事務所のスタッフには会うこともできないだろう。
「あ。尚香ちゃん、ならお礼は?」
『……お礼?……』
「せっかく、名刺破棄したのに連絡先を聞いてまで掛けてきてくれたんだからさ。またみんなで食事しようよ。それがお礼。」
『………それはだめです。まだ取れるのかも分からないし、私でなく洋子さんからたくさんお礼をもらってください。』
尚香、広大の名刺を返品したのに結局連絡を入れたのだ。申し訳ないと思うも、ならば山名瀬の身内でこの件をどうにかしてほしい。
LUSH+の全国ツアーは週末、関東からスタートする。




