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スリーライティング・下 Three Lighting  作者: タイニ
第二十三章 ふたりの兄弟

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37 兄だって



「でも……」



正二がずっと以前の、でもまるで、今、目の前に広がる、


新緑のサラサラした風が吹くあの日を憧憬する。




「初めて大学で人と話すのが面白いなって思ったんだ。講堂や図書館でさ……。あんな話ができる人は尚香さんしかいなかったから。」


章と久保木は思わず正二を見てしまう。


「友達としてでもいいから、尚香さんの願うことを最後まで支えてあげたいと思ったんだ。」

「………?」

章から見ている尚香は、父母のことをいつも考えて、友人が大切で仕事大好きということくらいである。

「願うことって?」


「さあ。俺も分かんないけど、未来をしっかり見てる人だったから、何かするときはずっと支えたいってそれだけだけど。」


一応付け加えておく。

「あ、彩香(さやか)も言ってて。それで気が合ったんだ。」

「…………」

それはまた何とも言えない。



章は、懐かしそうな正二が何を考えているのか分からない。


けれど尚香は5分10分の会話で、あのソンジとすらレイン友達になっていたのだ。

ソンジに聞いたところ、親戚などの身内と仕事関係以外の女性とはほとんど交換していないという。周囲は、章とのつなぎ役にさせられているだけだというが、それだけでもないように思う。

たいして芸があるとも思えないのに、なんなのか。意見はきっちり言う割に、てきとうな位置にいてくれて、てきとうに対応してくれるというのも実は利点なのかもしれない。




「…………はぁ……」

そして、章は久保木に向いて、嫌みを込めてため息をつく。だいたいなぜ久保木と飲むのか。意味が分からない。


「………章……お前なぁ………」

「………俺は帰ります。」

絡んできそうな久保木を無視して章は立ち上がった。


「え?章君、帰らないでよ。」

兄を無視するも、

「俺は章の家に行っていいの?」

と、弱り声で(すが)ってくる。

「洋子さんのところにでも行ったら?」

と言うも、洋子の家も危ないのではないのか。あの調子だと、洋子はあれこれ正二に話しそうだ。


「……あ、今日は洋子さんちもやめておいた方がいい。」

「え、じゃあ何?2つも当てがあるのに、俺はホテルに行くの?」

「……………」

章はめんどそうに兄を見る。

「章く~ん……」


「うちに来い!」

そこでほろ酔いの久保木が入ってくる。

「ヒマだ。章も来い。」

「…………」

行くわけがない。


章の中ではまだいろんなことが整理できないのに。なのになぜ、あの人は洋子の周りをウロチョロしているのだ。




そして気持ち程度に飲んでいた正二は、不愛想な弟に当て付けをしてしまう。


「章。だいたいなあ、章には悪いけど、俺は母さんのことで言いたい。」

「……?」

「尚香さんついでに思い出したが、言っておくことがある。」

尚香さんついでとはなんなのだ。


兄を無視するなと久保木もに叱られ仕方なくもう一度座ると、正二は言いにくそうに目を反らして言った。


「章には最悪な親でも、俺には大事な母親だからな。」


「………」

章は少しだけ目を丸くする。

知っている。そんなことは知っているのだが……。


「……お前は分からないかもしれないけど、俺は父さんと母さんが仲が良かったのをずっと見てきたから。」

そう言って、正二はもう一口酒を喉に押し込んだ。


「正直、離婚もどの再婚も、俺には全部ショックだったんだ。」

「!」


当時、状況が呑み込めない歳の章と、もういろんなことを理解していた小学生の正二。正二だって子供だったのだ。まだ、両親それぞれの支えがほしい子供。


不器用なのに、懸命に母親になろうとしていた洋子。

上手くいかなくて壊れていった母をずっと支え続けた父。


それを見て、育ったから。




――ずっと向こう、どこか遠くで、もう覚えていない声がする。



『おばちゃんのこと、覚えてるー?』


『おぼえてる。もう一人のお母さん。』

『きゃー!かわいい!!天才ー!』

と、叔母さんにギュッと抱かれた記憶。



記憶の中のおぼろげな、笑顔の叔母。



叔母が笑うと、母も何の屈託もなく笑うから。正二にとっても、両親と同じくらい大好きだった人だったから、その人の願いを果たしてあげたかった。


そして幼くして経験した、弟と叔母の、最初の2つの大きな死。




それでも、それですら、


たとえ死しても、正二にとって家族は壊れることのないはずの物だった。




もっと酔いたいだろうに、それ以上はグラスを満たさないで正二は静かに続ける。


「………道さんに会ってから道さんがいい人で………」


最初に話しだけ聞いたときは、道も父と章との間に割って入って来たよく分からないどこかの女性でしかなかったのだ。

でも会ってみたら『道子さん』というその人は、とっても優しい人で、章をずっと大事にしてくれそうな人で。



『道』ではなく、本当の名前は『道子』。それを知った時のショック。



同じ名前だから無下にできなくて、もしかしてまた叔母さんが来たのかと………


期待してしまった。



「それで、父さんが再婚してしまうのも……初めて仕方ないと思えるようになったんだ………」


章もうれしそうだったから。





そして、その家で見たのだ。


無表情だった章が、父と道の間で少しだけ笑う顔を。





「…………」

章の思考が彷徨う。兄なら道を気に入るというのは分かるが、父親の再婚が辛かったとは今知ったばかりだ。



正二は章のように母親に嫌われてはいなかったが、その代わり親それぞれの再婚や新しい父、そしてやっと慣れたのに母の2度目の離婚を受け入れるしかなかった。


その頃、正二は理解あるような子供になるしかなかったのだ。そうしないと母の人生も、父の人生も、正二の立ち位置さえもなくなってしまうから。時代も恋愛に寛大で、世の中みんなの自由をなんでも認めなくてはだめで、家族もそれぞれと希薄になりかけているような頃。離婚しないでとも、再婚しないでとも言えなかった。



正二は母を支えながらも、自分に確定の居場所がなくて、どこかに立ち位置を見つけたくて必死だった。





そしてすっかり大人になって、まだ学生だったけれど、講堂でたまたま家族の話になったあの日。必要な相談以外で、家の話なんて他人にしたことがなかったのに。



その人は言ったのだ。


『正二君、大変だったんだね。お父さんもお母さんも大好きだったのに、離婚、さみしかったでしょ。』


『…………』

もう悲壮感もなくネタ話のようになっていたのに、そう言ったのは真摯な顔で正二を見る尚香だった。

『別にもう、過ぎた話だし。』

『……あ、ごめん。こういうのって繊細なことだよね……。』

『…いや、もう別に………』


と、言ったところで正二の目から涙が出てきたのだ。


『え?……あれ?…………』

『……………』


それをボーと見ていた尚香は、目が合って慌てた。

『あっ、ごめんね……なんか………』

『あ、いいです。……なんで……だろ……』

悲しい?そんな思いは過ぎたはずなのに。


『………辛かったんじゃない?まだ子供だったんだよ?泣いたらいいよ。いっぱい泣いたら。』

『…………』

聞き分けがよく、我儘な大人たちの言うことに配慮して、いろいろ思うことを押し込めてきた子供の正二。少し神経質な新しい父に、距離を置きつつも必死に懐こうとしていた数年間。反抗期すらあったのかも分からないほど忙しかった10代。



母がまたおかしくなって、父や『叔母さん』に頼りたくてももう呼べなくて、


でも弟の元には、父正一と章をそのまま包んでも、まだ腕が余っていそうな『道さん』がいた。



きっと、自分もそこに行きたかったのだ。


さらに言えば、楽しかった父と母のいた家に帰りたかった。

二人がふんわり抱き合って、そっとキスをするその姿が好きだったのだ。


二人が一緒になれば、また弟と暮らせて、みんなで大きな布団に寝転んで、時々小さな足で蹴っ飛ばされたりはするけれど、それもなんだかくすぐったくて。


寝入るまで両親がいてくれて、朝までぐっすり寝られるのだと思っていた。




でも、戻ることのなかった、家族四人の家。




『………ぅ……』

悲しいわけではない。でも切なくて、涙が止まらなくなる。


慌てた尚香さんは、今度は無責任にも逆のことを言う。

『ちょっと、あんまり泣かないで!』

かばんにティッシュが入っていなかったので、でかいタオルを出される。


『正二君は頑張ったんだから、両親にも叔父さんたちにも弟にも全部文句言ったらいいんだよ!泣き止んで。ほら、人が入って来た。泣き顔見られるの嫌でしょ?』

扉から他の男子生徒たちが入ってくるので、男性は泣いているのを見られたくないだろうと思ってくれたのだ。


『タオルは洗ってから…』

洗ってから返そうとするも、尚香に分捕られる。

『ああ、大丈夫。家で洗えばいいし。』

ウイルスなど厳しくなるずっと前の時代の施設では、トイレのタオルも共有していたので尚香はそんなこと気にもしなかった。こんな大きなタオル、持って帰らせていちいちまた会って受け取る方がめんどくさい。



やたら距離を取るのに、この人には距離感があるのか無いのか。



けれど、正二はこの時初めて、しょうがないと思っていた人生のあらゆることに、自分が思った以上に傷ついていて、我慢していたと気が付いたのだった。




全部聞いて、

「……はい?」

と、なるのは居酒屋でそれを聞いている章である。







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