32 ずるい人
東京のある日。
洋子は頑張ってお客様を迎える準備をしていた。
凝ったことはできないので飲み物と、息子の大地に調べて頼んで注文してもらった韓国のお菓子。薬菓と言う揚げ菓子と、カンジョンと言う爆ぜたお米や豆、ゴマやエゴマを飴で固めたものらしい。
かわいいお花……。
少し古いながらも、お菓子が花のような形をしている。
お米の方は、日本でも見たことがあるな……と思いながら、お皿に並べる。
そこにチャイムが鳴り、この家の番号を知っている女性が居間まで入って来た。
「洋子さん、お久しぶりです。」
「道さん!」
最近忙しくて、少し合間が空いてしまった道であった。今日は家事のために来たのではなく洋子が呼んだのだ。食事は済ませてあるので、お菓子を並べたダイニングに招待した。
「あ!韓国のお菓子?」
「ふふ。好きか分からないけれど……」
「好きですよ!誰かに頂いたんですか?」
「買ったんです、ネットで。」
「!………」
驚いてしまう道。今までこんなことは一度もなかった。自分をもてなしてくれているのか。お茶は作り置きの冷たい麦茶だ。これは浄水に麦を入れるだけなので洋子にも用意ができた。
少し近況を話し合って、洋子は今日話そうと思っていた2つのことを道子に切り出す。
「……あの、それで、今日は道さんにちょっとお願いがあって……」
「……お願い?」
「あ、その、あの……………」
洋子が縮こまってしまうので、道はやさしく聞く。
「なんですか?」
「あの………」
少しの沈黙の後に、洋子は思い切って言った。
「私たち、ここで一緒に暮らしません?」
「?……」
洋子が思い切って言うも、道は固まってしまった。
「………………」
「あの……道さん?」
洋子が恐る恐る道子の顔を見るも、目が笑っていない。
「………道さん?」
「………あの……。章とお話ししたんですか?」
「………いえ………」
洋子は焦るように付け加える。
「お互い大人だし、それはいいかなと!それにあの、道さん、今住んでいるところ、正二ももっと広い家に移してあげたいって言ってたの。」
「…正二君が二人で暮らしたらいいって言ったんですか?」
「……あ、え………違います……。正二は………」
正二は章と話し合って、せめて1DKか2DK以上のオートロックに住んでもらいたいと言っていただけだ。
「……あの、私、章に言われてて…………あの…………ここは道さんの家だったって。」
「!」
これは結婚前からの夫の家で、道が相続するにはあまりに短い夫婦生活だったが、少なくとも洋子の物ではない。
「だから、なんていうかな。私には広すぎるし!せっかくなら、一緒に過ごせればって!」
洋子が必死に説明するも、道はどんどん言葉が少なくなる。
道は分かっている。
洋子は一人で生きていくにはあまりにも弱い。今の言葉だって、深く考えて言ったことではないだろう。本人には精一杯でも。
再婚してしまった洋子ではなく、正一の財産は道と正二と章に渡った物だ。
けれどその弱さのせいで、過去の洋子を支えてきたのは自分たちだ。この部屋のたくさんの楽器も、離婚してからの洋子の生活も。
章の休む家がなくなったらどうしようと、道は何年もやきもきしてきたのに。
「………あの、なんて言うか、あの…………。
もう、私たちのことをあれこれ言う人もいないだろうし………」
そうだろう。山名瀬家の人々もだんだん年老いて気力もなくし、自分たちゆえに負い目もある二人の妻たちが勝手によく過ごしてくれるなら、もう言うこともないだろう。洋子にも道にもあんなにもひどく攻め立てた人たちなのに。
「でも洋子さん、世間はそんな風に私たちを見ません。」
「………え?……そう?………」
洋子は次男章を見放した母親であり、前妻。
「先のことも考えていますか?」
「先?………一緒に住んだら……楽かなって…………」
「法的に何の関係もない者同士で住むって、お友達同居で楽しそうに思えるかもしれません。でも、老後までを考えているなら簡単な話ではないですよ?」
「………そうなの……?……関係も……ない……んだ…………」
戸惑っている。子供たちが血縁同士で、山名瀬家に関わっているのに関係ないの?と、頭が追い付かない。
「自分たちが健康でなくなった時のことを考えたことがありますか?」
「……え?……健康でなくなることもあるの?ケガするの?」
「…………」
老後に体が弱ったり痴呆気味になった時のことを考えないのか。そして、自分の家族も元夫も亡くしたのに、何を悠長なと。洋子の老後まで見るのか、自分に何かあったら面倒を見てくれるのか。そんなこともこの人は考えないだろう。どうにかなるだろうし、なってきたとしか。
どんなに山名瀬家がひどいことをしても、彼らは洋子の最後の住処までは追いやらなかった。そうでなければ、洋子はどう生きてきたのだ。その代わり道がそこから追いやられたのに。
道だって正直、一緒に暮らしてもいいと思わなかったわけではない。
でも、洋子から言われることでもない。
洋子は言葉の引き出しがなくなって黙ってしまう。
自分が好き勝手生きて、ここまで来たことは自覚している。今、この家を明け渡したところで、道の20代は取り戻せない。
道も道で、自身にも洋子にもイライラする。
洋子が解らないことは一つ一つ、優しく教えてあげなければならないのに、なんて意地悪な自分だろう。
でも道は止まらない。洋子さんは全部教えても、半分も頭に入らないのだ。
「それに章の気持ちを考えるとそんなわけにもいきません。あの子が安心して帰って来れる場所は、まだ私の元ですから。」
「……………あ……」
章のことも、今思い出したような顔だ。
「…………でも………」
うじうじと自分を引かない洋子に言ってしまう。
「それに洋子さん。私は正一さんの妻です。」
「…………」
その通りだ。
けれど洋子は続ける。
「………それは知ってるけど………でも、今は…………もう………亡くなっているし………」
「洋子さん、亡くなっていても、私は今も正一さんの妻です!」
「……あ、え?そうなの?」
「!………洋子さん、しっかりしてください。亡くなっても私は正一さんの妻なんです!!あなたは最初の妻ですっ。」
「……あ、あ………あ………そうかも。でも、私はもう、身は引いているし………」
「っ?!」
そこに、道の最後の堰を切ってしまうような洋子の一言。
「大丈夫、私、そんな正一さんのことまで考えないし……」
「!」
そんな問題でもないし、どんな問題でもない。
「洋子さん!私は……っ」
「……………」
動揺している洋子に、道は立ち上がって言った。
「私の気持ちの問題もあります。」
「っ!」
声は張り上げていない。多分。
でも道は、久々に強い憤りを感じる。いや、今までだってくすぶっていなかったわけではない。でも、いろんなことを思えば、洋子は許せる存在だった。
けれど、今は、自分の中の何かが苦しい。
洋子に何を言ってもどうしようもないことは分かっているのに。
目の前のこの、現実感のないきれいな人。
なんて、なんて身勝手なんだろう。
なんて、ずるい人なんだろう。
ずっと昔の、もう忘れてしまった正一さんの声が響く。
『元妻を……
元妻を………まだ愛しています………』
今になってまた胸を焦がす、その言葉。
それでもいいと受け入れた自分。
契約婚のような結婚の約束だったけれど、それでも自分を胸に受け入れてくれた正一。
章でつながったその父母という自分たち。
道と正一の間の子供もいない。
そして正一の予想通り、離婚してしまった元妻。
もし正一が生きていたら、彼はどうしたのだろう。
――あの病棟で、
『道……』
『正一さん?』
『愛して……います………』
自分だけでなく、病室にも響いた、小さな小さな叫び――
たとえそれが方便でも、せん妄状態だったとしても、自分を愛していると言ってくれた正一。
でも、もしかしてそれが、『道子さん』だったら?
あの、過去に置いて行かれた、
みんなの過去に生きる『道子さん』。
『道』が、チェ・キルジャだったとしても、正一にとってはそれは今更だったからだ。結婚してしまったから。バカ正直な正一はそれで自分を受け入れてくれる。
ずっと怖かった、正一の心。
二人で歩んだ時間もあまりにも短い。
その半年は闘病生活だ。
それでも自分は彼の正式な妻で、この場所に収まる自分を正一は否定したりはしないだろう。
でも………、洋子の浮いた場所はどうなってしまうのか。
洋子さんはずるい、本当に。
自分が夫にひどく愛されていたことを知らない。
だから巻の母親の気持ちも分かる。
巻の母親も、和司が元妻を愛していると知って、それでも結婚を迫ったのだ。
そんな彼を受け入れた自分だと分かっていても、身勝手な洋子さんにひどく焦らされたことだろう。なのに、洋子さんはいつまでも世間を知らない箱入り娘のように。
こんな、地に足の付いていないような人が、ふらふらふらふら生きている。
それをきゅっと、しっかり落ち着かせてあげたくて。
「………あの……、今日は帰ります………」
焦っているのになんの動作もできず、あっけにとられている洋子に、道はそう言って荷物を取った。
「道さん!」
自分が怒っているのか泣いているのか分からなくて、道は顔をそらした。
「あっ、あの、道さん!」
洋子が癇癪を起したらひどく言い返してしまいそうなのに、洋子はただ焦っている。
「……あの、えっと、あの、お菓子は持って帰って!」
「っ………」
それを無視して、道はこの家を出た。
白いパーテーション側も見ずに。
●元妻を
『スリーライティング・中』18 ずっと一緒に
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●愛しているのは道?
『スリーライティング・中』22 夫婦で
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