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スリーライティング・下 Three Lighting  作者: タイニ
第二十二章 人魚のしっぽ

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26 人魚姫



リセットしたい。



久保木は何を言っているのかと思う。目の前の女性に。


「………それはなくないか?リセットって……」

金本尚香の言葉とは思えないほどの、チンケで単純な言葉。

それは今ある周囲を否定する言葉。



でも尚香の顔を見て何も言えなくなった。


ひどく疲れ切った顔で、でもやりきれない怒りを秘めて、泣いていたからだ。



久保木の横をさっと横切り、尚香は駆けていく。

ハッとするも、その腕を掴むことも、後ろ姿を追うこともしなかった。




やってしまったかと思う。


「…………」

久保木は一番大変だった時期を知っているわけではない。

ただ正二の明るい雰囲気からして、ここまで正二を否定するとは思わなかったのだ。これ以上彼に迷惑をかけられないくらいで。けれど、性暴行やネットリンチのようなことがあった事件だ。本人無自覚の心的外傷につながっているのだろうか。


もう少し慎重に出るべきだったか。






そして、尚香にも分からない。




一体この混乱はどこから始まっていたの?



章君とお見合いをした時から?



あれ?違う。

際沢?その前の件?


もっと前?

正二(せいじ)君と大学の図書館で話をした時?



なぜ正二君は私に声を掛けたの?

キャンパスは広く、みんな過ぎ行く人なのに。



キャンパスの中の青々とした爽やかな木々は、光り輝く木漏れ日の日ではなく、ブリディッシュガーデンの鬱蒼とした緑の迷路?



この迷路を抜け出したいのに、

でも方法が分からない。






***




「あら?尚香ちゃんお帰り。」

久々に金本家に来ていた道は、帰宅した尚香に声を掛けるも、尚香は顔を隠して礼だけして、勢いよく2階にそのまま行ってしまった。


「……?尚香ちゃん?」

階段を見上げて心配になる道。体調でも悪いのだろうか……と考えていつかの既視感。


「!」

そう、章が出会った初日にやらかして以来だ。


「尚香ちゃん!大丈夫?」

「大丈夫です………。疲れているので寝ます……」

ひどくかすれた声が聞こえる。この家は古いので2階に洗面所がない。いつも荷物を下ろし手を洗いに行くのに何もせずに閉じこもってしまうなんて。


もしかして章がまた?!と思うが、もう章とは会っていないはず。

「………尚香ちゃん、大丈夫?体調悪い?」

「大丈夫です。少し寝たいだけ……」


道が一階に戻るとお母さんも廊下に出てきていた。

「道さん、大丈夫。そっとしておきましょ。」

そう声を掛けてくれるので、頼まれていた台所仕事に戻りながらも心配気に階段を見上げた。





その30分後、家の前に一台の車が止まる。SUVの中でも小型の車だ。


「尚香ちゃん、外にお客さんだけど。」

体調が悪いと伝えても少し待つと言われるので、仕方なく尚香は玄関の外に出た。



「尚香さん!」

久保木だ。

一度、家の近くまで送迎してもらったことがあるので、古い木造の家と知ってここに来たのだろう。すでにTシャツ短パンの部屋着に着替えて、メイク落としで顔も拭き取っていたけれど構わず尚香は外に出た。ひどい恰好をしているが、もうどうでもいい。


数分家の前で話して、それから久保木は帰って行った。



家に戻ってきた尚香を心配気に見つめる道と両親。


お父さんが声を掛けなくてもいいと言ったので、道は2階に上がってしまった尚香のために、声を掛けて間食だけ引き戸の横に置いておいた。




***




渋谷の街中。


この頃何事もなく仕事をこなしている章は久しぶりに道に会った。


「章!!」

「道さん!」

軽く抱き合うもしばらく離さない道。


「章……。元気だった?」

「なんでそんな10年ぶりに会うみたいな感じになってるの?」

「……章………」

「道さん、どうしたの?とりあえずご飯食べに行こうよ。」

「うん。」


道はスポットの保育とヘルパー。大人相手とは違う初めての職場で少々疲れているのかもしれない。

「章は何がいい?スタミナ付くのにしようよ。」

「………オリコギ行こうか。」

「いいの?」

「うん。最近店増えて助かるね。」

道は普段韓国の料理が食べたくなるわけではないが、無性に疲れていたのかタレの効いたアヒル肉と聞いて食べたくなる。滋養の料理だ。脂も体に良いため最後は脂もそのまま焼き飯にしてもらって、全部多食べきる。



久々に二人でゆっくり食事をし、最後にお持ち帰りでカフェに寄った。



道もお酒を飲まない。


章をエンタメの世界に送ると決めた時、章にお酒を断たせる代わりに自分も断酒をすることを誓ったのだ。もともとシスターになるつもりだったのでお酒も飲んでいなかったし、それももう、章が小学生の頃のことだけれど。


この業界は全てが危険だ。章だけでなく、道もしっかり目を覚ましていなければならない。少し気が緩んだのは、政木社長に章を預けられるようになってからだ。どんなに売れても、安定したように思えても、まだまだ先は分からないけれど……


それが人生だ。



「道さん、疲れてる時はちゃんと栄養剤飲んでね。買ってくるから。」

「大丈夫です。家にあるのから飲まないと。」


アイスコーヒー片手に、夜の歩道のブロックの上をバランスを取って歩く。そして、おわっと傾きそうになる道を、章は両脇からサッと支えた。


「………ふふ。」

道が笑った。

「何?」

「うれしいな。」

「何が?」


「章の幼稚園の頃も、中学校に上がった時も、こんな風に章と食事をしてお話が出来る時が来るなんて思ってもなかったのに。」

「…………。」

章はうれしそうな道を後ろから静かに眺めた。


道は、きれいにライトアップされた商業ビルの階段に向かう。小さく駆け上がっていくその姿を章は歩いて追い、周囲を見渡せる手摺前に二人で立った。



「………暑いね……。冬に来たいな……」


そう言って少し間を置いてから章に聞いてみる。

「ねえ、章。ちょっと尚香ちゃんの話してもいい?」

「…………別に………」


「尚香ちゃんね……」

「………」

「本たくさん読んでて、ちょっとびっくりしたんだけど、人魚姫の原作が好きなんだって………」



そう、道はたくさんのことを尚香と話したのだ。小さな雑談や、最近のこと、昔のこと。


LUSHの初期MVに人魚姫が出てきていたので、その話になって。思い出して読みなおしたらしい。



「……………そうなんだ。」

それ以外言うことがない。


「章も好きだったでしょ。」

「……まあね。」

好きというか、本を読み漁っていたので日本の古典もロシア民話もアンデルセンもなんでもかんでも読んでいただけだ。小中高の図書館の一角は全部制覇している。


「……尚香ちゃんみたいな子に初めて会ったな……」

「………そうだろうね。最近の日本人はああいう結末は嫌いそうだから。」




本当の『人魚姫』には、悪役なお姫様はいない。


少し洞察力が足りなかった王子がいるだけで、悪い人間は出てこない。


二人の幸せを願って人間の姫にもやさしくキスをした、

消えていく姫がいただけだ。




道の横で、あっけらかんと言うのは章。

「すごいキリスト教的な話だから、今の日本人には合わないよね。王子としても、自分が生きる世界がファンタジーなんて思ってもいなかっただけなんじゃない?」


まさか人魚がいるなんて。


「………………そういう話をしたいんじゃないし。」

道がふくれっ面をする。

「俺も嫌いだし。教会。」

日本でも韓国でもいい思い出がないので、章と道を嫌わなかったアメリカの教会以外は大嫌いである。



「章君!」

「……………何?」


「………尚香ちゃんはなんでアンデルセンの人魚姫、知ってるんだろ。」

「読んだからじゃない?」

「そうだけどさ!…………その上なんで好きなんだろ……」

「悲劇が好きなんじゃない?今時、悲惨な話が人気だし。」

「………そんな子じゃないと思うけど?」

道は、なんでそんなにそっけないんだと章にイライラする。人魚姫の原作を読んでいる人も、結末の意味を気にする人も多くないと、その話をしているのに。




「それに、章。人魚姫は悲劇じゃないよ。」

「………………」

章は何も答えない。


その意味をよく分かっているから。




街の埃が掛かっているかもしれない手摺に道は顔を伏せてしまう。

「残念だなって…………。」

そして恨めしそうに章を見る。


「私が尚香ちゃん好きだったの………」

「…………」

「私が好きだったの!」

「………そうなの?……」

「そう!」

「結構身勝手な人だよ。本人も言ってた。自覚してる。」

「みんな身勝手でしょ。あのくらい全然です。もう!」

ヘルパーという職業柄、もっと大変な人にいくらでも会っている。



章の周りには気の強い人が多い。尚香もそうだ。一見普通なので分からないが、真理や政木、戸羽を相手にできるのだ。だから人を解すのもうまい。目立たない容姿のなのに調子に乗って幅を利かせていると敬遠する人もいた。そうやって尚香を嫌う人もいるが道は好きだ。



道は思い出す。



あの日の小さなアパートの1K。


気の強い人はいても、

あんな風に、自分をさらけ出せる人は少ない。


みんなひどく凝り固まってしまっているから。自分の弱さを痛感して、不足を認めて、だから………



尚香を抱きしめて、ずっと守ってあげたいと思った。




「章じゃなくて、私が好きだったの!」

「…………」

章はあきれた顔をしている。

「何?その顔!あきれてる顔!!」

「…………あ、そうですか………。1回言えば分かるんだけど。」

「分かってないじゃない!」


そして、ついでに聞いてみた。

「……章はもういいの?尚香ちゃん。」



章は空に目を向ける。

「…………………まあ、どうにもならないし。」


あそこまで拒否反応をされたらどうしようもない。しかも自分にではなく兄に。自分が嫌われるのはまだいい。嫌われているのは自分だ。

でも、自分のせいで兄があそこまで避けられるのはどうしたらいいのか。答えがない。



「…………なんか分からんが、思ったより普通だ。」

「…………」

「前より仕事がはかどる。なんかこの勢いで新曲3本くらい一気に行けそう。」

「……章君も大人になっちゃたんだね……」



そう言って、ビルの谷間の明るい空に星を探すような章の横顔を、道は苦しく眺めた。





東京の夜景が、昼間の光よりまぶしい。


目がくらんで、その先がよく見渡せない。



そして光は、視力が落ちるほどのステージやフラッシュの光にのように、お互いを見えなくする。







●2階で泣いていた日

『スリーライティング・上 Three Lighting』

https://ncode.syosetu.com/n9759ji/3

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