1 正二君
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この物語は『スリーライティング・上中』の続きです。
前回は作者ページからお入り下さい。
『尚香さん』
あの、
落ち着いて柔らかい声がする。
『先週のノート見せてもらっていいですか?』
大学の講堂のゼミの時間。
そう言って横に座って笑った彼。
顔も見ず無言でノートを横に差し出すような不愛想な尚香にも、「ありがとう!」と喜ぶ。
「やっぱ、尚香さんのノートきれいですね……。解りやすいや。」
とノートをパラパラめくって見惚れていた。
今時ノートなんてなくても、ネットで何でも見れるのになと思うけれど。
多賀正二。
少し日本人離れしているような雰囲気と、背が高くTシャツと綿パンだけで様になる正二は、尚香には遠い世界の人に思えた。でも、少しだけ抜けた感じもし、オシャレで強そうな人たちだけでつるんでいるグループとも違う気がする。
「尚香さん、」
「あの、多賀君……。」
「ん?」
「私たち、名前で呼び合う仲ですか?」
しかも彼は2年も後輩だ。
「あ、すみません!みんな尚香さんって言ってるからなんか思わず!」
「…………」
「いい名前ですよね。『こうか』って初めて聞きます。」
「………」
尚香は、無表情で目線を教科書に移す。
正二君は、何にでもポジティブな人だった。
そんなふうに言って冷たくしても、何も悪く思わない。あからさまに冷めた口調で返しても、何でもかんでもマイナスにしない。
ゼミ以外の時も、時々話しかけてくれるようになって。
時々だけれど、ひとりで食堂にいるとわざわざ隣りに来るのだ。
「尚香さん、一緒に食べませんか?」
「………」
「美香さんたちは?」
今日は選択が違うし、楽だから一人でいたいのに……という目で見るも、勝手に座って話し出す。
最初は鬱陶しかったけれど、そっけなくしても、何を言っても悪くとらえないのでもう諦めていた。
そして驚く。こんな人が世の中にいるんだと。
尚香の格好は、眼鏡に髪はいつも後ろで一つ結びでとても地味。からかわれていると思っていた時期もあったけれど、時々一緒にいてそうでないことはなんとなく分かってきた。尚香の性格を見抜いたのか、尚香の知らないチャラけた学生たちといる時は話しかけてこない。
友人の美香たち狙いで近付いて来たのかとも思ったけれど、尚香なんて通さなくてもみんなとも普通に話している。
午前の光が入る講堂。
その光がくすぐったくて。
自分は特別なのかなとドキドキしてしまったりしたけれど、周りを見回してみれば正二君は誰にでも優しい。でも、それほど正二君を意識している自分がいると気が付いて、それからは恥ずかしくてみっともないように思え、極力関わらないことにした。
でも、居心地のよかったあの頃。
ぽかぽかした春のような、
新緑がいつも芽吹いているような、
そんな、大学のあの日。
_____
東京の夜の、ビルの高層階。
先まで章と一緒に食事をつまんでいたことは、もうすっかり頭になかった。
駆け抜けて出た、レストランの入り口。
尚香は身を隠してエレベーターを待つ。
ひどく高鳴る何か。
正二君……
正二君だ………。
ドクドクと心臓が波打つ。
早く来てくれとエレベーターに願う。
正二君なら言うかもしれない。章君に「送ってあげろ」と。事情を知っている章君が断ったら、上手く説明しないと正二君がこちらに来てしまうかもしれない。そういう人だ。
尚香は焦りながらエレベーターを待ち、扉が開くと他の客に紛れるように乗り込んだ。
そしてホッと息を付く。
「…………」
乗ってしまえばもう大丈夫だろう。
…………
安心したのに、まだドキドキする胸の内。
正二君。
インターン時代から同じ職場に。
卒業してからまた一気に垢抜けて、でも内面は変わっていなくて。
章君が正二君の弟?
あれ?どういうこと?
なんで今、こんなことになってしまったんだろう。
東京の夜景が眩しい。
元の職場や大学関係さえ気を付けていれば、もう出会うこともないと思っていた人。尚香は今日、章と会った目的や決意をすっかり見失い、ただただ動揺で夜を過ごした。
***
一方章の方は、どうにか会食をしてから二人で章のマンションに帰った。
「章く~ん。」
「…………」
「なんでそんなに落ち込んでるの?」
正二はなぜか沈んでいる弟を見る。
「もしかして彼女、重病とかじゃないよな?」
「……違うってば……。」
「ケンカしたとか?」
「………してない。」
「直前にフラれたとか?」
「……………別に………」
ある意味、フラれたのかもしれない。
これ以上、今はあれこれ考えられない章は大事なことを思い出す。
「あ、洋子さんとこには行った?」
「今回は行ってないけど?」
「ちょっと待ってて。」
と言って、席を外し電話をする。電話先で洋子に、兄正二に尚香の話はしたのか聞き、これからも言わないように釘を打っておく。尚香自身が自分の話を親戚や知り合いにしないでと言っておいたらしく、そんな話はしていないと言っていた。良子にも電話して口止めをしておく。
安心するも、あの洋子さん。気分屋の上に間抜けなので気は抜けない。
そもそも自分は何をしているのだ。
なぜ、兄と尚香の防波堤になっているのだ。
リビングに戻って行くと聞かれる。
「彼女、母さんも知り合いなのか?」
「あ、違う。そういうわけじゃない。別件。」
「………。」
「母さんと最近は話すのか?」
「……………」
兄が不思議そうに見ている。
なぜってそうだ。これまで章は洋子には本当に必要なこと以外連絡せず、何かあっても間に人を通していたのだ。怪しすぎる。
「……いや、ただの急用………。」
「………どうしたんだ?」
「………どうもなにも……なんにも………」
いつものソファーで布団にくるまって丸くなる。
「なんかあっただろ!」
と布団をはがされ、クッションも取られた。
「あー!待って、やめて!!」
布団だけサッと取り返すも、何を言っていいのか分からない。
父と同じ、怒っても柔らかそうな顔をした兄と目が合った。
父の方が引き締まった顔をしているも、二人はよく似ていた。
兄の方がいつも笑っているからか、目も細く、章と同じで少しだけ髪が茶色く柔らかい。どこかに外国の血が混ざっていると言われればそうだし、純日本人だと言えばそうだなとも思える何とも言えない顔。
「数時間前までは好きな顔だったのに………」
弟にそんなことを言われて兄は動揺する。
「彼女の顔、急に嫌いになったのか?それはないだろ。」
「……違うけど?」
尚香ではなく、憎むべきか。兄の顔。
そして、多分。尚香さんが好きだった顔だ。
「兄ちゃんキライだ……」
「は?俺?彼女じゃなくて俺?なんなんだ?」
と、髪をぐしゃぐしゃにされる。
「……だから何だ?言いたいことがあったら言えよ。聞いてやるから。」
あなたのせいでやっと付き合ってくれそうな人が逃げて行きました、とは言いにくい。さすがの章でも今言うべきでないと分かる。言ったら尚香の信頼と、得体のしれない何かを失ってしまうだろう。
「………彩香さんは来ないの?」
彩香は兄正二の妻だ。そして尚香の親友。
「彩香は仕事だな。そのうち帰りたいとは言ってたけど。でも彩香が帰るなら東京より実家だろうし。向こうの妹さんまた姪が生まれたし、上の子も大きくなって彩香と会いたいって言ってかわいいらしい。」
「そう………」
「でも、そろそろこっちにも来たいとも言ってたけど。」
「っ!」
それはどうしたものか。
「彩香さん、こっちでは誰に会うの?会社の人?」
「それもあるし……。いろんな集まりや……大学の友人かな。」
「………」
大学……。しかし大学とて、いろんな人間関係があるだろう。尚香とは限らない。
「昔の知り合いで集まりたいとはずっと言ってるんだけどな……。連絡先も変わって、なかなか都合が合わなくて……」
「……まあ、そういうこともあるだろうね。」
「……………」
兄は、困ったように笑った。連絡が取れなくなった、尚香のことか。
「何で章がそんな顔をするんだ。」
「………別に……」
尚香と美香と彩香。
泊まり合って、旅行もして、一番仲が良かった大学の親友。
今の関係はどうなのだろうか。
仕方なく布団を体に巻き付けて起き上がる。
「兄ちゃんラーメン食べる?」
「いらんけど。布団が汚れるぞ。」
それを無視して、胸から布団を下げ、ずるずる引きずったまま台所に行き袋麺を作った。何かにすがっていないと、どうしたらいいのか分からない。
「今日は塩ラーメンの気分。」
そう言って、塩ラーメンを見せて卵を入れるか入れまいか、自分が食べるのに兄に確認する。
「タンパク質は摂ったらいいな。」
「うん。じゃあ入れる。」
「あったらモヤシかネギも入れるといいぞ。」
「道さんが冷凍したネギがある。」
「そうか。」
「俺、卵上手に割れるようになったんだよ。黄身、潰さない。」
向こうからグッドサインが送られる。
いつも無意味な発言をするが、さらにあれこれ言ってしまう。これ以上詮索されないように。
章はどうしたらいいか分からなかった。
やっと、何か決意してくれた尚香さんだったのに。
ここ数カ月かけて、慎重に慎重に築いてきた何かが崩れそうだった。
***
『少し時間をちょうだい。頭の整理がいるから。』
あの夜の翌朝、尚香は章にそれだけメールを送った。それから既に3日。何もない顔で日常業務をしつつも、手が止まる。
分かった。
やっと分かった。
章に対するなんだか親しみのある、懐かしい感じ。その理由。
「正二君。」
パソコンを向いたまま、ボソッと呟く。
………正二君ではないか……。
何となく気の休まる声、話し方。
章の寝顔を初めて見た時の……あの安心感。
「!!」
あの、感覚の正体に気が付く。
正二君だったのか!!
やっと自分の中のあれこれが一致する。
そう、そうだ。章は正二君に似ているのだ。
パッと見は分からない。
そもそも章の最初の印象は、こんな時代に大声を出して一気飲みをする人たちとつるむイキったチャラい若者。深く被った帽子にサングラス、崩したトップスに、今の若者が着なさそうなスキニーをも着こなす余裕。あの日はジャラジャラと着けたアクセサリー。まともな社会人なら、多くの女性が関わりたくないという類の層であった。正二は真逆だ。
正二からも、あんなパンクなバンドをするような兄弟がいるとは聞いていなかったし、そんな発想もなかった。正二はどんな人とも仲が良かったが、本人は思ったより地味な、素朴で気のいい、普通の家庭の普通の青年だった。
……だった。
そう思っていたのだ。尚香の中では。
呆然としてしまう尚香を、兼代や柚木たちがじーと眺めてしまう。