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スリーライティング・下 Three Lighting  作者: タイニ
第二十章 飛び出すクイーン

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13 木漏れ日の記憶




ジノンシーの夜7時。


「金本さん、上がるの一緒なら少し飲みませんか?四谷さんたち営業も一緒です。」

そう声を掛けて来たのは、久しぶりの久保木だ。



酔いが回ってきた頃、一人が聞いてしまう。

「金本さん。最近庁舎君とはどうですか?」

「…………」

黙ってしまう尚香に周りが気を遣ってくれるが、尚香は普通に笑って答えた。

「もう会ってませんよ。」

「え?」

「……やっぱり業界が違い過ぎるし……」

「……そうなんですか?」


少し離れた席にいた久保木もそれを聞いていた。





「金本さん!」

先の店を解散すると、久保木が尚香の方にやって来た。二次会に行く行かないを話しながら、周りがざわついている中、二人は少し端に寄った。


「あの金本さん、山名瀬章とは別れたんですか?」

「別れたというか……」

お付き合いしましょうという手前だったのに、別れたと言うのか。

「……付き合ってもいません。」

「…どうしたんですか?」

「………」

どうしたも何も、どう説明すればいいのか。

「……ただ、もう会うのをやめました。」

「!」


少し驚いた顔で見ているも、久保木はみんなと別れ、尚香を連れ喧騒を歩く。騒いでいる中だったからか、あまり注目されずスッと輪を出られた。



そして、少し開けた場所で聞いてしまう。

「本当に?章と?」

「あの、でも……嫌いでとかでなく、家庭的な事情があってなんですけど……。あれこれ、難しいなって……」

「なら……一人なら………やっぱり私と付き合いませんか?」

「……それは無理です……」

それは尚香にとってあまりにも虫が良すぎるように思えた。



それでも、久保木のことは?

正直好きだ。男性として愛しているとかまでいかなくても、一緒にいて楽しい。ただ好きなだけでなく信頼もできる。


最近のこの、誰かに好きになってもらえるという機会を逃したら、自分はこの先結婚できるのだろうか。



久保木ははっきりと言う。

「私は構いませんから。」

「………え……」

尚香はこの積極性に驚いてしまう。

「でもちょっと……気持ちが落ち付かないことがあって……。今、誰かを好きになれるかも分からなくて……」

「好きでなくとも構いません。」

「?」

「…少し、付き合ってみませんか?何となく、他よりも少し近い感じで。」

「あ、あのでも………」

これでは章と同じ関係ではないか。



困っている尚香に久保木はここだけ遠慮がちに言う。

「こんなこと言ったらあれなんですが…………体の関係とかはなくていいです。」

「………」

尚香は少し赤くになってしまうも、付き合うと言うなら必要な話だろう。久保木としてもこんな怯えていそうな女性に手を出せるわけがない。でも、近くにいるだけで安心もし、そして楽しい。


「……家とかにも呼びません。でも他の人より特別で、少しだけ一緒に食事をしたり、少し出掛けたりできたらと思って………。」

「………」

「ちゃんと付き合うとかでなくいいです。取り敢えず、お試し期間な感じで……。気晴らしでも構いません。相談事があったら気兼ねせず呼んでくれてもいいし。人生を先に進ませるために利用してもらっても構いません。」

「………」

「ちょっと特別な男友達でいいです。それでいいと思えればそのまま………」


二人の間にしばしの沈黙が訪れる。

尚香だけでなく、久保木も赤い。


まさか30半ばで、こんな胸が高揚するような相手に出会うとは思ってもいなかった久保木。

そして尚香も、章とよりずっとしっくりくるように思える久保木との生活。世間に怯えることもないだろう。付き合ったところで誰かに後ろ指を指されることもなく、自分たちだけで関係を築いていける。



何より、そこには正二がいない。



最後に会った頃、泣きそうだった彩香(さやか)を思い出す。


『ねえ、避けてる?』

『私、何か言った?』

『尚香!ちゃんと言って!』

『正二と付き合ったこと、怒ってるの?』


『そんなことないよ。ちょっと疲れちゃっただけ………』


際沢の件の傷が癒えていないのかと、それ以上何も言わなくなった彩香。彩香は、尚香が自分の後処理に正二を巻き込みたくないと言っていたことを知っていたからだ。


正二は尚香の一番辛かった時期の、象徴のような人になっていから。



それがトラウマのような苦しさでもあり、恋愛とかに不器用だった尚香には――


熱くて胸が詰まるような時間だったことを、彩香は知らない。





しかし、尚香は大事なことを思い出す。

「でも、社内ですよ?」

「今更ですか?」

「…………今更ですね。」

既に一度そう言われていたではないか。


「とりあえず1週間くらい!」

「……1週間。」

思わず笑ってしまう。



尚香は自分の中の結論がほしかったし、久保木は初めて嫌悪感なくずっと手を握っていたい人だと思った。


そして久保木、やっと一歩進める。

海外にいた時は、こんな男女付き合いがあるなんて思ってもみなかった。こんなに何もかもが慎重で、こんなに何もかもが楽しくて。



久保木はつぶやく。

「とりあえず……」

「……?」

「少し二人で飲みに行きましょうか。デザートでもいいですけど。」

尚香はコクンと頷いた。




***




尚香は思い出す。




なぜ正二(せいじ)君は自分と仲良くしてくれたのだろう。ゼミ生もサークルメンバーも他にたくさんいたのに。




図書室にまで現る多賀正二は、尚香にとって本当に変な人だった。



「……『途上国における相互の向上システム』『改革の畑』『中国のあの山で』『シュバイツアーの真実』………」

勉強をしている横で、尚香の借りてきた本を勝手に見ているのは、2年後輩の正二だ。人の借りた本を読み上げるとは失礼な。チラっと見ると、その姿さえ様になっているので、文句も出て来ずなんだか黙ってしまう。

「…………」


「………渋いの読むんだ………。」

「数学や哲学書より簡単だよ。渋くないし。」

参考書を見たまま尚香は答える。『改革の畑』は途上国の農地改革やそこで起こった問題などを扱っている。他にも統計や様々な白書が積んであった。


「これも……、いい本ですね。」

『中国のあの山で』は、まだスマホがなかった時代、絵本を翻訳し、中国の良き昔話も掘り起こし、紙芝居をして回った日本人のノンフィクションだ。電気も水道も未発達な山村で、村長の家以外は夜は真っ暗になるほどの場所も。それでも明るく育つ子供たちとの交流が描かれている。

「これ、次、借りてもいいですか?」

「……それは私の本です。」

「あ、そうなんですか……」

「借りていいですか?大事にします。」

「……勉強したら?」

「プっ」

と正二が笑い、普段から細い目がさらに細くなる。

「これが勉強ですよ。」



正二は興味深そうに、尚香の近くにある本も覗き込む。

「『シュバイツアー』……好きなんですか?」

「………批判もあるけど、それはあの時代を考慮してないよね…。」

と、無駄に話しかけてくる正二にボソッと感想を言った。邪魔をしないでほしいと思うも、ふと彼を見上げる。

「……多賀君、シュバイツアー知ってるの?」

今時の子は知らなさそうだ。尚香も今時の年代ではあるが。今日、初めて目が合って、先までの防御全開からの無防備な顔に正二は思わずクスっと笑ってしまう。


「うち、伝記絵本、伝記の児童文学、文芸系まで伝記がいろいろあるんです。子供の頃全部読みました。」

「え!ほんと?」

尚香が食いついてきて、正二は少し楽しくなる。

「半分以上絶版だから守らなきゃって。自分まだ子供で、親戚の叔父さんたちが捨てる前に、祖父や父の本を運び出すのが大変でした……。」

子供の時に、本を守りたいと奔走するとはなんという子供だ。

「誰のがあるの?」

と話題が膨らむ。


「田中正造は?」

「3冊くらいあったかな……」

「え?ほんと?読みたい!え?コルチャック先生は?もしかしてある?」

「コルチャック………え?、知ってるんですか?」

正二は驚く。家族以外で知っている人に初めて出会ったからだ。


「あります。」

「うそ!全然見付からなくて!」

いつも仏頂面なのに、こんなに楽しそうな金本さんを正二は初めて見る。


「貸しますか?」

「いいの?でも絶版なんだよね。」

「尚香さんなら大事に見てくれそうだし。でも、俺には貸してくれなくて、尚香さんは借りたいって言うんですね。」

「………ごめん……借りて。」

と先の本を渡すと、正二は得意そうに受け取る。


「多賀君、あのね。ほんと、家の本、大事にしてね。」

「『ほんと』を言い過ぎですよ。」

「……そう?」



正二に口と寛容さで勝てない気がして、また作業をしていると、何かふむふむ読んでいる。

「尚香さん……大胆なの読………」

「……え?」

「……あ、いえっ、何でもないですっ」

と、その本を隠すように戻しているので尚香が気が付いた。

「あ!違う!それ、間違えて買ったの!」

慌てて隠す。


『私は甦る』。女性が一人の人間として認められない時代や国の人権侵害を乗り越え、這い上がって来た女性作家の書だ。この本はドキュメントではなく、彼女の逃亡先である地域を舞台にした半恋愛小説だったのだ。途中途中、ちょっと濃厚な。官能小説……までは行かないほどの。


何も言わずにそっと机に戻すべきだったと思う正二と、アワアワしている2年上の先輩。


ちょっと面白くてまた笑ってしまう正二に、小声で怒る。

「あのねっ。ここ図書室なんだけど!」

「今、誰もいません。」




あれからだっただろうか。


もう少し仲良くなったのは。




そして気が付く。尚香が借りた本が、章か洋子のマンションにあったかもしれない物なのだ。


信じられない。



笑っている彼は、かっこいいというより、優しい人で、本当に青い並木のように爽やかで。周囲の大学生より遥かに大人のようで。でも、子供なのか大人なのか分からないような人。


そして、ものすごく芯も強いと知るのは、社会人になってからだった。




今も優しい思い出で、新緑に光る、懐かしいあの頃。







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