10 清書した人、見付かる
午前中。洋子のマンション。
「洋子さん、鎮痛剤。ちゃんと飲みました?」
車に乗り込む洋子に心配そうに聞く尚香。
「ちんつうざい?何?お薬?」
「歯、痛いんじゃないですか?」
「『は』?お口の事?」
「良子ちゃん、お母さんが歯医者行かないから大変だって!」
そう、昨日の夜、ママがもうずっと歯医者に行っていない。大変だって言ってる!いろんな人に聞いたけど付き添いもいなくて焦り声で電話が来たのだ。
神経までいっていたら大変だと、朝一で連れて行くと約束したのだ。
「………痛くないけど?」
「…え?歯が痛いって……」
「毎年京子おばさんがスケアリングに連れて行ってくれるけど、もうずっと行ってないから虫歯になったら大変だって言ってただけだけど?」
「…………」
尚香はハンドルに顔を伏せてしまう。
洋子にももう関わらないつもりでいたのに、痛がっている病人を放っておけないと、家に他の家族がいないことを良子にきちんと聞いて急いで来たのだ。
「なら、歯が痛いわけではないんですね……。」
「……一緒に行けないの?」
心の底から残念そうな顔をする洋子に、心でため息をついてしまう。仕方なく尚香は車を走らせた。
都内のきれいなテナント。
歯科助手に事情を説明して尚香も診察台まで入れてもらい、少しだけ洋子の手を握って安心させてから後はお願いする。寝るときに靴を脱ぐのか脱がないのかも分からないし、上がれますか下がれますかと言われると、どちらに動けばいいのか分からず混乱するらしい。
本当に子供みたいな人だなと思いながら、少し開けた空間のオシャレなソファーに座って洋子を待つ。
ピアノ教師であった洋子。
そっけない口調だが、実は音楽の先生としてはそんなにキツい人ではなかったらしい。要望があれば高度な技も教えたが、多くの生徒が週1、2回通うほどで高いレベルの育成を目指していたわけではない。
厳しかったのは、言うことを聞かない大人の生徒と………
そして、自分の息子だけ。
そもそも章は、言うことをほとんど聞かなかったし、そんな息子が将来みんなと同じ生き方ができないことを非常に恐れていた。
自分が親に虐待されていたと思ってもいなかった洋子は、おかしな子供を自分と同じように育てたのだ。
洋子と違って章は自分で逃げていくので、洋子の方が状況はひどかった。洋子は叩かれても閉じ込められても逃げない。逃げる歯向かうという発想すらなかったのだ。章は、自分が不快だとサッサと逃げる上にすこぶるすばしっこかった。
実際章は、周囲と同じ生き方ができないタイプではあったが、同時に洋子と同じく一定の分野に関する高度な記憶力を持っていた。
けれど、それがなんの役に立つのか。
あらゆるものの総合の故に活きる能力だ。
この子には自分の隣にいた『道子』もいない。全てを持て余すだけ。もしくは邪魔になるだけ。
そんなものよりも、普通に会話が出来て、ちょっとした計算も出来て、普通に何も怖くない生き方が出来たらよかったのに。
なので、せめてまっとうに育てようと、自分の父のように厳しく育ててしまった。まっとうに生きるという意味すら分からなかったのに。
洋子は、道子のような手助けを、その役目を章の兄、正二が担えると考えたこともなかった。だから仲の良い兄弟を引き離せたのだ。
お父さんが大好きな、弟が大好きな、とっても優しい子だったのに。
全く畑の違う同士だったので技能までは求めなくとも、生活はきっと兄と支え合っていけたのに。
むしろ、正二の人生の足枷になると思ったのだ。この子の面倒を見て疲れてしまわないように。
自分が、道子や正一に負担を掛けてしまったように。自分には、そんな道子のように面倒見がよく優しかった息子を近くにおいて。
「…………」
待合室に飾ってあるシックなシャンデリアを見上げながら、尚香はボーとするも気が付く。
そのお兄ちゃんこそ、正二君ではないか!
章が大好き大好きと言っていた兄こそ正二君なのだ。そりゃあ、大好きになるだろう。嫌いになる要素がない。
そして気が付く。
正二君を育てたのは、洋子さんなのだ。
気に入られていたとはいえ、あんな気分屋の女性に育てられても、あんなふうに育つのだ。父や弟と引き離されて、連れ子として継父の元に行き、ケンカ三昧の挙句また離婚してまともに働けない母と家を出て。そこでさらに弟妹と引き離されて。
そして最後に、親戚たちに学業を理由に母洋子とも引き離されて。
正二は、親や父の再婚相手である外国人の道に難しいことがあれば、様々間に入って処理してきた。自分は長男でも多賀になってしまったのに。
山名瀬の名を変えられてなお、山名瀬家のために。
そう、学生の頃から。
普通だったら人生と大人を怨みそうである。
すごい………。
何が正解だったのだろう。
たしかに正二にとっては、面倒を掛ける母と弟の世話を最後までせずに済んだことは良かったのかもしれない。今時な考え方をストレートに当てはめれば。
そのおかげで好きなだけ学業や仕事に励めたのだろうか。
でも、その延長に自分や彩香がいたのだ。
……………あれ……?
「!」
そういうことだよね?と、気が付く尚香。
なんということか。章と暮らしても正二は同じ大学に進学したかもしれないが、なんだか正二と章に申し訳なくなってくる。こんな面倒を掛ける家族親族がいなければ、正二は学生時代に既に海外に行っていたのではないだろうか。久保木同じく日本では狭苦しそうな性格だ。
一点だけ、その人生を否定できないのは彩香だ。
その人生の先で、人生を共に歩む人を見付けたのだから。
「多賀様のお連れ様。」
「はい。」
そこで歯科助手に呼ばれて尚香は説明を聴きに行く。結果、とってもきれいな歯です、と言われたのであった。スケアリングもすぐ終わり、ほとんどすることもなかったという。
「私、頑張ったでしょ?ちゃんと起き上がらずに寝てたし。」と得意そうな洋子。
そして、
「でも、あいつは、私の歯がきれいなの、『家でヒマだから、無意味に磨く時間があるだけだろ』とか言うの。」
と、プンプン怒っている。章のことであろう。
「ははは。家にいてもきれいにしない人はいますから………」
その上何ということだろう、そこでまた章を思い出してしまう。なぜ章は10代でもう2本もインプラントにしていたのだ。
それからやっぱり、このまま帰るにはあまりにも寂しそうなので、しょうがなく食事に行くことになった。
意外にも洋子がステキな店を知っているという。
「知り合いのお店なんだ。昔ここで演奏したの。」
「………え?章君とか来るライブハウスじゃないですよね?」
「……あいつが知るわけないし。」
「…………」
言い方がひどいもホッとする。
「お店の名前で検索したら、まだ経営してるって。世田谷区架利季の『ワナレッタ』。」
検索すると確かにあるので写真を見せる。
「そう、ここ。行ける?」
「はい。」
そう言って着いたところは、都内ながら緑も程よくある、きれいなフレンチ系創作料理であった。
そしてこれは尚香も気が付いていなかった。
その場所は、洋子がずっと避けていたお店だ。『道子』と行った場所は、どこも行きたくなかった。けれど、洋子は自然にそこに足を踏み入れていたのだ。
「尚香ちゃんに見せたくて。」
そう、うれしそうに笑った。
中は思ったより広い。
「……色が違うしきれいにはなってるけど、お店の中の物、あんまり変わらないな……」
30年近く前でも今と変わらないんだ驚くほどステキなセンスの内装だ。昔のモダンアートもあり古臭くなりそうなのに、今の時代でも全然通じる。
でも尚香、メニューを見てちょっと驚いてしまう。先検索した時、直接ナビに入ったので気が付かなかったが値段がない。
「洋子さん……、ここ、高くないですか……?」
「安心して、今日は奢るから!」
「え?……大丈夫なんですか?」
「ふふ、大丈夫。」
尚香が検索してみると、ランチはメインとライスかパンか選んで、後はお任せで2500円とあった。安くはないが、この雰囲気で都内なら特別高くもない。取り敢えずホッとする。
食事をしながら、最後のデザートで尚香は言うべきことを言う。
「洋子さん、私、もう章君とは会わないし……、なので洋子さんにも会えません。」
「?……急にどうしたの?」
「きちんと婚活することにしたので、会えません。章君は男性でしょ?」
「章とお付き合いするんじゃないの?」
「………………しません。」
「………どうして?」
どうしてと言われれも困る。正二君の弟だからだ。
だいたい、あなたが正二を育てたのだ。もう、直結ではないか。
「私みたいなのが、義母になるから?」
先まで澄ましていたのに、もう泣きそうだ。
「まさか!男女ってそんな簡単な話じゃないので!単に…単に違う人生を行くだけです!」
「…………」
「洋子さん?」
「……章と私は別個にはならないの?」
「………」
やはり洋子、単純に考える。
「あれ?洋子ちゃん?」
と、そこに急に声が掛かった。
「………?」
洋子が振り向いた方に、少しだけ渋い、でも顔の整った男性がいる。
「やっぱり洋子ちゃん!」
「………広大さん?」
「あー!!やっぱり洋子ちゃんだ!!」
「………久しぶり……。」
その男性は、このお店に不釣り合いなTシャツとブカブカなカーゴパンツ。でも、引き締まった顔と雰囲気が、不自然さを感じさせない。
そこで、尚香と目が合うのでお互い会釈をした。
「こんにちは。洋子さんの知り合いです。こちらは?」
と、広大と言われた男性が洋子に聞く。
「あ、えっと、あの、お友達です。」
と紹介されてしまうので、ペコっともう一度頭を下げる。洋子にしてはよくやった。フルネームで紹介されそうなのに。
「……洋子さん………。あれからここ、初めてじゃない?」
「………うん。尚香さんにご馳走したくて………」
「……あ、コウカ………え?尚香さん?」
と自分に振られる。やはり洋子、一瞬で口が滑ってしまった。
名前を聞いて広大と言われた男性が嬉しそうだ。
「洋子さんを連れて来て下さってありがとうございます!」
「……?オーナーですか?」
「まさか。この店のすぐ近くにうちの建築会社があるんです。会社ぐるみでここのお得意です。」
「へー……そうなんですね!」
と、その勢いで、名刺を渡される。
「山名瀬広大と申します。」
「あ、はい……………へ?山梨?」
「山名瀬です。」
「……………つ!!」
ひぇっと驚く。新たな山名瀬家がまだいたとは!
「………え、あ……私、建築会社なんて大それたこと、何の繋がりもありませんので、お名前聞いただけで結構です……。」
と、名刺を返そうとするも、いっぱいあるんで捨ててもいいので貰って下さいと言われる。でも捨てる時は、きちんと刻んでね、と冗談か本気か分からない事まで添えて。
「じゃあ、デザートは御一緒しようかな?」
と、一緒の席に座ってしまった。
………え?
と、何とも言えない思いになる尚香。
相手に断りもなく強者だ。山名瀬家と会うのはこれでおしまいと思っていたのに、どういうことか。増えたではないか。
そして、自分は洋子の元夫の従弟だと名乗る。章の父の従弟だ。近況を話しているので、これは正二や章の話が出てきたらどうしようかと思うも……
もっとすごいことを言われてしまった。もう目が点になる。
「あれ?……あ?」
かっこいいおじさん……広大は少し考えて急に尚香の方を見た。
「あれ?尚香……さん……ですよね?」
「え?あ、はい。そうですけど?」
「あー!やっぱり!ならもしかして上手くいったの?」
「はい?」
何がだ?なぜ初対面の人にこんな結果公表みたいなことを言われるのだ。何の話だ。
「え?お見合い!」
「へ?」
「俺……あ、私です!」
「え?」
この人とお見合いした覚えはない。山名瀬章、26歳スペースデザイナーとしたのだ。
「私が清書したんです。」
「…………?」
「身上書!」
「!!!」
尚香、信じられないところまで引き戻される。
この人が書いたのか。あの詐欺釣書!
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