異世界転生地獄
男は深い闇の底で、自分が死んだという事実に気づいた。
それまで感じていた身体の痛みは消え、意識だけが宙を漂っている。
冷え切った死の感触が静かに包み込む中、突如として頭の奥を激しい衝撃が駆け抜けた。
視界がぐらりと揺らぎ、次の瞬間、まばゆい光が雪崩れ込むように瞼を焼く。
気づけば、そこには絵に描いたような王国が広がっていた。
石畳の道の両脇には露店が並び、華やかな服装をまとった人々が行き交っている。
城門の向こうには高くそびえる白亜の城が見え、見上げる先には蒼い空がどこまでも澄み渡っていた。
男は心臓がまだ微かに鼓動していることを感じながら、自分がよく知る世界ではないことを理解した。
騎士の鎧をまとった男たちが笑い声を上げつつ通りを巡回し、路地裏からは商人の呼び込みらしき声が聞こえてくる。
男はまるで童話の中に迷い込んだような光景に唖然とする。
そうしているうちに、眼差しを向ける人々の様子が少しずつ変わっていくのを感じた。
最初は歓迎するように微笑んでいたはずなのに、その笑みが奇妙にひきつり、いつの間にか人影は薄墨のように溶け崩れ、足元から黒い染みがにじみ出している。
気がつくと、先ほどまで青かった空がどす黒い赤へと塗り替えられ、城門はひび割れて血のような液を滴らせ始めた。
露店も石畳も次第に荒れ果てた色を帯び、活気に満ちていた通りは見る間にゴミ屑だらけの廃墟へと姿を変えていく。
男が頭を振って悪夢を振り払おうとしたとき、胸を締め付けるような圧迫感に襲われた。
視界が揺れたかと思うと、一瞬にしてあたりは荒涼とした大地へ切り替わる。
延々と続く背の高い枯れ草が風に煽られ、空はまるで血を流すかのように深紅の色彩に染まっていた。
さきほどの城など、もうどこにも見当たらない。
まるで初めからそんなものは存在しなかったかのようだった。
草むらをかき分けるように歩き出すと、やせ衰えた獣の屍が無数に転がっている。
その死骸の周囲を小さな虫がはい回り、羽音と腐臭が男の鼻腔を苛んだ。
ひたすら続く荒野を見渡しても、そこに人の気配は感じられない。
まるでこの世界そのものが男を嘲笑うかのように、不気味な沈黙だけがあたりを支配している。
上空を旋回していた化け物めいた鳥が、鋭い声を上げた。
翼にこびりついた黒い羽根が一枚ずつ腐り落ち、空中でぼろぼろと崩れていく。
その鳥は突然、獲物を見つけた猛禽のように急降下し、男へ向かって長い爪を振りかざした。
男は必死に逃れようとするが、あっという間に肩を裂かれて熱い血が吹き出す。
思考が止まるほどの激痛に襲われ、地面へ倒れ込む男をさらに追撃するように、鳥は狂気に満ちた眼で鋭利な爪を振り下ろした。
男は何度も身体を裂かれ、その視界は真っ赤に染まっていく。
そして意識は底なしの暗黒へと沈んだ。
身体の感覚はおろか、思考さえも半ば霧散しそうになるが、不意に誰かに荒々しく引き上げられるような衝撃を受けた。
再び目が開くと、そこには壮麗な城塞のある中世風の街が広がっている。
だが人影はなく、城壁をよく見ると黒ずんだ血痕が無数にこびりついていた。
男は重苦しい静寂に飲み込まれそうになりながら、廃墟と化した路地を進んでいく。
すると、奥から甲高い笑い声を上げる女が姿を現した。
服はぼろぼろで、髪は埃と血で固まっているが、その表情は妙に歓喜に満ちている。
男は問いかけようとするが、声が出せない。
すると女は「あなたもすぐに同じ目に遭うわ」と囁くように言い放った。
言葉の意味を理解する暇もなく、彼女の背後から黒い羽根の生えた腕が伸び、男の胸を貫こうとする。
男は反射的に身をそらし、首をかすめた一撃を何とかかわす。
しかし地面は液状の黒い泥に変質し、足を取られて逃げることができない。
腕は容赦なく振り下ろされ、男の全身を腐った血の匂いが包む。
再び訪れた死の瞬間も、やはりこの悪夢からの解放にはならなかった。
次に意識を取り戻した場所は、骨の内側のように白く光沢を放つ四角い部屋だった。
壁も床も天井も同じように白く、そこには人形じみた子供たちが立ち尽くしている。
ただし、その瞳はくり抜かれ、空洞からは黒い液が垂れていた。
男が一歩踏み出すと、不意に一人の子供が首をぎこちなく捻って声なき笑いを始める。
すると、ほかの子供たちも同じように身体をねじ曲げ、男へ向かって這い寄ってくる。
扉も窓もなく、逃げ道を探そうにも白い壁はどこまでも続いているように見える。
子供たちの指は爪先まで裂けて奇妙な形に伸び、男の首を容赦なく締め上げていく。
喉が潰れ、苦悶の叫びも声にならないまま意識が遠のいた。
しかし死の訪れとともに訪れるのは、またしても始まりの場所だった。
今度は青黒い霧が渦巻く狭い洞窟の中で目を覚ます。
岩肌には異様な模様が刻まれ、天井には無数の目玉が張り付いている。
男が一歩踏み出すたびに洞窟の底が脈動し、心臓の鼓動のような震動が足裏から伝わってくる。
次の瞬間、地面から突き出た人間の腕のような塊が男の足首を掴み、底へと引きずり込もうとする。
蹴りを入れて逃れようとするが、腕はまるで蛇のようにうねり、男の胸や首に巻き付き始めた。
さらに天井の目玉たちが一斉に大きく開き、血の涙を垂れ流す。
その粘つく液体が男の首筋を伝い、冷たい蝕感が全身を覆い尽くす。
視界がかすんでいく中、男は死の淵へ沈んでいった。
するとまた、目の前には雪に閉ざされた荒野が広がる。
ただし、その雪は人の血を吸ったように赤く染まっている。
吹き荒れる吹雪の彼方には巨大な獣の影がちらつき、吐息が腐った肉の匂いを含んでいた。
やがてその獣は四つ足でこちらへ近づいてくるが、頭だけは無表情の人間の顔をしている。
空虚な目が男を見据え、吠え声とも呻き声ともつかない唸りを上げた。
男は凍てつく大地に足を取られて動けず、あっという間に獣の牙が肩を噛み砕く。
鋭利な激痛が全身を襲い、男はその場に倒れ込んだ。
追い打ちをかけるかのように次の噛みつきが迫り、視界は白い光で塗り潰される。
しかし、死は終わりではない。
男は何度も何度も世界を巡り、生まれては即座に命を絶たれる輪廻に囚われる。
鉛色の空の下に倒れていたかと思えば、血に染まった衣装のまま仮面劇の舞台へ引きずり出されることもある。
どの世界でも、彼を待ち受けるのは凄惨な破滅だけだ。
剣で貫かれ、毒で蝕まれ、焔に焼かれ、深淵に落とされる。
耐え難い激痛は何度でも繰り返され、そのたびに男の絶望はさらに深く刻み込まれていく。
ある世界では、男は自分の体がすでに人間の形を成していないことに気づいた。
節くれだった木の根のようにゆがんだ身体からは茶色い液が滴り、口も目も閉じたまま言葉など発せない。
闇と血潮のようなものが視界を覆い、周囲からは断末魔の叫びが絶えず響いている。
それが自分の声なのか、それともまた別の亡者たちのものなのかすらわからない。
死することと生まれることが等価に繰り返され、やがて男は生そのものを恐れるようになった。
現れる世界はどれも歪みきっており、望むはずの救済は一瞬たりとも見えない。
完全に消えてしまうことさえ許されず、再び転生の扉が男を飲み込むのだ。
さらに別の世界で目を覚ましたとき、男は自分が何者であるか、いつ死んだのかさえ記憶にないと悟った。
唯一明らかなのは、終わりのない地獄の輪廻がこれからも続くということだけ。
次々と舞台を変えて襲い来る悪夢と狂気に、男の魂は引き裂かれながらも再び引きずり出される。
もしかするとこの永遠の転生は、男が生前に犯した罪への報いなのかもしれない。
だが真実がどうであれ、この地獄からは逃げられない。
輪廻の鎖は決して途切れず、出口など初めから存在しないのだから。
最後に目を開いた世界は、夜空が逆さまに反転した都市だった。
ビルは墓標さながらに地面へ斜めに突き立ち、空を泳ぐ巨大な影が人間を餌にしている。
足元の道路はひび割れており、そこから無数の手が伸びてきて男を押さえつけた。
息を詰まらせたまま、男は幾本もの腕に胸を掴まれ、心臓を抉り取られていく。
視界が離れ離れに崩れ、意識は暗闇へ溶けていった。
だが、その死は再び新たな地獄への門へと通じるに過ぎない。
いくつもの悪夢が連結し、尽きることのない狂乱が男を苛む。
彼はもう逃げられないことを知りながら、それでも次の転生へ落ちていく。
祈りも救いもなく、血と涙の混じった空がいつまでも広がるだけだった。
そして男は今また、紅く染まる大地へと墜ちていく。