十八歳のきみ
ぶくぶくぶく
ごぼぼぼぼぼっぼっぼ
激しい渦の中で、酸素を失いかけた身体が生への執着を見せるように、海面の方に腕を伸ばす。けれど当たり前のように、腕が空気を掴むこともなく、私は海の底へとのみ込まれていった。今度こそ本当に死んでしまう。これほどまでに死を身近に感じたのは、十五の夏以来だ。まったく同じ状況で、私は自分の人生を顧みる。頭に浮かんだのは父と母、そして翔の顔だった。
……。
………。
「……っ」
息を吸う。空気が肺いっぱいに満たされる。まるでそうすることが台本にあるかのように、ゴホゴホと咳き込んで、ぱっちりと瞼を開いた。
まぶしい、とは思わなかった。
なぜなら、目を覚ました先には淡路島の星の夜空が広がっていたから。クラクラとする焦点をなんとか定めて、自分が今いる場所を把握する。夜の海。防波堤。隣で息をする、彼の気配。季節外れの長袖のシャツを着た翔が私の隣で息をしていた。
「なあ朝香。俺たち別れようか」
吐き出された翔の言葉は、十年ぶりであるにもかかわらず、初めて聞いた時と同じ衝撃と混乱を私に与えた。
「俺さ、四月になったら東京に行かなくちゃいけない。朝香のこと……近くで守れないんだ。最初はそれでも離れない自信があった。朝香のことずっと好きでいようって思っていた。もちろん、今でも好きだ。でも俺……やっぱり怖いんだ」
いちいち今がいつかなんて考えなくても瞬時に分かってしまう。十年前のお盆の夜。記憶の中に、鮮明に残っている翔の不安げな声。揺れる瞳。翔が抱えていたものの大きさを知らずにただただ混乱するばかりだった過去の自分を思い出して、胸が抉られるような痛みが走った。
「うしお丸」に乗って渦潮の中に飛び込めば、過去に戻れる。
一度しか経験していなかったから、ほとんど賭けだった。賭けに敗れれば待っているのは死だということももちろん分かっていた。それでも私は、翔を救いたかった。渦潮に落ちて戻る過去はきっと、翔が“後悔”をしている過去だということも予想していた。
私が初めて過去に戻り、保育園時代の翔に会いラムネをあげた時、彼はほっとした表情を浮かべていた。
——後悔してるんだ。
——子供の頃、仮面を被ることなんてせずに、周囲の人に助けを求めていれば良かった。
一昨日、彼が部屋の中で吐露した心境を思い出して、考えた。
中三の時に過去に戻ったのは、翔が周囲に助けを求められずに後悔をしていた場面ではないかと。
その後悔を拭い去るように、私は彼の声を聞いてラムネを与えた。あの時は、彼の後悔を消し去りたいなんて考えていたわけではなかったが、結果的にそうなった。だから今度も、もしかしたら彼が後悔をしているという時点に飛べるのではないかと思ったのだ。
いや……飛べることを祈っていた。
もう一度翔に会いたい。
私と離れる前の、すれ違う前の翔と会って話したい。
真夏の太陽の下で私が願ったことは、誰にでも経験があるような、終わった恋のif物語だった。それでも運命は私の味方をした。今、隣で罪悪感に苛まれる彼の胸から、後悔を拭いたい。本気でそう思った。
「東京には、行かないで」
十八歳の私が言えなかった言葉を、二十八歳の私は震えながら口にした。弾かれたように視線を上げる翔。何を言われたのか、瞬時には理解できていない様子だった。
「はは、何を言うんだよ。東京に行かないと、母さんが死んじゃう」
初めて十八歳の彼の口から本音が漏れた。夜風がやけに目に沁みると思ったら、自分の目が湿っているからだと気づいた。
「死なない。翔が東京に行かなくたって、お母さんは死んだりしない。翔がお母さんと向き合うことが、唯一お母さんを救える方法だよ」
ざぶんという波の音は、昼間に聞くそれとは違っていて、真に胸に迫るような迫力があった。
翔が息をのんで私を見つめる。その双眸に映り込む私の表情は、自分で思っている以上に凛としていた。
「俺が、母さんと……」
「そう。今の翔に必要なのは話し合うこと」
「そうか……。でもやっぱり怖いんだ、俺。ずっと仮面を被って生きてきたから。それを外したら、俺が俺でなくなるようで」
十八歳の翔の口から吐き出された不安は、十年後の彼が吐露したものと同じだった。だから私は、翔の身体にそっと触れた。彼の中に巣食っている恐怖や柵を取り除きたい。ただその一心で、彼のことを抱きしめる。
「じゃあ、二人で逃げよう。翔が東京に行かずに、お母さんと向き合えるようになるまで。私は翔に、どこまでもついていくから」
翔の瞳に、淡い光が宿る。まるで朝が来たみたいに、暖かな陽光に包まれているような気分になった。
翔はひとしきり私を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
それが、私と翔の旅の始まりだった。




