許し
スマホを手に取り、とある人物に電話をかけた。
「もしもし、社長」
『なんだ、朝香。トラブルでもあったか』
電話をかけたのは香風堂の社長——つまり、父だった。職場では「社長」と呼んでいる。仕事中の父は仕事のことに一直線で、それしか周りが見えなくなるタイプだ。たとえ娘に対しても、いち従業員として接してくる。
私は深く息を吸い込んだ。
「……今日の残りの時間、お店の番を代わってもらえませんか」
言いながら、とても緊張していた。
『店番を俺に? 何かあったのか』
「仕事のことじゃ、ないんです。プライベートのことで、緊急事態に陥っています」
電話の向こうで、父が息をのむ気配がした。あの厳格な父が、プライベートな理由で仕事を代わることに、すぐに頷いてくれるとは思えなかった。次に飛んでくる罵詈雑言を想像すると、背筋が震えた。
『……それは、今お前が行かなきゃいけないことなのか?』
予想通り、詳しい状況を尋ねてくる。
「はい、私が行くしかないんです」
『そうか。ダメだな』
「社長……」
やはり、簡単には許してもらえない。それは、父の予定が詰まっているからとか、忙しいからとか、そういう理由ではないだろう。身内だからと言って私だけが甘えを許されるということはあり得ない。父はどこまでも、仕事に対して真摯に向き合っていた。
でも、だからこそ私は。
今ここで、父と向き合うことから逃げてはいけない。スマホを握りしめる手に、ぎゅっと力を込める。手のひらの汗が滲んで、心臓の脈動が激しくなった。
「どうか、どうか……お願いします。自分勝手だということは分かっています。でも今行かないと、一生後悔するんです! ううん、もうとっくの昔から、後悔していました。どうしてあの時、もっとあの人と向き合わなかったんだろう。……お父さんとも、向き合わなかったんだろうって。これからの人生で、後悔し続けるのは嫌なんです。私はこの仕事に、お父さんみたいに誇りを持って携わっていきたい。だから今は、行かせてくださいっ!」
突然大きな声を出して電話で話し出した私を見て、アルバイトの女の子が目を丸くする。私が父と電話をしていることは分かっていたと思うが、アルバイトの前で感情的になったのは初めてだ。店内のお香の香りが、こんな時ばかり強く感じられる。生まれた時から私の人生のそばにあった、なくてはならない匂い。父の匂いそのものだった。
どれぐらい沈黙が続いただろうか。父は呆れて電話を切ってしまったんじゃないだろうか——そんな不安さえ生まれるほどの時間だった。けれど、やがて父が電話の向こうで息を吸う音がして、胸がぎゅっと締め付けられた。
『お前の言い分は分かった。……行ってこい』
信じられない返事だった。今度は私が目を丸くする番だ。私は、「あ、ありがとうございます」と動揺しながら口にした。父がほっと息を吐いたのが分かった。
電話を切った私は、アルバイトの女の子に、「緊急事態で、今から私の代わりに父が来ます。いつも通り、シフトの時間までお願いします」と伝えた。彼女は何かを察したように「分かりました」と頷いてくれる。ここで働いてくれている人たちはみんな、優秀な人ばかりだ。私は、父にも、アルバイトの彼女にも感謝しながら、すぐにお店を飛び出した。




